142 二人きり、だね
「ん……?」
食事の後、リビングに移動して二人で勉強をしていると、高名瀬さんが短く音を漏らした。
僕がやった問題集の答案を見ながら。
「鎧戸君」
「なに?」
「7×8はいくつですか?」
「それくらい分かるよ。56でしょ」
「では、8×7は?」
「52」
「なんでですか」
あれ?
ちがった?
はちしちごじゅうに……
「52……?」
「いえ、7×8が56なら、8×7も56ですよ」
「あぁ~、ひっくり返しの法則ね」
「そんな法則は聞いたことがありませんが。この問題、解き方は合っているのに、途中の計算で間違ってましたよ」
わぁ、本当だ。
「7の段って難しいから、攻略するのが楽しかったんだけど、8の段って、7の段ほど手強くはないくせに微妙に厄介で、うろ覚えで一発OKもらっちゃったら、その後なるべく近寄らないように過ごしちゃう感じ、あるじゃない?」
7の段で力を使い果たして、8の段は深く探索しなかったというか、最短ルートでクリアして、もうさっさと九九の暗唱という地獄から抜け出したかったんだよ、きっと。当時の僕は。
「……その気持ちは、少し分かりますが」
ゲーマー的解説が、ちょっと刺さったらしい。
よし、計画通り。
「でも、気を付けてくださいね」
と、間違った箇所にチェックを入れて答案用紙を戻してくる。
「うっかり平均点以下を取ってしまうと、怒られますよ。りっちゃんと、今水着を買いに行っているお姉さんに」
ずっとねちねち言われそうだなぁ、その二人には。
「……わたしも、ちょっと怒りますからね」
こちらを見ず、「別に聞こえなかったら聞かなくていいですけど~」くらいの声量で、高名瀬さんが呟く。
「楽しみだもんね、海」
「……まぁ、それなりには」
よかった。
引きこもりの高名瀬さんが、外の世界に出て来てくれた。
「今年の夏は、思いっきり焼いちゃう?」
「いいえ、紫外線対策は鉄壁にしていきます」
高名瀬さん、色白だもんねぇ。
「紫外線は、シミやシワの原因になるんですよ」
「そんなの、今の内から気にしなきゃいけないことなの?」
若さで跳ね返そうよ、紫外線くらい。
「……シワだらけのお婆ちゃんになったら、若い娘に目移りするんでしょ、男の方というのは」
少し拗ねたように唇を尖らせて、そんな可愛いことを言う。
抱きしめますよ?
今のはもう、抱きしめられても仕方ないくらいに『可愛い値』を限界突破しましたからね?
よし、これもひと夏の冒険!
今、僕は、勝負に出る!
「高名瀬さん――っ」
抱きしめます!
「た~だいま~、シュウ~水着買ってきたから見せてやるぞ~!」
「――あの駄姉を庭に埋めるので手伝ってくれない?」
「いえ、あの……お一人でどうぞ」
なんてタイミングで帰ってくるんだ、姉!?
というか、姉の水着なんぞ見たくないわ!
「あ~、ポーちゃんじゃ~ん! なになに? 『今日、ウチ家族誰もいないから遊びに来いよ』とか言われたの?」
「言われていません」
「『大丈夫、何もしないから! ほんんんっとうになんんんんにもしないから!』とか?」
「言われてません!」
「何かするよ~、絶対するよ~、ねぇ、シュウ?」
「姉、今までありがとう。それなりに楽しかったよ」
「おいおい、別れの挨拶をするのは、お姉ちゃんのセクスィ~な水着を見てからにしてもらおうか! あ、そうだ、ポーちゃん。水着買った? よかったら一個余ってるのがあるんだけどさぁ~?」
「紐は物を縛るものであって、着用するものではありません」
姉……貴様は、高名瀬さんにアレを着せる気だったのか?
正気か?
「姉でもはみ出るのに、高名瀬さんが収まりきるわけないだろう!」
「そういうことではありません! 収まるとかはみ出るとか言わないでください!」
でもっ!
絶対荒ぶるし!
「荒ぶりたまえ~!」
「やめてください! 掲示板は禁止したはずです!」
ぷくっと膨れて、問題集の後ろの方のページ、まだ教わってもいないところを指さして「ここをやっててください」とか言ってきた。
それはスパルタじゃなくて無茶振りだよ。
その後、姉がダイニングに漂ういい匂いを嗅ぎつけ、高名瀬さんにあり合わせチャーハンをねだり、高名瀬さんがわざわざ作ってくれた。
ごめんね、ウチの駄姉のために。
で、姉が買ってきた水着を、着させずに、未着用の状態で検分した結果――
「これから一緒に買いに行きますよ! 放置は出来ません!」
――と、高名瀬さんとショッピングへ行くことが決定した。
……姉よ。
アレを公共の場で身に着けたら、お前は塀の向こうへ幽閉されるのだぞ。
日本には、法律というものが存在するのだから。
……っていうか、どこで買ってきた、あんなきわどい端切れ。
うん、水着じゃない。アレは端切れだ……




