祈るには遅すぎて、剣を抜くには優しすぎた。
この作品はとある賞に出しましたが、なんの音沙汰もないのでなろうさんで公開します。
なお短編二万文字程度。
※ごめんなさい第一節しかアップできてなかった…
全文アップしました
第一節: 祈りより先に、剣が走った
焼け落ちた木々の向こうで、夕日が死にかけた心臓のように赤黒く染まっていた。
瓦礫の隙間をぬって風が吹き抜ける。崩れた柱、焼け焦げた屋根、ひしゃげた鉄具。人の気配はないが、戦争の残り香だけが辺りに漂っている。
その廃墟の中央に、ひとりの男がいた。
白い神官服を身にまとい、典例杖を背負っていた。足元には、今しがた倒したばかりの暴漢が呻いていた。
黒革を巻いた柄には、小さな布紐が結ばれていた。使い込まれた鞘には旅の傷が残り、鍔には風化しかけた古い聖印が刻まれている。
男は片刃の剣の柄を握っていた。
――なぜ俺は国崩しを抜くのに戸惑うのだろう。
「お前が噂の国崩しの伝承者か!」
叫び声が瓦礫に反響する。男は視線を向けなかった。
「……」
「お高くとまりやがって……てめえの首を取れば俺は有名人だ! 悪く思うなよ!」
――いつもそうだ。国崩しのことを知らない奴らが、売名目当てで剣を抜く。
祈りを解き、柄に手をかける。
そして一閃。
「うぐうああああああ!!」
「叫ぶな」
男が抜いた片刃の剣が弧を描き地面に振ると、べちゃりと何かが叩きつけられた音。
「皮膚を一枚削いだだけだ」
そう言って、鞘に収めた片刃の剣。
いつの間にか削がれた右腕の皮膚と傷を何度も視線が往復する。あまりの速さに、暴漢は腰を抜かす。
「次は命を削ぐ。その覚悟は?」
それは選択ではなく、無慈悲な確認だった。
恐怖に駆られた暴漢は悲鳴を上げ、這うように逃げ去った。
──その背に、男は短く目を閉じる。
傷が、塞がりますように。二度と剣に手を伸ばしませんように。
祈りの言葉は声にならず、ただ風に溶けた。
けれど、暴漢が最後に振り返ったとき、腕の血は止まり、震えだけが残っていた。
男は、ため息を一つ。
木の影に隠れていた小さな気配へと視線を落とす。
「ごめんね、俺のせいで怖い思いをさせて。怪我はないかい?」
幼い少女が、唖然としたまま小さく首を横に振った。
「そっか。じゃあ俺はもう行くね?」
遠くから誰かの呼ぶ声が聞こえる。
「あ! ロザリナおねえちゃんだ!」
少女はぱっと声の方へ駆け出した。
丘の上から、修道服の女がこちらへと急ぎ足で降りてくる。
「神の使いか……」
男は腰の剣に視線を落とし、少しだけ目を伏せた。
女――ロザリナは、駆け寄ってきた少女の身振り手振りに目を見開いたあと、男の方を向いて深く頭を下げる。
「あの、フィオナが危険な目にあったと聞いて……!」
「いや、あの子じゃなくて俺が狙いだったんだ。あの子は、たまたま居合わせただけさ」
「そうでしたか……あ、ごめんなさい。私はロザリナ。この子はフィオナと申します」
「……俺はナギだ」
神官の装いに対して腰の剣。
ロザリナは、ほんの一瞬だけ、言葉にできない違和感を覚えた。
第二節:剣は祈りに答えない
村の外れに残された教会は、外壁こそ黒く煤けていたが、倒壊は免れていた。夕陽はすでに落ちきり、静寂と残光だけが辺りを包んでいる。
祭壇の脇に設けられた簡素な居室に、ナギは腰を下ろしていた。木の椅子は軋み、冷えた石の床が夜の訪れを告げていた。
「こんなところで二人で暮らしてるのか?」
素直な驚きが、ナギの声ににじんだ。
「ええ、二人とも行く当てがないものですから……」
ロザリナは困ったように微笑んだ。
「おねえちゃんといっしょにいるの、たのしいよ!」
フィオナが無邪気に笑う。屈託のないその笑顔に、ナギは次の言葉をのみこんだ。
「でも、ここにずっと住むわけにはまいりません。この子と一緒に聖都に向かうつもりです」
聖都。ナギの眉がわずかに動いた。
ロザリナは気づかぬまま続ける。
「私は、聖職者としてこの教会を離れるわけにはまいりません。けれど、この子を守る責任もあります」
そう言って、ロザリナはフィオナの頭に手を置いた。母のように、慈しむように撫でる。
ナギは逡巡ののち、決意を固めたように口を開いた。
「今日はもう夜も遅い。俺も近くで泊まらせてもらおう」
「わーい! おにいちゃんもいっしょ!」
フィオナがスキップまじりに喜びを表す。
「そ、そんな……女と子供しかいないのに……なんという……」
ロザリナが言いかけ、思わず口をつぐむ。だが、違和感は顔に出ていた。
ナギは静かに聖印の首飾りを見せた。
「俺も聖職者だ」
「おにいちゃん! ここのきょうかいのこと、おしえてあげるね!」
フィオナが手を引いていく。ナギは微笑んだ。
「ああ。頼む」
ロザリナは二人を見送る。その背に、深い溜息を落とした。
*
深夜。教会の椅子で眠っていたナギは、まぶたをかすめる月光に目を細めた。目を開くと、前方の祭壇で誰かが祈っている。
ロザリナだった。
月明かりが修道服を照らし、彼女の姿を神秘的に染め上げていた。
ナギは静かに立ち上がり、ゆっくりと歩み寄る。
気配に気づいたロザリナが振り返る。だが、ナギの顔を見て安心したように微笑んだ。
「ナギ様……起こしてしまいましたか?」
「いや、自然に目が覚めただけだ」
「そうですか……ナギ様は祈らないのですか?」
「祈り?」
左手が微かにひくつく。
「祈って世界が平和になるのならな」
その言葉に、ロザリナの眉が曇った。
「神は等しく皆を見守っています」
「ロザリナはそう思うのか?」
「ええ。あなたは?」
「俺は……」
言葉に詰まる。
「あなたのその腰の剣は命を奪うもの。聖職者であるにも関わらず、それを携えるのは如何なる理由なのでしょうか?」
「……守るためだ」
「守るため? なら、なぜあの子の両親は戦争で亡くなったのでしょうか?」
ナギは黙した。
「剣は守るための道具なのだとしたら、それを向ける相手は守らなくても良い存在なのですか?」
ロザリナの声が揺れる。
「……あの子には、もう悲惨な目にあって欲しくないのです」
震えを帯びた声とともに、涙が頬を伝う。
「けれど、私が今祈った中にも、あなたがいて……同じように、悲惨な目にはあって欲しくないと願っています」
ナギは視線をあげ、ロザリナの瞳を見た。
真っ直ぐで、迷いのない光。
「今すぐとは言いません。あの子が目覚めてからで……」
言葉の続きを嗚咽が遮った。
「……わかった。すまなかったな」
ナギの声は静かだった。だが、確かに何かが揺らいでいた。
第三節:信じたものが偽りなら
昼の陽が、残酷なほどにあまねく照り渡っていた。瑞々しい緑が生い茂る丘の上 ――その片隅には、教会、そして焼け落ちた家々が無惨に骨を晒している。戦争の爪痕が青空に刻まれたまま、誰に慰められることもなく、ただ風に吹かれていた。
ナギは岩に腰かけて、眉を顰めて遠くを見ていた。眩しさではない。そこにあったのは、焼け落ちた廃屋。かつて誰かの笑い声があっただろう家。その静けさのなか、かつての街の息吹が風に乗って吹いてくるのか、彼の心に重くのしかかる。
そのとき。
「おにーちゃーん!」
無邪気な声が風を裂いた。振り向けば、フィオナが息を切らして走ってくる。ちいさな足で“とてとて”と。
足元まで来ると、ぱっと顔を上げて笑う。その後ろには、ゆっくりと歩くロザリナの姿。どこか神妙な面持ちで、ナギを見ていた。
ナギは立ち上がり、フィオナの目線に真っ直ぐ合わせて膝をつく。
「フィオナ」
「なぁに?」
「……お兄ちゃんはな、行かなきゃいけない所があるんだ」
「どこにいくの?」
頬を少し膨らませ、眉を八の字に曲げたフィオナは、心配そうに彼を見つめる。
「そうだな……フィオナやロザリナみたいな人を助けに行く……かな?」
その言葉に、フィオナの顔がふっと緩む。
「かえって……くる?」
両手を握りしめて、不安げに見上げるフィオナ。その視線は真剣だった。子供ながらに何かを察しているのだろう。だが、彼女の心が待っているのはただ一つの答え。
ナギは視線だけロザリナに送った。ロザリナは申し訳なさそうに目を伏せていた。
「そうだな……フィオナがいい子にしてたら、な?」
「うん!!いいこにしてる!!」
ぱぁっと花のような笑顔が咲く。太陽に負けないほどに。
暖かい恵みの笑顔に、心は晴れる。
ナギは何も言わずに、フィオナの頭をそっと撫でた。一度では足りず、何度も、何度も。
彼女の柔らかな髪に手を重ねるたび、別れの重さが指に染みてゆく。
そしてナギは立ち上がる。
「ナギ様……もう、行かれるのですか?」
ロザリナの問いに、ナギは短く頷いた。
「ああ。陽が落ちるまでには離れたい。」
彼は杖を右手に握った。
フィオナが小さく足踏みしながら、二人を交互に見て言う。
「ちょっとまってて!!」
そして教会へと駆け出した。
「フィオナ!どうしたの?」
ロザリナの声も届かぬほど、フィオナの気持ちは一心だった。
「ぜったいにどこにもいかないでね!」
不思議そうに顔を見合わせるナギとロザリナ。
しばらくすると、りんりん――と軽やかな音とともに、転けぬよう走るフィオナの姿が見えた。
「なんの音だ?」
駆けてきたフィオナが息を切らし、ナギに小さな鈴を差し出した。
「これあげる!」
「いいのか?大切なものじゃないのか?」
「ロザリナおねえちゃんとわたしのたからものだけど……でも、ナギおにいちゃんがかえってきたら、りんりん!でわかるよね!」
ナギは静かに笑みを浮かべ、うなずいた。
「ああ。そうだな」
彼はその鈴を杖の先端に結び、軽く振る。
すると――リン、と音がした。
風の中にその音が舞い、フィオナが喜んで踊るように足踏みする。
「ここに帰ってくるまで、鈴をつけておこう。」
フィオナは満面の笑みを浮かべ、ぱちぱちと手を叩いて喜ぶ。
ナギもまた、ほんのわずか口元を綻ばせた。そして、静かにロザリナの眼を見据える。
「じゃあ……」
そのまま別れの言葉を飲み込むと、彼は右手で印を結ぶ。
「神のご加護があらんことを」
その所作に、ロザリナは息を呑んだ。誰よりも正しく、誰よりも美しい聖職者の姿。
それを見た瞬間――彼女の中で何かが、柔らかく解けていった。
「どうか、お元気で」
緊張の糸がほぐれて、顔が緩む。そして祈るように目を閉じ、手を組むロザリナ。
ナギは背を向け、歩き出すと、一人の恰幅の良い中年男性が丘のふもとから近づいてきていた。ここにはロザリナ達しかいない。
緩む顔はスッと表情を消し、杖を左手に持ち替えた。
その瞬間、左手に鋭い痛みが走る。
(――腰のそれが国崩しか……それはまあ置いといて)
なにかを感じた。だが、言葉にはせず。
すれ違う間際に聖職者として一礼した。
男の背に、鋭い眼差しを向けたまま、ナギはゆっくりと歩き去っていく。
その歩みを追うように――鈴が、風にゆらりと音を乗せた。
恰幅の良い中年男は、腹が揺れるたびに衣の隙間から汗の光がちらちらと覗く。その男を見たフィオナが、手を挙げて指差した。
「あ!ミハイルおじさんだ!」
「やあフィオナちゃん! 今日も元気だね!」
ぶんぶんと手を振りながら近づいてくるミハイルに、ロザリナはぎこちなく微笑みを返す。ナギとの別れに心の整理がついていないのか、どこか空気を掴むような視線だった。
「こんにちわミハイル様」
「やぁやぁ、これはどうも!」
軽く帽子を押さえるような仕草をしながら、丘を登ってきたツケなのか、人よりも息が切れていた。滝のような汗を拭ってからミハイルは丸々とした笑顔を二人に見せた。
「今日はいかがなさいました?」
「朗報ですよロザリナさん!聖都に向かう馬車の手配ができました!」
思わずロザリナの目が大きく見開かれた。
「本当ですか?!」
「ええ、もちろん! 神に誓って嘘ではありませんよ!」
ミハイルは大げさに胸を張り、腹を突き出すようにして笑って続ける。
「いやぁ、このご時世ですから馬を手配するのも一苦労でしてね! このミハイル、頑張りましたよ! ハハハハハハ!」
膨らんだ腹が上下するたびに、フィオナは両手で口を押さえて笑いをこらえる。
その様子に満足げに頷きながら、ミハイルは辺りを見回し、ひと呼吸置いて言った。
「戦争で焼け落ちた村……それでもこの教会から出ることを拒まれたときには、正直、心配で心配で……ですが、フィオナちゃんと聖都に向かう手筈がととのって、ようやく安心できるというものです!」
「ミハイル様……私たちのことを気にかけてくださり、馬車までご用意いただけて、なんとお礼を申し上げたら良いか……」
「いえいえ、私が健康なのも、商売が順調なのも、すべては神のおかげ。そして――清廉なるロザリナ様のおかげです。このくらい安いものですよ!」
言葉こそ優しげだったが、その瞳は――どこか別の価値を測っているように、ロザリナを見ていた。
彼女が深々と頭を下げた瞬間、ミハイルの目が細くなり、品定めをするようにそのしなやかな姿を追う。あくまで穏やかに、無遠慮に見えないように――だが、視線には確かに下心が揺れていた。
「明日の朝には、馬車と私が迎えに参ります。準備を整えておいてくださいね!」
「はい!」
ようやく、聖都へ行ける。そう確信したロザリナは、胸の前で手を組み、静かに目を閉じる。
神に、感謝を――。
だがミハイルは、その祈りを求める組んだ両手の奥にあるものへと、まるで獣のような視線を這わせていた。
そして心の内で、静かに呟く。
――この女も、あの子も。どれほどの値がつくものか。
笑顔を崩さず、満足げに鼻を鳴らす。
用件を告げたミハイルの足音が遠ざかっていくのを、ロザリナは知らなかった。
彼女の耳に残ったのは、ただ風の音と――
鈴の音だけだった。
それはまるで、遠くから誰かがもう一度、手を振っているかのように。
第四節:神の名を驕る物
夕刻。
戦火を逃れた石造りの屋敷が、ひときわ静けさを湛えていた。まるで世の混乱を他人事のように無視して、そこだけが別世界にあるかのように。
敷地の前庭には、いびつな鎧を纏った男たちが十名ほど、群れのように集まっている。片方しかない肩当て、打ち直しすらされていない剣、継ぎ接ぎの胴当て。兵ではない。兵から零れ落ちた屑どもだ。
その中心に立っていたのは、背を反らせ、腕を組んだ大男。ジークハルトだった。
「……いたか?」
無精髭をさすりながら、彼は一言だけ呟く。
「国崩しの神官ならいたぞ。どこかに行ってしまったが」
ミハイルの返答は淡々としていた。
――だが、その目には薄く怒りが滲んでいる。
あの少年の目が、焼きついて離れない。見下され、憐れまれたような……あの目だけは。
「そうか」
ジークハルトが一歩前に出る。
無表情のまま口元がわずかに緩んだのを、ミハイルは見逃さなかった。
「国崩しを持つ神官は俺の部下がつけている。あとで合流して、煮るなり焼くなり好きにしろ」
刹那、ジークハルトの視線が光った。
欲望ではない。ただ、目的を手にする者の冷たい色だった。
――国崩し……必ず我が手に
ミハイルは念を押すように
「いいか、あの女達には絶対に手を出すな。すでに予約済みだ」
と言いながら指差して、声に力がこもる。
ロザリナとフィオナ――あれは金になる。だからこそ、いま手を出されては困る。金に変わるまでは。
「ああ、わかっているさ」
ジークハルトの返事はあくまで平坦だった。しかし、目的の国崩しのためなら、障害は全て叩き潰すつもりだった、
――女には興味がない。だが、もしその女たちが国崩しを手に入れる鍵であるなら――斬る。女も、ミハイルも、等しく。
後ろに控えていた大柄な男が、白布で巻かれた腕を押さえて呻いた。ナギに削がれた右腕が、今なお痛むのだろう。
何も言わず、だが『黙れ』と刺すような視線を向けると、ナギに斬られた男は気圧されて二、三歩下がった。
「そうだ、明日の祝いに一席もうけるか」
ミハイルが口元を緩める。
場の空気を切り替えるように、芝居がかった明るさを装った。
だが、ジークハルトは興味を示さなかった。
頭の中には、ただ一振りの剣――国崩しのことしかない。
「考えておこう。お前らは好きにしろ」
そう言い残して踵を返す。
ミハイルの突然の提案に周囲の傭兵たちが色めき立ち、ジークハルトの背に従うようにぞろぞろと移動を始める。
ジークハルトは振り返らない。だがその背には、
――『国崩しを後で?フン、今に決まっているだろう』
そう言っているような空気があった。
ミハイルは一人残ってその背を見送る。何を考えているのか、分からぬままだ。
ミハイルは分かろうとするのも、もう諦めていた。
陽が沈み、屋敷の奥に明かりが灯る。
石造りの大広間。粗末な宴会机に、これ見よがしの豪華な料理が並べられていた。
焼かれた獣肉、山盛りの芋、溢れんばかりの酒瓶。
それは歓待ではない。誇示だ。
食わせきれぬ量を用意することが、力の象徴だった。
「さぁ!食ってけ飲んでけ!明日は一世一代の大勝負だ!」
ミハイルの声が響くと、傭兵たちは歓声を上げた。
「おおおッ!」
酒を煽り、肉に齧りつく。作法もへったくれもない。そこにいるのは、獣だ。
狂騒、歓声、笑い声――それらはひどく歪な、不協和音だった。
「いいかお前達!明日馬車を守るだけだ!報酬はたんまりやるぞ!」
報酬の一言に歓声が倍増する。
誰も罪を疑わない。誰も咎を自覚しない。
金のためなら、なんでもする。それが、この宴の正体だった。
そのとき――。
屋敷の門前で、剣を抜いた門兵が、断末魔も発せぬうちに斬られる。
喉を裂かれた音すら、宴の喧騒に呑まれて消える。
入り口に、鈴の音が鳴った。
――リン。
ひとつ、またひとつ。
だが、それに気づく者はいない。ただ一人、その音を――いや、怒りを明確に“聞いて”いた男を除いて。
宴が最高潮に達しようとしたその瞬間――。
「女ども! さっさと入ってこい!」
ミハイルが手を叩き、酒に染まった声を張り上げた。
だが扉は開かない。酌を命じた扉の向こうの女たちに苛立ちが額に滲む。
「下衆どもが! 呼ばれたら来い! 耳がついとらんのか!?」
ドン、と床を踏みしめ、ふらついた足取りで扉へと向かう。
が――次の瞬間。
爆ぜるような音とともに、扉が内側から蹴破られた。
「ぐっ……!」
ミハイルはそのまま、下腹を蹴られた形となり、どすんと床に背を打ちつけた。
豪奢な宴席に、突然の沈黙が落ちる。
ゆらりと闇の中から現れたのは、かつて神官の服を纏っていたはずの男。
いまは麻の粗衣に身を包み、腰には片刃の剣。左手に鈴付きの杖を持ち、静かに歩を進める。
「お、お前は――」
ミハイルの顔が青ざめる。
声は震え、目は見開かれ、唇だけが乾いたように動いていた。
――リン。
鈴が鳴った。
ナギは無言で杖を床につく。
その横で、一人の傭兵が動けずに立ちすくんでいた。
ナギの眉間が、ぐっと歪む。
左手の甲には血管が浮き上がり、脈打つような鈍い光を帯びている。
――心写し。
その男の心に刻まれた“過去”が、ナギの脳内に流れ込んでくる。
痛み。苦しみ。涙。
誰かを痛めつけ、犯し、壊してきた記憶。
ナギの左手は、それをまざまざと映し出す。
「……どいつもこいつも……」
低く、吐き捨てるように。
ナギは右手に触れた剣の柄を握ると、鞘の中で滑らせるように刃を抜いた。
――スッ。
一閃。
光の糸を描いたかの様な剣の導線は、撫でるように横薙ぎに走って傭兵の喉元を斬った。
斬られた男は、何が起きたのかもわからず、まるでくすぐられたように小さく笑った。
だが、次の瞬間――。
血が真っ赤なカーテンのように噴き上がった。
あわあわと口を動かすその様は、まるで空気を求める魚のようだった。
声を出すことも叶わぬまま、男は崩れ落ちる。
「ひぃぃぃぃぃ!」
ミハイルが叫んだ。
ナギは杖を強く握り直した。
心写しが、次々と罪を映し出す。
「お前らがこれまでやってきた所業……すべてこの左手が知っている!」
左手で強く握り込んだ杖の先から、血がぽたぽたと垂れ落ちる。
まるで恨んで旅だった死者の涙のように。
「嘘も、欲も、裏切りも、欲望も……暴力も、偽善も、謀略も、詭弁も!」
ナギの叫びに、誰もが動けなかった。
その時――彼の頭に、かつて昼に交わした視線が浮かぶ。
ミハイルとすれ違ったとき。
ロザリナとフィオナが慎ましく微笑んでいた、その向こうに。
欲を剥き出しに笑っていた、この男の顔。
その光景が心写しと共鳴し、ナギの中に焼き付いた。
「お前たちに救いの祈りは必要ない。神が許したとしても……この俺が許さねぇ!!」
叫ぶように、吠えるように。
ナギは、獣の群れへと踏み込んでいく。
「なんだとこの野郎!」「いい気になるなよ神官が!」「死ねぇ!」
怒号と罵声。
傭兵たちが、一斉にナギへと襲いかかる。
その勢いは、まるで獣の群れが餌に食らいつくようだった。
一人が掴めば、後は集団で痛めつける。――それが奴らのやり口だ。
ナギの左手が疼く。
近づく男たちの“罪”が晒される。反吐が出そうな光景が浮かび上がる。
心写しは、ナギに向き合うものの過去の所業を突きつけられる。
――お前が騙したその男は、身代に娘を奪われた!!
騙された無念はナギの左手に宿る。
その男の心に焼きついた後悔と怒りが、ナギの指先を貫いた。
その瞬間、片刃の剣が唸りを上げる。
真っすぐに振り抜かれ、襲いかかる腕を――断つ。
――泣きながら叫ぶ子供の前で親を殺したお前に、生きる価値などあるものか!
思い出の中で泣き叫ぶ少女の声が、脳髄を焼く。
ナギは無言で斬る。
叫びを掻き消すように、剣が空を裂く。
――盗みに入ったお前が、なぜ起きた家主を殺した!?反抗もできない老婆じゃないか!!
老婆の喉を潰した“音”が、ナギの左手にこだまする。
ナギは目を閉じ、眉間に皺を寄せひとつ、またひとつ、静かに、だが容赦なく斬り伏せていった。
左手は、罪を知るたびに痛んだ。
悪と認めた人間の心に住まう、恨み、怒り、嘆き――そのすべてが、ナギを通じて実体となり、そして断罪へと昇華していく。
斬る。
理屈じゃない。正義でもない。
ただ、それが“人”であっても、“悪”であれば――斬る。
理由なんて、要らなかった。
罪を償わせるナギなりの方法。
皆、悪。
ただそれだけだった。
⸻
最後のひとりが絶命したとき、ナギは力なく肩を落とした。
ミハイルが、泡を吹きかけた口で呻きながら、のたうつように後ずさる。
「こ、こないでくれ!助けてくれ……!」
ナギの左手が再び痛んだ。
喚けば喚くほどに、掌の中で怒りが膨れ上がる。
片刃の剣の先から、糸を引くように血が滴る。
赤黒く染まった床に静かに広がっていった。
「この世界に、神の祝福などなかった……祈っても、祈っても、誰も救われない……」
ナギは片刃の剣を逆手に持ち替えた。
静かな声だった。だが、それは誰に言うともなく、ただひとりの“神”へ向けられた愚痴のようだった。
「祈っても……祈っても……神はこの左手以外に、何も与えてはくれなかった」
ゆっくりと歩み寄る。
ミハイルの膨らんだ腹に、鋭く――無駄のない動きで突き立てた。
「やめて……やめてくれ!――ひぃ……あああ……!」
呻きも断末魔も、刃の下では意味をなさない。
ナギは迷いなく、刃を引き抜き、また突き立て、何度も、何度も――。
やがて、手から剣が滑り落ちた。
床に当たり、乾いた金属音をいくつも響かせたあと、ようやく静寂が戻る。
⸻
周囲には、むくろの山。
そして、ナギ自身の荒い息遣いだけが残った。
ふと、杖を握る左手が、さらに痛んだ。指が動かないほどに、焼けるような痛み。
だがその時、不思議な感覚がナギを包む。
左手が、淡い光を帯びていた。
――そして、子どもの笑い声が聞こえた。
小さな、幼い、あどけない声。
まるで……死体たちの子供時代が、そこにいるかのような錯覚。
いかなる罪人も、過去は子供。
ナギの罪を重く背負わせるように、左手はナギの思考にあどけない笑顔と、犯した罪を突きつける。
「……やめろよ……やめてくれよぉ……」
ナギは左手で床を叩く。
その音は獣が吠えるような、ひどく悲しい音だった。
「俺には誰も救えないんだよぉ……だから、やめてくれよぉ……」
涙が頬を伝う。
床に倒れ、呻くように泣く。
耳を両手で閉じて、謝った。
しかし、怒りも、祈りも、贖罪も、すべて遅すぎた。
決意したはずのナギの思いは、正しさを孕むこともなく、ただその背中に重くのしかかる。
「やめろって……言ってるだろ!!」
拳を振り上げ、床を殴りつけた。
――リン。
床に転がっていた杖についた鈴が、微かに震えて鳴いた。
その音が、すべての音を断ち切った。
⸻
ナギは、起き上がってから杖を持ち直し、鈴を見上げた。
鈴の音が、ロザリナとフィオナの笑顔を思い出させた。
――まだだ。残っているんだ、救える二人が
天啓の様に二人の笑顔を思い浮かべた直後、血の気が引く。
「二人は……ロザリナ達は……!」
ミハイルは用意周到な男だ、ロザリナ達を売り払うのになにもしていないということがあり得るだろうか。
ナギは我に返り剣を鞘に収め、杖を握り直すと、扉を蹴破って外へ飛び出した。
夜が、静かに深まっていた。
ミハイルの屋敷の扉を突き破り、ナギは飛び出す。
泥と血に濡れた足が石畳を蹴るたび、杖の鈴が鳴る。――リン、リン。
だがその音すら、追いつけぬほどにナギは走っていた。
教会が見える。
だが明かりが――ない。
「……!」
肺が破れそうだった。
それでも、呼吸も整えず、ナギは走り続ける。
視界が揺れる。
月光だけが頼りの暗がりの中、教会の扉を見つけたナギは、ためらいもなく手をかける。
――ガン!
扉が荒々しく開け放たれた。
中は……静かだった。
嫌な予感が、喉元を這い上がる。
「ロザリナ!」
声が、虚空に吸い込まれる。
「フィオナ!」
返事はない。
鈴を鳴らす。杖を振る。
だが、音が止むと同時に、教会は沈黙に沈んだ。
歩きながら、ナギは小さく祈る。
神にではない。
自分自身が背負った“運命”が、ふたりを巻き込んでいないことを、願うように。
「頼むよ……」
誰に言ったのか、自分でもわからない。
だがその祈りは、皮肉な形で答えを返す。
――祭壇の上。
ナイフが突き立てられていた。
ナギの鼓動が、いっそう速くなる。
「……ッ」
駆け寄った。
ナイフの下には、布切れが一枚。
広げた指先が震える。
そこに、こう書かれていた。
『丘の上にて待つ』
刹那。
血の気が引くのを感じた。
ナギは歯を食いしばる。
「……ロザリナ……」
その名を、まるで護符のように呟く。
同時に、昼間に見た記憶が脳裏をよぎった。
――ミハイルの仲間。
心写しで映し出された男。
ジークハルト。名も顔も知らないが、ナギは直感した。
これは“運命”の続きだと。決意は熱いうちに叩く。
だから。
「待ってろ」
ナギは振り返る。
教会を飛び出すその背に、躊躇はなかった。
脚が、魂が、叫ぶように次の戦いへ向かって走る。
第五節:答えを出せ
夜の丘に、風が鳴っていた。
月は雲に隠れ、星のひかりが草の海をかすかに照らしている。青葉と枯れ草がまだらに交じる斜面の上――そこに、二つの灯りが揺れていた。
一本は、木の杭に縛られた少女たちの傍らで。
もう一本は、ゆっくりと丘を踏みしめ登ってくる男の足元を、仄かに照らしていた。
ナギがいた。
風に揺れる外套の裾を押さえ、静かに立ち止まる。松明の光がその瞳を照らすと、かすかにまぶたが細められる。
彼の視線の先には、闇に溶けかけた影――
ジークハルト。
長身の体に黒衣をまとい、背筋を真っすぐに伸ばして立つその姿は、まるで闇そのものが形を取ったようだった。松明の炎がその体を縦に裂くように影を落とし、足元にまで長く伸びている。剣はまだ抜かれていない。けれど、その腕、その脚、その眼差しには、すでに全てを終わらせる者の静謐が漂っていた。
彼は、ただナギを見ていた。
動かず、瞬きもせず、真っすぐに。
十歩ほどの間合いに、ふたりは向かい合った。
ナギはその距離を測るように、もう一歩だけ前に出る。踏みしめた足音を、枯れ草がかすかに鳴らした。
「お前……聖都の剣士だな?」
低い声が風を裂く。
ジークハルトは応じるように、わずかに顎を上げた。目は逸らさず、唇だけが、乾いた熱を持って動く。
「……ああ、そして、神官だ」
声に揺れはなかった。
だがその短い肯定の中に、長い時間を閉じ込めてきた者の影が見えた。
まるでようやく自らを認める許可を得たかのような――そんな響き。
再び、風。
松明が軋む音とともに、ふたりの間の空気がわずかに震える。
言葉はない。沈黙が、対話よりも深く交錯する。
ジークハルトの口が、再びゆっくりと開いた。
「……待っていた、この時をな」
ナギの喉が微かに上下する。
その声は、誰かの告白のようだった。懺悔でも、宣告でもない。ただ、そこにしか辿り着けなかった男の結論。
ふたりの間に灯る松明が、夜の空気を赤く染めていた。
丘の上、十歩の距離を挟み、ナギとジークハルトは向かい合ったまま動かない。
風が草を撫で、わずかに火が揺れる。
その光に照らされたナギは、杖にも剣にも触れず、ただ、細めた目で相手を見据えていた。
静寂だけが、間に横たわる。
「国崩しをよこせ」
ジークハルトが、低く言った。
ナギは返さない。ただ、ほんのわずか、まぶたが伏せられる。
ジークハルトの右手が、わずかに動いた。剣に触れるわけでもない。
けれどその仕草には、ずっと飢えてきた者の執着が滲んでいた。
「それは俺が抜くべき剣だった。
いや――抜くべきだったと、ずっと思っていた。本当の“地獄”を見せてくれるその剣ならな」
声音には熱はなかった。
だが、言葉の奥にひりついた渇きだけが残っていた。
執念が、それだけで形を成していた。
「……お前には抜けない。
あれは、忘れる覚悟がなければ使えない…お前には覚悟があるのか?大切な者を失う覚悟」
ナギの言葉が、静かに落ちた。
ジークハルトのまなざしが、わずかに揺れる。
額のあたりが寄り、目の奥に沈んだものがわずかにきしんだ。
「……そうだな。お前は、心写しで見たんだろう? 人の犯した業を、罪を。」
その言葉に、縛られた少女たちが微かに反応した。
ロザリナとフィオナが、ジークを見上げる。
火影に浮かぶふたりの顔が、息を呑んでいた。
「しん……うつし?」
フィオナが、呟いた。だがジークハルトは彼女たちを見なかった。
視線はあくまでも、ナギだけに向けられていた。
「他人の罪を、その目で見てきた。
祈るたびに背負ってきた。
――お前のような、やつがな」
そう言うと、ジークハルトは両手を広げた。
まるで、迎え入れるように。自らを差し出すように。
その姿は、祈りにも見え、挑発にも見えた。
ナギは、視線を落とす。
右手をゆっくりと杖から外し、代わりに左手を掲げる。
そのまま、そっと目を閉じた。
距離は取ったまま。けれど、たしかにジークハルトは“心写し”を受け入れていた。
松明がまた揺れた。
――触れずとも、過去が流れ込む。
光と闇がないまぜになったジークハルトの記憶の奔流が、胸に刺さるように入り込んでくる。
*******
かつてのジークハルト。
白銀の鎧に身を包んだ聖都の剣士。
許されざる悪を、その剣で断ち、
斬った後に残るのは、祈りと血のにおい。
断罪の声とともに押し寄せる、被害者たちの叫び。
その罪、苦痛、恐怖――それらすべてが、記憶に残されたまま剣を持つ者の心に沈殿していく。
重さに押し潰され、
何かが壊れた。
砕けた心はやがて、再構築された。
感情を失い、ただ“裁く剣”として。
*******
ナギは、目を開いた。
呼吸が浅く、心臓が胸を打つのが自分でも分かるほど。
だが、それを悟らせまいと背筋を伸ばす。
「……お前が欲しいのは、剣じゃない。
地獄だ」
ジークハルトの口元が、わずかに歪んだ。
それが笑みなのか、苦しみなのか、ナギには読み取れなかった。
「剣は力だ。なにが違うのだ?」
問いが返る。
「俺は神官だ! お前とは違う」
そう言い切ったナギの胸裏には、ナギが惨殺してしまった屋敷――ミハイルの罪を暴き、殺し尽くした場面がこびりついていた。
それでも、祈ることをやめる気はなかった。
だからここに立っている。
ジークハルトが鼻で笑った。
「もういい。渡せ。
俺の地獄は……まだ終わっちゃいない。斬られた者に無限地獄を与えるその国崩しを俺によこせ!俺こそ相応しい物だ!」
その言葉を、ロザリナとフィオナが聞いていた。
拘束されたまま、ナギを見つめていた。
声にはできなかった。名も、届かない。
だがロザリナの目は、それでも――祈っていた。
ナギはこちらを見ようとはしない。この場所にきてからずっと。
わざとそうしているように見える。それでも彼女は、ナギの背を見て、祈った。
ナギはジークハルトだけを見ていた。
視線を向けることも、声に気づくこともない。
ただ、静かに左手を下ろし、姿勢を整えた。
心写しを――今度は、自らの意思で放とうとする。
だが、背後から何かが囁きかける。
ミハイルたちを断罪した記憶。
斬られた者たちの呻き。
恨みも、嘆きも、未練も――
それらすべてが、ナギの背にまとわりつき、
まるで暗闇が一口で飲み干そうとするかのように、襲いかかってくる。
同じことを繰り返すのか、と、問うように。
松明の炎が弾け、影が地面に崩れ落ちる。
その揺らぎの中で、ナギは剣を抜くでもなく、
ただ、祈りのように立ち尽くしていた。
左手を静かに掲げたまま、ナギは目を閉じた。
風は冷たく、松明の炎が揺れている。
だがそれすら遠く、彼の内側へと沈んでゆく感覚だけが、時を支配していた。
触れずして発動される祈り――“心写し”。
ジークハルトの記憶が、波のように胸へと流れ込んでくる。
今度は赦すために、ジークハルトを知るために……
*******
白銀の鎧。
剣を振るい、罪を斬る者として讃えられた日々。
聖都の広間に響く断罪の声。
だがその直後に押し寄せたのは、無数の“声”だった。
切り裂かれた者の記憶、痛み、怨嗟、慟哭。
倒れ伏す子供。
血に濡れたまま、助けを求めて伸ばされた手。
その手を掴むこともできず、ただ剣を振るい続けた男の背に、祈りはもう届かない。
*******
ナギの呼吸が一回目の心移しよりも乱れた。
額に浮かぶ汗は、もはや拭う余裕もないほど滝のように流れ、左手を下ろす指先すら震えていた。
それでも、彼は背筋を伸ばし、目を開ける。
呼吸を整えながら、今得たもの――地獄の記憶を、真正面から受け止めようとしていた。
そのとき。
目の前の男が、笑った。
「……フフ……」
ジークハルトの口元が、ゆっくりと歪む。
その笑みは、皮肉でも憐れみでもなかった。
底から湧き上がるような、獣の嗤い――
「フフ……フハハハハハハ!! 見たな!! 感じたな!! 俺の背負ってきた赦されざる地獄を!!」
叫びとともに、彼は両腕を天に広げた。
夜空に向かって咆哮する姿は、狂気そのものだった。
松明の炎が跳ねる。影が崩れ、地に伸びる。
「どうだ!? お前も見たろう!? 祈って、断罪して、それでも救えなかった顔を!!」
ナギは沈黙したまま、彼を見ていた。
そのまなざしに怒りはない。ただ、言葉の届かぬ相手を見据えるように。
「許されることのない罪!お前も同じだ!お前は誰かを救えたのか! 祈りでも! 剣でも! 救えたのか!」
ジークハルトの声が昂ぶる。
夜の風を割るように響き、その奥底にあるもの――共感ではなく、同調の罠が滲んでいた。
「同じだ、同じだよ……! お前も背負ってる。罪と記憶と、あの喉奥までこびりついた血の臭いを!!」
息を吸い込み、そして狂ったように笑った。
まるで、これまでの全てを嘲笑い、肯定し、歪んだ贖罪の代償として語るように。
「だから俺は、国崩しが必要なんだ……!
この痛みを最後まで耐えるために!!そして“無間地獄”を味わうためにな!!!」
その瞬間、ジークの視線が横へ流れる。
ロザリナとフィオナ。松明の明かりに浮かぶ彼女たちの顔に、恐怖が走った。
ロザリナは、震える手を組んで何かを祈っていた。
フィオナは、前に出ようとする彼女を支えながらも、怯えていた。
恐怖に押しつぶされそうになりながらも、ふたりで、必死に何かを支えていた。
「お前が渡さないなら、ナギ……あの娘たちも、“利用”させてもらう。……これが最後の確認だ」
ジークハルトの声は低かった。
脅しでもなく、誘いでもなく、ただ淡々と告げられる“選択肢”。
ナギは動かない。
左手に、うっすらと熱が集まりかける。
けれど、それは祈りにはならなかった。
葛藤が強すぎて、光は生まれなかった。
痛みも、怒りも、心の奥で燻ったまま、
ただ、手のひらは空を切っていた。
痛みを、怒りを、記憶を――それでも祈りとして収めようとする掌に、言葉にならない葛藤が滲んでいた。
「国崩しを俺に渡すか、誰かが死ぬか。どちらを選ぶんだ?」
松明の炎が揺れる。
そして、二人の間に伸びる影が――
ひとつの命と、もうひとつの罪とを、切り裂くように揺らめいていた。
沈黙。
祈りか、剣か――そのどちらかを選ばせようとしていた。
ーー奴のために祈れるのか、俺は
松明の炎が風に鳴った。
揺らめく光の向こう、ナギは静かに立っていた。
ジークハルトとの間に張りつめた空気――だが、それ以上に、少女たちの姿が彼の胸を締めつけていた。
フィオナが、祈っている。
不器用に、ただ手を組むだけの、けれど純粋な祈りのかたち。
その隣、ロザリナは静かに沈黙を守りながら、わずかに首を横に振る。
ナギの視線が揺れた。
けれど、足は一歩も動かない。
剣か、それとも祈りか――
――選べない。
動けない。
祈りも、剣も、どちらにも自分は立てていない。
胸の奥で、焦燥が渦を巻く。
そして、館の記憶が甦る。
ミハイルの館で、自分は“心写し”を使った。
だが――
(……あれは……祈り、だったのか?
いや……違う。あれは、俺の意思じゃなかった)
ナギは左手を見下ろした。
掌の肌が覚えている。
あのときの熱、圧力、暴走――
(これは……剣と同じだ。
俺の祈りは、あの時もう、祈りじゃなかった)
(祈りは、赦すものだろ。
けどあれは――裁きだった)
風が吹く。
松明がきしり、炎が波を打つように揺れる。
ジークハルトはその向こうで、ただ黙って見据えていた。
その瞳は、既に問いかけることをやめていた。
次に動くのは、ナギ自身だ。
右手がかすかに握られる。
剣を握る手。
左は祈る手。
だが、今の自分の左手は――
国崩しよりももっと強い力があるかもしれない。
左手は心臓の拍動のように痛み続ける。
もし祈れば、恐ろしい力が放たれるかもしれないという確信に近いものがあった。
(どちらも、傷つける力しか持ってない)
ミハイルたちを惨殺した時よりも、左手は強く命じる
――浄化を と。
ふいに、視線を感じた。
フィオナが、こちらを見ていた。
組まれた小さな手が、震えながらも結ばれている。
それはどこかぎこちなく、まるでロザリナの祈りの真似のように見えた。
けれど、それでも――祈りだった。
ナギの中で何かが、そっと、動いた。
左手が、ゆっくりと持ち上がる。
(ああ……)
(それでも、俺が“選べる”なら――)
瞼を閉じる。
その瞬間、光がともった。
白く、眩い光が、左手の掌から溢れ出す。
覚悟の現れのように。
それは、これまでの“心写し”とは違っていた。
熱ではなく、冷たさでもなく――穏やかな、ただ、まばゆいほどに美しい光。
フィオナの瞳が開かれる。
口をついて出かけた言葉は、名前ではなかった。
「……あのおにいちゃんって……」
ロザリナが、そっと口を開いた。
「そう、神様の使い……私たちを助けにきてくれた。心の優しい天使様。わかる?」
フィオナは合点がいったように頷いた。
白く輝く左手は、まるで柔らかい羽のように見えていた。
その光に照らされて、彼女の暗かった表情に、ほんの少し、明るさが戻っていく。
だが、ロザリナの目は違っていた。
彼女には見えていた。
その光が“祈り”の域を超えて、人の身にあらざるものに変わりゆく兆しを。
――貴方はどれだけの祈りを持ってここに立っているのでしょうか……
思わず頬に伝う涙。
名前を、叫びたかった。
けれど、記憶の端から、それはこぼれ落ちていた。
「フィオナ、祈りましょう」
「うん。なんて祈るの?」
「天使様の無事を。嬉しいことを忘れないように」
ナギの身体が、光の奔流に押し戻されるようにわずかに揺れた。
杖を両手で支え、力を込めて立ち尽くす。
ジークハルトの笑い声が、静寂を打ち破った。
「フフフ……ハハハハハハハハハハ!!
それだ!それだよ!!命と等しい代償で悪を打ち砕く!!
聖都の連中が如何に積み上げようとしても届きえなかった賢者の高み!」
ナギは、静かに言った。
「俺は。……神官だ」
その声に、ロザリナの胸が締めつけられる。
一つひとつ、思い出が消えていく――
声、顔、しぐさ。
フィオナの記憶からも、撫でてくれた感触が、優しい笑顔が、音もなく剥がれていく。
(命を賭して私たちを助けてくれようとする人を忘れるなんて……
どのような罪より重い……でも……)
記憶が、暗い海底に沈んでゆく。
ロザリナは、かき消される前の最後の想いを抱くように、手を強く組み直した。
ジークハルトは剣を抜いた。
切先を、ナギへと向ける。
「さあ!見せてみろ!お前の祈りと力を!」
ナギは、静かに答えた。
この男は、きっと生かしても国崩しを追い続ける。
ならば――殺さねばならないかもしれない。
腰の刀を、鞘ごと外し、地に落とす。
ジークハルトが、ニヤリと笑う。
口で大きく息を吐き出して、ナギは諦めたようにいう。
「お前の思いはわかった。」
ナギは杖を持ち直し、構える。
右手で杖の下部を支え、逆手に取り、静かに抜いた。
刀身が光に応えて姿を現す。
だがそれは、すぐにカチンという音とともに収められる。
そして、彼の腰が沈む。
まるで、一瞬の斬撃にすべてを懸けるような、無音の構え。
「そんなに国崩しに斬られたいのなら、もう止めはしない」
風が止まる。
火が揺れる。
祈りと剣――そのどちらでもない一手が、今まさに放たれようとしていた。
ナギは立っていた。杖を手に、ジークハルトと向き合ったまま。
両の手は、重さを測るようにわずかに震えていた。
(――もう、抜くしかない)
そう思っていた。
この男は、生かせばまた血を流す。誰かの未来を壊す。
赦す理由など、どこにもない。
赦してしまえば、守りたかった人々の命に顔向けできない。
何のためにミハイル達を全て殺したのか。
左手が、痺れるように熱を帯びる。
右手が、柄にかけられ、杖の芯に仕込まれた“あれ”が確かに答えていた。
――国崩し。
その名を、心の底で呟くと、まるで呼応するように杖が重くなる。
引き抜けば、この男の首は、瞬きひとつのうちに地へ落ちるだろう。
それが正しい。そうでなければいけない。
剣を抜くというのは、そういうことだ。
けれど。
視界の隅に、揺れる松明の炎。
その光の向こうに――彼女がいた。
――ロザリナ。
じっと、見つめていた。
言葉も出さず、動くこともせず。ただまっすぐに。
その瞳は、
怒ってもいなかった。泣いてもいなかった。
けれど、その静けさの奥に――ナギは、何かを見た。
忘れていくことの、痛み。
心を握りつぶされそうなほどの、苦しみ。
それでも、なお残ったもの。
それは――
あたたかくて。
柔らかくて。
どうしようもなく、愛おしいものだった。
ナギの手が、止まった。
柄にかけた指が、わずかに緩む。
刃が、鞘口にきらめきを見せたその瞬間――
絶望に変わる。
――俺は……俺は!許されてはならないのだ!
――罪よ!この身を焼き払え!!業よ!この身を砕いてくれ!!
――俺に地獄を!!償わせる代償を与えてくれ!!
――国崩しいいいいいいいいいぃぃぃぃぃぃ!!……
彼の目が、静かに閉じられた。
――……赦すよ。お前を。
光が、弾けた。
眩しさはなかった。ただ、全てを包み込むような、やさしい白。
剣が抜かれた音は、どこにも響かなかった。
風が止む。
空気が澄んで、まるで誰かがそっと赦しを与えたような気配が残った。
そこにいたはずの男の姿が――もう、なかった。
ロザリナは、両手をそっと組みなおし、祈るように瞳を閉じた。
フィオナは、白い光に照らされながら、どこか安心したように微笑んでいた。
おにいちゃん、と小さく呟いて――けれど、その名前はもう、思い出せなかった。
ナギは、ただ一歩、踏み出した。
空っぽになったはずの心に、どこか温かい灯が残っていることに気づきながら。
その夜、誰の名も呼ばれなかった。
ただ、祈りだけが、風に乗って――夜空へ昇っていった。
第六節:あなたは……
空は、晴れていた。
石畳の教会前に、柔らかな陽光が降り注ぐ。聖都からの馬車が門の前に止まり、御者が一礼して馬の頭を撫でた。幌のないその馬車は、旅立ちを拒まないようにとでも言うように、誰にでも開かれたまま静かに待っていた。
ロザリナは教会の階段に腰かけ、手の中の荷を見つめていた。荷といっても、旅装の肩掛けに小さな水筒と祈りの書をひとつ。あっけないほど身軽な荷だった。だが、その軽さが、心の中の重さを引き立てる。
「……ほんとに、いけるの?」
ぽつりと呟いた声に、ロザリナは笑ってうなずく。
聖都に行けると決まってから、フィオナは何度も聞いてくる。
「きっと、神様が導いてくれたのよ。だから、今がその時」
二人は肩を並べ、教会の扉の前で小さく祈った。神に感謝し、まだ見ぬ聖都に希望を託し、これまでの無事に深く頭を垂れた。
だが、その祈りの最後、ロザリナの胸に小さな影が射す。
――あの日。
白い光に包まれた、あの瞬間。
気づけば教会の中にいて、フィオナと手をつないで、安堵と涙に包まれていた。
――私たちは……助けられたんだ。
でも――誰に?
「フィオナ。あの光のこと、覚えてる?」
問いかけると、フィオナは目を瞬かせて、まるで宝石を覗き込むような顔になった。
「うん!天使様がいたのおぼえてる!!」
「天使様……」
「うん、でも……おかおがおもいだせないの……」
ロザリナはうなずいた。彼女も同じだった。あの光の中、誰かがいた。確かにいたはずだった。救いの手を差し伸べ、背中を押してくれた誰か。
だけど。
顔も、声も、手のぬくもりも――何ひとつ思い出せない。
胸に広がるのは、穴のような感覚。記憶の空白ではない。もっと、ちがう。思い出せないことが悔しいのではなく、「なぜ忘れてしまったのか」が、淋しい。
最後にもう一度だけ、教会の中を振り返る。
朝の光が差し込む祭壇。誰もいないはずの空間に、誰かの気配がまだ残っている気がして。
――ここに、何かを……置いてきた?
「フィオナおねぇちゃん!もういくって!」
フィオナの声が境界線を引いたように、空気が動いた。
ロザリナは手に持った肩掛けを胸に抱き、扉に近づいた。手をかけ、ぎゅっと目を閉じて、そして――扉を閉じた。
馬車のそばでは、御者が誰かと話していた。ロザリナの視線はその人物にふと吸い寄せられる。
黒衣の男。背の高い人影。ひとことふたこと言葉を交わしていたが、その声も内容も、耳に入ってこない。
不気味な出立ちだったが、剣も携えずに旅に出るのかと少し心配になる。
不思議と、何の印象も残らないのに、胸の奥がざわついた。
その人物は静かに会釈してから、ロザリナとフィオナは馬車に乗り込んだ。揺れる座席に身を沈め、フィオナが軽く息をつく。
御者がこちらを振り返る。
「では、出発しますね」
ロザリナは静かにうなずいた。
蹄の音が草を踏みしめ、車輪がゆっくりと回り始める。
その時だった。
――リン……リン……
柔らかく、小さな鈴の音が風に溶けた。
フィオナが息を呑む。
「……天使様の音!」
その声に、ロザリナも思わず窓の外に身を乗り出した。
そこにいたのは、さっきの男だった。
彼は遠ざかる馬車を振り返ることなく、ゆっくりと歩いている。手には木製の杖。その先に、小さな鈴が結びつけられていた。
その鈴が、風に揺れて――また鳴る。
リン……リン……
ただ、それだけ。
それだけなのに、ロザリナの胸に、何かが広がっていく。
懐かしい。切ない。優しい。
言葉にできない想いが、音の余韻とともに、胸の奥へ沁み込んでいった。
フィオナは喜んで天使様の音!!と何度も連呼する。
しかし、男は振り返らなかった。
けれど、ロザリナの目に映るその背中は、
――なぜか、とても、眩しく見えた。
男は、杖を少し大きく振ったようにみえた。
それは音がそうしたのだと伝えるように、少し大きく
リンリン
と鳴った。
ロザリナは、男の背に向けて手を組んで祈るように言った。
「あなたは……」
(完)




