527.きっとそこには何も無い
身体が、手のひらが、じわりと温かい。
目を閉じたまま、寄り掛かったままで、考える。
私また、椅子に座ったままベッドで眠れていないみたい。気を付けていたはずなのに、転寝してしまったのだろうか。もし何か覚えていたら、ペンを取らないと――…それは、どうしてだったかしら。
指先がぴくりと動いて、でも、夢を見た覚えはなかった。ペンを取る必要はない。
まだもう少し眠っていたって…
「シャロン」
聞き覚えのある声が私を呼んで、頭の片隅で「起きなくちゃ」と考える。
指先を下から絡めとられて、座面を軽く叩くような振動が伝わってきた。どうやら私は、誰かの手に自分の手を重ねていたみたい。そうやって合図するリズムにも温度にも覚えがあって、目を開いた。
ぼやけた視界に映ったのは薄暗い部屋。
光を反射するローテーブルには、ポケットに入れていたはずのニワトリのストラップと、誰かの眼鏡。
一体ここはどこで、私は今、何に寄りかかっているのかしら――…
「起きたか。」
その声で意識がはっきりする。
身を起こして隣を見れば、それは我が国の第二王子殿下だった。金色の瞳と目が合って、さっと顔が熱くなる。視線が勝手に泳いで、ここが喫茶店《都忘れ》の個室だと理解した。外から入れるとアベルが教えてくれた場所だ。
――私は何を、いつから。寝癖とか、頬に跡とかついてないかしら。
咄嗟にそんな事を考える。
アベルがいる右側だけでも手櫛で整えようとして、なんとなく右手を使いたくなくて、左手では前髪に軽く触れることしかできなかった。寝癖も跡もついてないと信じるしかない。
アベルの物だろうローブが私をくるむようにかけられていて、幾つか浮かんだ火の玉が部屋を暖めている。道理で心地良く眠れたわけだわ。ところで、どうして眠っていたのだか。
「ごめんなさい。私……」
「広場で何があったか、覚えてるか?」
「広場。」
オウム返しになりながら記憶を辿る。
オールポートを出た後、離れがたくなって一緒に噴水広場へ来てもらったのは私だ。それから。
ぽつぽつと、子供の悲鳴や街の人々が驚く声、あの香り、アベルがすぐに私を抱えて離れてくれた事を思い出す。
「…乾燥させたネム草は、燃やしちゃいけないのよね。市販品なら燃えにくい素材で覆うか、何かされていたはずだけど……」
形状によっては封が不十分だったとか、ポプリの布が破けていてとか、色々考えられる。いずれにせよ、中身が零れたのは確かでしょう。
あの時きっと、私もアベルも「このままではいけない」と考えていた。彼が自分を傷付けて意識を保とうとするのも容易に想像できて、私だけが緊急用のアイテムの存在を知っていた。
気絶するように眠ってしまう時に備えた、《覚醒》の効果を込めたニワトリのストラップ。
今、ローテーブルの上に転がっている代物だ。
「それで?」
低い声にぎくりとした。
ダンに「お可愛らしい物」と言われたニワトリは、黒くつぶらな瞳でこちらを見ている。
眠ったアベルを抱えて私一人になっても、上手く解決できたとは思えない。ニワトリ本体に触って効果が私に発動してしまわないよう、ストラップ部分を掴んで彼に渡した。
アベルさえ起きていれば、私が眠ってもどうにかなると信じて――とはいえ。
彼にとってこのニワトリは、不審物以外の何でもない。
そしてこのニワトリを見られた事が、ちょっと、恥ずかしい。
「……えぇと。」
追求を勘弁して頂く事は、できないのかしら。
重ねた手にそっと力をこめてみるけれど、まったく応えてくれなかった。第二王子殿下が優雅に脚を組む。ああ、顔を見なくてもわかる。きっと眉を顰めておいでだわ。
「俺に握らせたそれが何なのか、もちろん説明してくれるんだろうな。」
「………、全部は難しいです。」
浮かぶ炎が変わらず暖めてくれているのに、なぜか少し気温が下がった気がした。
手のひらに感じていた温もりがするりと離れてしまう。
「入手元は。」
「…あのね、アベル」
「助かりはしたが、誰にどう言われてなぜ信じた?」
「これには事情が」
「いつから持ってた。ウィルは知ってるのか」
「その…」
「知らないんだな?」
「…はい。」
すべて詳らかに共有する義理はないでしょう、という話ではない。
言えるような相手から手に入れたのか、本当にその人は信頼できるのか、言えないならなぜそんな相手から妙な小物を貰ったのかと、そういう話だ。
正直に答えていいなら、これに魔法を込めたのは私自身だ。
成功しているかの確認は見知らぬ人にやって頂いたけれど、その人の事はホワイト先生が知っているし、ホワイト先生が私のスキルを見守るのは国王陛下がお決めになった。
ゆえに怪しむ理由はないのだけれど。
私はただでさえ、チェスターと共に「アベルには言えない相手」から《先読み》結果を聞いたりしている。
アベルからすれば、私がまたこそこそと見知らぬ相手とやり取りしていたらしい、という状況。警戒は当然のこと…。
彼に使ってもらった事に後悔はない。互いの安全と名誉のためには、ああするしかなかった。
誤魔化すのは無理、流すのも無理。変に嘘を吐きたくないし、騙せるとも思えない。全て明かすような事もできない。
私は身体をアベルの方に向けて座り直し、膝の上で手を揃えた。
「……入手元については、信用できるという確証があります。」
「また、その信用に命まで賭けられるとでも言う気か?なら俺達に隠していたのはなぜだ。」
「まだ言ってはならないと、命令があったからです。」
アベルは探るように僅か、目を細めた。本気で言っているのかと。
私に対して「命令」できる相手など限られているから。
「いつその命令を受けた。」
「九月の半ばに。」
「――…はぁ。」
私のお父様と国王陛下がお忍びで学園を訪問した頃だ。
少なくとも二人のどちらか……私の様子からして、恐らく陛下からだとはアベルも察した事でしょう。眉間に皺を寄せ、彼は軽くこめかみを押さえた。張りつめていた空気が僅か、和らいだように感じる。
少し肩の力を抜いて、様子をうかがうように小首を傾げてみた。
ちらと私を見やったアベルが片手を差し出す。まるで許されたみたいと思いながら、そっと手を重ねた。
「どこの誰とも知れない者から仕入れたなら、そんな物信じるなという話だったが……《まだ》言ってはならない、そういう命令なんだな?」
「ええ。……きっと、もう少しだと思っているけれど。」
「そうか」
触れ合った手はそのまま座面に下ろされて、ほんの少しだけ緊張する。
すっかり慣れた事のはずなのに、どうしたらいいか惑うような、けれど嬉しくて、安心できて、何かが不安で、そんな相反した気持ちが交互に顔を覗かせている――気がした。
きっと、気のせい。
「聞きたい事は色々あるが、命令に逆らわせるわけにもいかないな……命令違反にならない範囲で言える事はあるのか?」
「言えること……」
どこまでなら言っていいのかしら。
私のスキルであること、その内容と検証状況、ホワイト先生が関わっていること。その全ては今、ウィルにもアベルにも言えない極秘扱いなのだ。判断が難しい。
貴方にはできる限り誠実でありたいけれど、結局のところ「何も言えない」、それが答えのように思う。
せめてきちんと目を見て、真摯に。
「許可が下りたらすぐに伝えるわ。…だから、待っていて。」
「今は何も言えないというわけか。」
「残念ながらね。」
「…まぁいい」
それはもう仕方がないとばかり、アベルはあっさり追及をやめた。
私のスキルのこと、剣闘大会の授賞式で何が起きたのか、女神様も同じスキルだったかもしれないこと……貴方に話したいのは山々だけど。
「先程の騒ぎのように。悪意も殺意もない行動では、俺も事態に気付きにくいな。」
「そうね。凶器が飛んできたならまだしも、子供が持ってきたポプリでしょう。あれを先に防げる人は中々いないと思うわ……それこそ《先読み》でもないと。」
私達は魔法のお守りを持っている。
アベルがネックレスに込めてくれたもの、私が自分のブローチと、二人のカフリンクに込めたもの。
それらは攻撃魔法で襲われた時には助けてくれるけれど、全てから守る事はできない。私の守りでは特に、対抗として水の魔法しか出せないのだし。
「毒であれば、実際の味や匂いは大方把握しているつもりだが」
「味?」
「今回はお前の方が早かった。確かに、ネム草の香りを嗅いだ事はなかったな」
「アベル。薬師が監修した上で、解毒剤も用意して、医師立ち会いのもとで行ったのよね?」
まさか騎士団のどなたかに頼んで、適当に味見したわけではないわよね。
そんな気持ちを込めて問いかけると、アベルは「勿論、適切な用意をした上でだ」と……私の目を見て言ってほしいわね、それは。
少なくとも毎度完璧な用意をしていたではなさそう。
アベルの事だから、致死性のある毒の時にそんな事はしないでしょうけれど。
とはいえ、ホワイト先生の弟子として。友人としても、王家を補佐するアーチャー公爵家の者としても、きちんと言った方がいいかしら。
眉を顰めた私を見て何か察したのだろうか。
苦い顔をしたアベルは組んでいた脚を解き、私の手の甲を指先でとんとんと叩いた。
「…人が褒めている時は、大人しく聞け。」
「あら、褒めてくれていたの?」
「これから礼も言うところだ。」
「では、大人しくするわね。一旦。」
自然に浮かんでしまう微笑みを少し抑えて、アベルを見つめる。
目が合うと、彼はつられたように笑ってくれた。
「さっきは助けられた。ありがとう」
「私も、また貴方に助けてもらったわ。ありがとう」
こんなにも胸が温かくなるのは、自分の成長が嬉しいから。
少しでも貴方を助ける事ができて、役に立つ事ができて、誇らしいから。
「……アベル」
「うん?」
こんなにも怖いと感じるのは、考えたら駄目とわかっているから。
考えたらきっと気付いてしまう、わかってしまう。
だから考えなくていい、わからなくていいの。心の中でだって言葉にしない。
「私――…私の我儘に付き合ってくれて、ありがとう。こんな事になると思わなかったけど、少しでも街を見られて嬉しかった。」
どんなに奥深くへ隠しても、泣きたいような心地がほんの僅か、胸の片隅で燻っていて。
それでもなんとか、無いものとして扱う。
貴方は勘の鋭い人だから、丁寧に何重にもくるんでしまいこむ。私自身だってその中身を知らない。わからない。
優しい貴方に、「帰りましょうか」と微笑んで。そうだ、毒を扱う時は本当に気を付けてと注意しないと。
ニワトリは後で魔法を込め直して、またホワイト先生に預けて人に見てもらう必要があるから、明日は使えないかも。
そんな事で思考を埋めていく。考える余地がないように。
「ローブ、ありがとう……どうしたの?」
「どうもしない。…俺もお前といて楽しかったと、そう思っただけ――何で、また引っ張るんだ。」
「貴方の真似です。」
「……行くぞ。」
フードを深めに引っ張り返されて、「ああ、もう」と心の中で顔を覆った。
当たり前のように手を繋いで、私は今夜だけで幾度、平常心とそうでない時を行き来すればいいの。なんとも思ってないけれど、わからないけれど、でも。
誰だって嫌だわ、知りたくないでしょう、気付くのは怖い。
この に意味が無いなんて。




