526.初めて見たもの
南校舎五階――旧生徒会室。
テーブルに置いたランプに照らされ、一人の女子生徒がうつらうつらと舟を漕いでいる。
ウェーブがかった薄茶の髪は編み込んでハーフアップにし、軽く白粉をはたいた頬にはそばかすが見えていた。丸眼鏡の奥、ほとんど閉じかけていた目がノックの音でぼんやりと開く。
「ふぁあ……遅かったですねぇ、サディアス様。」
口元に手をかざして欠伸をかみ殺し、ノーラ・コールリッジは朱色の瞳で部屋の入口を見やった。今やってきたばかりのサディアスは、ローブのフードをぱさりと脱いで向かいのソファへ腰かける。
ノーラは丸眼鏡をくいと押し上げ、時計の針を見やった。
「すみません。少し気になる事があったので」
「いえ全然、あたしが待つ分にはいいんですけど。何かあったんですか?」
「……懸念という程度ですが、まぁ。」
「うわうわ。」
深く聞いたら自分の仕事も増えそうだ。
聞くか聞くまいかと微妙な苦い顔をして、ノーラはひとまず頼まれていたリストをテーブル伝いに差し出した。受け取ったサディアスがそれを読む姿を眺めておく。
その表情が、読む速さがなんとなくいつもと違う。それがわかる程度には、彼とは長い付き合いだった。
――懸念って、あたしが聞いていいやつですか。聞くしかできないかもだけど。
問いかけを口に出すか、否か。
悩み始めて数秒、口を開いたのはサディアスだった。視線は書類へ向いたままだ。
「貴女はフェリシアから、婚約者の事を何か聞いていますか。」
「フェリシア様から?」
予想外の質問に目を丸くして、ついそのまま聞き返した。
もしや、何か起きたという話をはぐらかすための雑談だろうか。そんな風に考えながら記憶を辿る。
「生徒会の副会長で三年生の、セドリック様ですよね。ロウル伯爵家の」
サディアスが軽く頷いた。
ノーラの頭には穏やかな笑みを湛えた青年の顔が浮かぶ。髪と瞳は常盤色で、物腰柔らかく紳士的だと聞いている。魔法でも剣でも突出した才はないものの、騎士団に入るわけでもなし。人格に問題がなく家が安定しているのだから、婚約相手としては優良だろう。
令嬢達の間でブローチが流行り出した時も、確かすぐにフェリシアへ贈っていたはずだ。ぽり、と頭を掻く。
「フェリシア様からは、優しいお方だって聞きましたよ。……ていうか、サディアス様は直接会った事ありますよね?」
「ええ、会議で幾度か。」
「悪い噂は聞いた事ないですよ。ああ…フェリシア様のこと本当に好きなんだろうなっていうのは、聞きますけど。」
「というと?」
黒縁眼鏡のレンズ越し、水色の瞳がちらと視線を寄越す。
彼とこんな話をするのは珍しいと思いながら、ノーラはどこともない空中を見やって人差し指を揺らした。
「心配性なんですかね。寮までほとんど毎日送りたがるみたいで、女子の間では『愛されてますわね』、『さすがフェリシア様ですわ』って言われてますよ。」
「行動だけ聞くと、まるで従者か護衛ですね。」
「んー、やっぱり好きな子は守りたくなるんじゃないですか?」
あたしもムキムキマッチョに守られてみたいなぁと、ノーラは心の中で呟いてみる。顔にも出てにんまりしてしまっているのは、それを見ているサディアスしか気付いていなかった。
ノーラが淑女の微笑みを保てない姿など見慣れている。そこには一切触れる事なく、思案顔のサディアスはゆらりと瞬いた。
「魔法の実力を踏まえると、むしろフェリシアの方が強いかもしれませんが。」
「…し、辛辣……。でも単純な腕力じゃそうはいかないし、男性が傍にいるかいないかって、変な人に絡まれないためには結構重要ですしね。」
「そういうものですか……いえ、確かにそうでしょうね。」
「ま、あたしだったら毎日はヤだなって思いますけど。友達ぐらい気軽に話せるならまだしも……フェリシア様にとっては、たぶんまだ《生徒会の先輩》なんじゃないかなぁ。」
「なぜわかるんです?」
「え、わかんないです?」
またすぐに聞き返してしまい、ノーラはサディアスが眉を顰める瞬間を見た。
失礼だったと気付いて慌てて手を横に振る。
「絶対わかりますって!セドリック様の話する時のフェリシア様を思い出してくださいよ。あんまり話題にした事ないけど、普段あたし達と話す時と違いませんか。」
「……?強いて言うなら、笑顔を作っていたとは思いますが。」
「それですよ、それ。好きだなーとか幸せだなーと思うなら、作らなくていいですもん。まだそこまではいってない証拠でしょう?」
だからまだきっと、フェリシア様の心に恋も愛もないのですとノーラは言う。
サディアスには無かった論法だ。侯爵令嬢として常に自らを律するフェリシアのこと、婚約による照れや気恥ずかしさが出ないようにしていただけと思っていた。
「……ただ、あたし…何か今、聞かれて思いましたけど。」
「何です?」
笑顔を引っ込めたノーラは、腹の前で少し不安げに指先を合わせている。
泳いでいた視線が、サディアスの瞳にぴたりと合った。
「もし――もしですよ。フェリシア様が婚約に不安とか不満があったとして。あたし達には、それを言ってくれないんじゃないかなって……下手に心配かけないように、その。隠すかもなーって、思いました。」
「……容易に想像がつきますね。」
「や、本当に《もし》の話ですけどね。家同士の結婚って、多少の事は飲み込むものなんでしょうし……少なくとも暴力とかはないでしょ、さすがに相談してくれますもん。……って、これじゃあたし達が心配性かもですよ。」
やれやれと首を振るノーラの前で、サディアスは先程見た光景を思い返していた。
ここへ来る前、サディアスはフェリシアとセドリックが二人で居るところに出くわしたのだ。
所用を終えたばかりだった。
考え事をしながら歩いていて、人の話し声がすると思ってたまたまそちらを見ただけだ。セドリックと並んでベンチに座るフェリシアと、目が合った。
邪魔をしたかと考え、同時にフェリシアはセドリックと繋いでいた手を離す。
知り合いに見られた羞恥とも違うその表情に違和感を覚えて、サディアスはそちらへ足を向けた。フェリシアがさっと立ち上がる。
『ご機嫌ようございます、ニクソン様。』
丁重に淑女の礼をした婚約者に倣い、一拍遅れて立ち上がったセドリックも「こんばんは」と頭を下げた。サディアスは一足先に顔を上げたフェリシアの瞳を見つめる。
彼女にしては珍しく動揺が見受けられ、それでも目はそらさない。何か言いたいのだろうに唇は閉じていた。セドリックが姿勢を戻したので、サディアスは口を開いた。
『驚かせたようですみません、ここに人がいたとは。』
『わたくし達の方こそ――』
『中で温まったので、少し風にあたろうかという話になったんです。今日は空も綺麗ですから。ね、フェリシア。』
照れ笑いして言ったセドリックに甘い視線を向けられ、微笑みを浮かべたフェリシアが頷き返す。
再び彼女と目が合うと、サディアスは自然に笑みを作っていた。
『探していたわけではありませんが、ちょうど良かった。』
『え?』
セドリックが戸惑った声を上げる。
その一瞬の間に、サディアスは必要な情報と言うべき事を頭の中で整理した。嘘を作るのは至極簡単だ。
『アーチャー公爵令嬢……シャロン様が捜していましたよ。』
『こんな時間にですか?』
『そうでしたか、わかりました。』
困惑したセドリックと違い、フェリシアはすぐに承諾した。
『あの方はどちらにいらっしゃるのでしょう』
『ウィルフレッド様と共に、食堂の二階にいるはずです。』
『ありがとうございます、ニクソン様。これからお伺いしますわ』
『え』
ちらりと、サディアスはセドリックを見やる。たとえ睨んでいなくても、これは「文句があるのか」という意味の仕草だ。
セドリックは僅かに目を見開いたが、反対はしなかった。当然だ。ロウル伯爵令息の意見よりも、アーチャー公爵令嬢、ニクソン公爵令息、ラファティ侯爵令嬢の意思が優先である。
『では、私はこれで。』
二人の間に何かあったのか、セドリックの事はまったく関係ないのは不明だが、フェリシアがすぐ向かうと決めた以上、恐らくサディアスの行動は間違っていなかった。
本当は食堂にいるのはシャロンではなく、シャロンに成りすましたジャッキー・クレヴァリーだが、ウィルフレッドの呼び出しと言えば妙な事になってしまう。
仮にジャッキーが上手く対処できずとも、そこにはウィルフレッドやチェスター、ダン、シャロンの侍女も揃っているはずだ。
サディアスが伝言したという事実まであるからには、「勘違いだ」とフェリシアが追い返される事はありえない。きっと今頃、セドリックと別れウィルフレッド達と居るだろう。
「まぁ、今日の心配はここまでにしましょうよ。お二人の事は明日の夜会で見られますし」
「…そうですね。」
ノーラから渡された資料のページをめくりながら、サディアスはセドリックの姿を思い出していた。
ラファティ侯爵も、フェリシア自身も納得して婚約を受け入れたはずの相手だ。
しかし、万が一にも彼女へ害を及ぼす事があったなら。
――その時は、退場してもらおう。
なにも、難しい事ではない。
フェリシアが正当な手続きを望むならサディアスはもちろん手を貸すし、そうではないやり方もあった。彼女が困っていたら手を差し伸べる、敵がいれば排除する。
アベルに救われた者同士、ノーラが同じ目に遭ったとしても勿論同様に助けるが、それでもどことなく、フェリシアには特別な情がある。
ゆらり、燭台の火が揺れた。
サディアスが初めてフェリシアの顔を見たのは、七年も昔の事だ。
『お前のせいだ、わかってるのかこの愚図!!』
その時サディアスは痛みの中にあった。
意識は朦朧としていたし、全身が痛んで、わけもわからないような、それでいてただの日常のようで、けれど。
『ひっ…』
小さく聞こえたその悲鳴は、日常には無いものだった。
目を開けた。いつものように暗かった。意識は飛びかけていて、だからこそ手がそれをめくってしまった。人がいる時は禁じられていたのに。
『何だ、お前……あぁ、ラファティ侯爵の娘か。』
奥へ歩いていく少年の後ろ姿が見えた。
奥で震えている少女が見えた。瞬いて、瞬いて、視界がはっきりしてくる。
『誰の許可を得て私を眺めているんだ、貴様』
『ご、ごめんなさい。ごめんなさい、すみませ…』
水色の少女。
フェリシアは、サディアスが初めて見た「か弱い人」だった。
――あれではきっと、たえられない。
身を縮めた彼女は小さくてきれいで細くて、そんなものは簡単に壊れてしまうと思った。可哀想だと思った。
気付けば、誰とも知らない少女のもとへ駆けていて。
その日からずっと――サディアスにとってフェリシアは、守るべき人なのだ。
◇
ニクソン公爵邸の庭は静寂に包まれている。
魔法で姿を消したジョシュアは眉根を寄せ、たった一人で歩いていた。
数分前、一人息子であるサディアスからの手紙を読んだばかりだ。内容を見てすぐに燃やしたので、ジョシュア以外にそれを読んだ者はいない。
契約を結んで迎えた妻イザベルは、大罪を犯した。
彼女がジョシュアにとって到底許せない罪を犯すのはもう二度目であり、処刑という未来が見えているからには今回が最後になるだろう。
イザベルが作らせた薬。自分で飲んだと宣った薬。
それはまだ見つかっていないのだと、ジョシュアは孤島リラの王立学園にいる息子へ書いて寄越した。その返信が届いたのが今日だ。
《私の部屋は探されましたか?》
意味を考えるのに、数秒かかった。
サディアスの部屋はとうに捜索済みであり、そんな事は息子もわかっている。万一手紙が他人に読まれた時の対策だろう。
ならば「私」とは何か。
それにとっての「部屋」とは何か。
花壇も東屋も通り過ぎ、木立を抜けた先へ足を踏み入れる。
あの一文を書いたサディアスの胸中など、ジョシュアに計り知れるものではなかった。
拓けた場所はほんの二メートル四方、背の低い雑草で覆われた中心には小さな墓石が一つある。
騎士がここを見たとしても、誰が見たとしても、子供が飼っていたペットでも埋めたと思うだろう。
墓石の前のスペースだけは地面が見えており、千切れた雑草に土がかぶさっていた。誰かが掘り返した跡だ。
ジョシュアはひどく顔を歪め、吐き捨てるように言った。
「……胸糞悪い。」




