525.一番の理由
噴水広場の中央には女神像が鎮座しており、その台座から円形に水が噴き出している。
抜き身の剣を構えた月の女神と、斜め後ろに跪いて祈りを捧げる太陽の女神。今はそれぞれの頭に花冠が置かれ、手首にはツイーディアの花に合わせた青いスカーフが巻かれていた。女神祭の期間ならではの飾りつけだ。
魔法で灯したのだろう色とりどりの炎がランプに入れられ、宙に浮いて辺りを照らしている。
広場には、楽器を持ち出して陽気な曲を奏でる者やそれに合わせて歌う者、噴水の周りで踊る者もいて賑やかだった。
立ち話する者も、備え付けのベンチや屋台が用意した席で酒を酌み交わす者、中には広場を囲う建物の屋上や、屋根の縁に座る者もいる。
「寒くないか?」
「えぇ、大丈夫。」
踊る人々の輪から離れた位置で、アベルとシャロンの二人は焚火にあたっていた。
木箱をいくらか置いただけの、椅子とも呼べない簡素な席。共に火を囲む周囲の人々も、貴族かもしれないと思いこそすれ、まさかその二人が変装した王子と公爵令嬢だとは予想だにしないだろう。
一つの木箱に身を寄せ合って座り、小声なら祭りの賑わいに掻き消されて、互いにしか言葉は届かない。
王都の女神祭では刺繍が入ったローブを着ている人が明らかに多かったが、王立学園の生徒達は制服と合わせて無地のローブを持っているせいか、見回せばどちらも同じくらいの割合で目に入る。
学園のイベントは長引いてもせいぜい十八時前後で終えるため、その後は寮の門限まで街へ繰り出す生徒も多いようだ。
「去年は去年で色々な事があったけれど、今年も忘れられない三日間になるわね。」
「滅多に会わない顔ぶれが来ているからな。このまま無事に終わればいいが」
「本当に……」
去年街へ出た時は、シャロンはナディア・ワイラー男爵令嬢の手の者に襲われた。
街中でダンは刺され、追われたクリスはスキルを開花させ、成長した姿となってシャロンを助けに来る。
『……クリス…?』
『うん、僕だよ!やっとぺかーってなったから、王子様…アベル殿下みたいに強くなれたの!』
ゲームのシナリオには登場していないはずだったシャロンの弟、クリス・アーチャー。
彼のスキルは特定の人物への憧れを元に、およそ十歳ほど自分の身体を成長させることだ。その姿での身体能力と髪色はその人物に沿うようで、アベルと同じ黒髪となって現れたのだ。
シャロンは、成長し髪色が変わった弟のその顔立ちに、見覚えがあった。
ゲームのシナリオにおいて、アベルのルートで最後に戦う敵――革命軍の戦士、イドナ。
アベルとカレンを許せないと叫び、果ては自決してしまった赤髪の男の正体こそが、クリス・アーチャーだ。
――気付いた時の絶望感は、ひどいものだった。遺されたクリスの苦悩が、正体に気付いたカレンが、貴方が…どんな気持ちでいたかと思うと……。
悲恋エンドにおいては、その直後にアベルはカレンを自ら手にかけている。
クリスを救えなかった事が、シャロンの死について責められた事が彼を追い詰めたのは間違いないだろう。
ただアベルがクリスのスキルを知った今となっては、正体を知らずに戦う事はありえない。
身を縮めて震えてしまいそうな恐怖も、不安も、今は繋いだ手の温もりが抑えてくれた。
シャロンは背筋を伸ばしたまま、笑い合う人々を目に映していられる。幸福な未来を目指して、前を向いていられる。自分の足で共に走っていけると、信じている。
怯えてその手に縋るのではなく、今ここで共にありたいから繋いでいた。
「…誰も怪我なく楽しんで、仲良く終えられたらいいけれど。」
「そうだな……羽目を外すなとまで言わないが、街では酒を飲む者も多い。祭りは誰しも開放的な気分になるし、何かしらは起きているだろうな」
「そうね。学園内でも多少の諍いはあったようだし……ねぇ。誰しもというなら、貴方も?」
首を傾げたシャロンの瞳は、街の明かりや焚火が反射して光っている。
冬の冷気のせいか焚火の熱か、白く滑らかな頬は少し赤みが差していて、その微笑みは柔らかい。アベルとの掛け合いを楽しむ時はいつもそうだ。
ウィルフレッドが見たら「今日も君の笑顔は云々」と褒め始め、ある程度語り尽くすまで止まらないに違いない。
「立場上、どちらかと言えば気を引き締めているつもりだが」
繋いだ手が急に気になって、アベルは心の中でだけ怪訝そうに眉を顰めた。
開放的な気分になっているかという質問と、安全面や彼女の精神的な安定のために手を繋いでいる事とは関係がないはずだ。
変装中なのでそこまで周囲の視線を気にする必要がない、という状況を改めて意識すると、普段より抵抗なくそうしている可能性はあるかもしれないけれど。
二人で今ここにいるのも、広場に行きたいという彼女の希望は否定されるほど難題ではなかった、それだけの事だ。
促すように小さく頷いたシャロンからは、せっかくの女神祭だから貴方にも楽しんでほしい、そんな幻聴が聞こえてきそうだった。
実際、彼女に誘われなければアベルは真っ直ぐ学園へ戻っていただろう。
その微笑みを見ていると、アベルも自然と口角が上がった。
「……まぁ、多少は自由に過ごしてる。誰かのお陰で、今も。」
「今も?」
「こうしてお前に付き合っているのは、仕事じゃないからな。」
「あら。てっきり監視のためかと思ったけれど?」
「くくっ…なんだ、ばれたか。」
「ふふっ、目を離すとすぐ巻き込まれるなんて言ったのは、貴方でしょう?」
「ああ、確かに。けど…」
笑い合う二人の後ろを、はしゃいだ子供達が駆けていく。
焚火がパチッと音を立て、アベルと目が合ったシャロンはどきりとした。頭の片隅で誰かが、否、自分で、「驚いただけ」と言い聞かせる。こんなに優しい笑顔は珍しいのだから、仕方がないと。
「お前の願いを叶えてやりたい。そう思ったのが最初で、一番大きな理由だ。」
「……ありがとう。」
どうにかそう言いながら手を伸ばし、シャロンはアベルのフードの端を摘まんだ。
彼が自由にさせてくれるまま、きゅ、と引っ張ってから胸元に手を引っ込める。アベルが今夜だけでも数度、シャロンにやってきた事だ。それはわかるがなぜ今やり返されたのかと、アベルは僅かながら困惑した様子でいる。
「…貴方も、できるだけ見られない方がいいと思うの。」
「……わかった。」
自分は見られようがそのせいで絡まれようがどうにかできる自信があったものの、アベルは大人しく頷いた。
伏し目がちになったシャロンが、照れ隠しのように――そんな必要はないはずなので、アベルからそう見えたのは何かの間違いなのだろうが――繋いだ手に少し、力を込める。
別に文句はないから気にしなくていいと、アベルは彼女の手の甲を指先で軽く叩いた。
広場では人々の明るい笑い声や陽気な音楽が絶えず響いている。
焚き火にあたりながらグラタンを頬張っていた老人が、食べ終えたのかゆっくりと腰を上げた。誰もいなくなった木箱目掛けて、先程も近くを通ったリラの子供達が駆けてくる。
「ね~それ何もってきたの?いい匂い!」
「えへへ、そうでしょ。お母さんが持ってたポプリなん――あっ!」
アベル達は反射的にそちらを見たが、どうやら子供は転びかけただけのようだ。
慌てて焚火に手を伸ばそうとして、通りすがりの大人に止められている。躓いた拍子に手を離し、持っていた物が火に入ってしまったのだろう。
清涼感のある香りがした。
シャロンがびくりと肩を揺らし、咄嗟にアベルの鼻と口の前に手をかざす。それだけで意味は通じると信じ、ここから遠ざかるようにと繋いだ手を後方へ引いた。声で伝えねばならない事は他にある。
「火を消して!」
アベルが即座に発動した水の魔法が焚火を消す。
突然の事に周囲の人々がどよめき、子供を含め火に近かった幾人かはふらりと揺れて地面に倒れた。悲鳴が上がって騒ぎが大きくなる。
アベルはシャロンが手を伸ばした瞬間から呼吸を止めていたが、あの香りが届く方が早かった。走れないらしい彼女を抱えて広場からは脱したものの、頭から圧し掛かるような重みを感じる。異常な眠気だ。
記憶にあるのは「ポプリ」という子供の声、安眠用かつ燃焼禁止のものだろう。
「っ、くそ……」
建物の裏で膝をつき、アベルは自身のローブの内側へシャロンを入らせた。隠すにはあまり意味がない事はわかっている。空いた手をベストの内側へ仕込んだ投げナイフに伸ばそうとして、なぜかシャロンに掴まれた。
――馬鹿、止めるな。ここで倒れるのはまずい。
変装して出歩いている身であり、二人揃って寝ていたら誰に何を言われるか、最悪、何をされるかわかったものではない。見えないよう魔法で隠したところで、アベルが寝てしまえば意味はなかった。
騎士団詰所は遠い。一番近いのは喫茶《都忘れ》の個室だが、恐らくそこまでは意識がもたない。最速で飛ぶにしても、途中で寝てしまった場合にリスクが高い。
そこまで考えたアベルに、シャロンが震える手で何かを握り込ませた。
「これ、を――…」
「は?なん…シャロン、」
がくりと力が抜けた彼女を揺すっても返事はない。
眠気を堪えて苦い顔をしていたアベルは、そこではたと瞬いた。あれほど耐え難い圧力で襲ってきていた眠気が、波が引くようにどんどん消えていく。
ほんの数秒も待たずにすっかり目が覚めて、状況の掴めないアベルは手を開いた。
鹿角で作られたらしい、ニワトリのストラップが転がっている。
まったく意味がわからない。黒くつぶらな瞳がアベルを見ている。
「………、シャロン。起きろ」
説明が必要だった。
頬をぴたぴたと軽く叩いてみるが、シャロンはすっかり眠っていて起きる様子がない。広場で倒れた者達も今はただ、寝ているだけだろう。すぐそれに気付いて騒ぎはある程度収束するはずだ。騎士が来て事情聴取も始まれば、事件ではなく事故ということも明らかになる。
試しにニワトリをシャロンにも握らせてみたが、何も反応がなかった。
彼女は明らかに理由があって――アベルがそれで起きるとわかっていて渡したのだろうから、一度きりのものなのだろう。
なぜそんな物を持っていたか?
アベル、シャロン、そして通常ではありえない状況での睡眠。それはこれまで経験があるもので、彼女がそれを誰かに相談した可能性もあるだろう。
今の一件、シャロンは香りで状況を察していた。
知識と経験を与えたのは誰か。相談しそうな相手は誰か。妙な道具を持っていてもおかしくないのは誰か。
一人の男の姿が脳裏に浮かんだ。
「…アベル……」
温かな声で名を呼ばれ、視線を落とす。
いつかのように少し寒いのか、シャロンはぴったりと身を寄せて眠っていた。男衆ならもっと強く顔を叩くなり、人によっては水を浴びせるなどして起こすのだが、そういうわけにもいかなかった。
意識のないシャロンを女子寮に送るのは人伝でも危険だ。目撃された場合にどんな噂を流されるかわかったものではない。
医務室か、街中で休ませるか、どうにかダンに連絡をつけるか。
怒り狂うノア・ネルソンやメリル・カーソンの顔が浮かんできたが、アベルはひとまずシャロンを抱えて立ち上がった。このままでは風邪をひかせる。




