524.もう少しだけ、友達と
レストラン《オールポート》――三階個室。
孔雀亭へ飲みに行くと言い、ジークハルトはサングラスをかけて席を立った。
「ではな。アベル、シャロン。」
「ああ」
「ありがとうございました、ジークハルト殿下。」
背を向けたジークハルトがひらりと片手を振り、一行は部屋を出ていく。
ジャックと目が合ったシャロンは会釈し、ジャックもほんの一瞬だけ笑い返す。最後、振り返ったロイは二人に向けて一礼した。顔を上げた彼にアベルが軽く頷き返し、扉が閉まる。
一拍置いてアベルと顔を見合わせ、シャロンは肩の力を抜いて微笑んだ。
「お疲れ様、アベル。」
「君も。ジークやあの補佐官を相手によくやった。」
「ふふ、お褒めに与り光栄ですわ。」
店を出る時間は一行とはずらしておきたい。
シュガーポットを手元に寄せ、アベルは再び椅子に腰かける。
傍へ寄ったシャロンはティーポットカバーを外し、食後の紅茶のおかわりをアベルのカップに注いだ。料理の皿は既に下げられている。
「ありがとう」
「どういたしまして。殿下とはどんな話だったの?」
「…皇帝の子も、全てが無事に産まれたわけではないという話だ。」
「そう…」
席に戻って自分の分のティーポットに手をかけながら、シャロンは少し困ったように眉根を寄せた。
ジークハルトの事だ、出血などについても包み隠さず話したのだろう。確かに食事中、それも淑女の前でする話ではない。
「そちらは?あの補佐官は饒舌な方には見えなかったが。」
「なぜジークハルト殿下を呼んだのか、と……警戒されていたわね。当然のことだけど」
カップへ注いだ紅茶からはまだ、ほのかに湯気が立ち昇る。
シュガーポットの蓋を閉めようとしたアベルは、順番を待つようにその手を見るシャロンに気付くと、スプーンを取って彼女のカップにも角砂糖をひとつ落としてやった。
「ありがとう。」
「どういたしまして。…ジークがわざわざ来るほどだ。補佐官として、君という人を知っておきたかったのは確かだろう。」
「此度の来訪が実現したのは、もちろん私が声をかけたという一点ではなく、貴方やウィルがいるからこそでしょうけど…そうね。学園祭に皇子殿下を呼ぶ事が、かなり珍しい発想だという自覚はあるわ。女性では特に。」
ジークハルトの事だ、女に篭絡されて国を売るような馬鹿はしないだろう。
ルトガーとてそう信じてはいるだろうが、なにせシャロンの申し出も、それをジークハルトが受けるのもイレギュラーが過ぎた。二人の間に男女の情が僅かでも見えていたら、補佐官としてはまた別の悩みを抱える事になったはずだ。
――ジークハルト殿下も、これは二度とない機会だとわかっていた。そこへ連れて来るのだから……ルトガー様はきっと、部下の中でも特別な存在なのでしょう。
口に含んだ紅茶の甘みをこくりと飲み下し、シャロンはもう誰もいない向かいの席を見つめる。
学生時代にジークハルトと再会しルトガーにも会えた事は、ウィルフレッド達の未来に良い影響を与える事だろう。
ルトガーはきっと、皇帝となったジークハルトを支え続けた人のはずだ。
ゲームのシナリオにおいても。
「君については、あまり突飛な事をしてウィルを心配させないでほしいものだが……結果的に、この来訪は大きな意味があったと思う。大々的に公表する事はなくても、これは君が成した事の一つだ。」
「……そうね。私が、貴方達と一緒に成した事。」
「ああ。」
「…光栄だわ。」
シャロンは心から微笑んでそう言った。
そもそも意味があると思っていなければ、アベルは最初から協力しなかっただろう。それをシャロンもわかっていると知っていて、なおもはっきり言葉にしてくれた事を「光栄だ」と、そう思う。
胸がじんと熱くなって、シャロンはそっと自分の手を握った。
認めてくれた事が誇らしくて、未来のために動けたという事実が嬉しくて、役に立てたならよかったと安堵して。アベルの手を取って「ありがとう」と伝えたい、そんな気持ちを我慢する。
同じように、言葉だけで伝えれば済む話なのだから。
「落ち着いて話ができたのは……ロイさんやジャックさんが見守ってくれたのもあるけれど、やっぱり貴方が近くにいてくれたからだと思うの。ありがとう、アベル。」
「元から共に来る予定だったんだ、礼を言われるような事でもないが」
アベルに手を差し出され、シャロンは内心どきりとした。
手に触れたいと思った事が気付かれてしまったのか、そんなはずはないという動揺を押し隠し、できるだけ平静を装って自分の手を重ねる。
細い指先を軽く握り、アベルはふと微笑んだ。
「…お前が安心できたなら、よかった。」
閉じた唇に力をこめ、シャロンは声を上げないように気を付ける。
そうでなければ「あの」だとか「えぇと」だとか、曖昧で慌てた様子の言葉の切れ端が零れてしまいそうで。動揺を知られてしまいそうで。
アベルから大事にされていると、思ってしまいそうで。
彼が守ろうとしてくれる意味を、勘違いしてしまいそうで。
「…シャロン?」
――今は、名前を呼ばないで。
赤くなっているだろう頬を、動揺を隠しきれずに僅か泳いでしまった瞳を、アベルはどう感じたか。
シャロンは懸命に頭を回転させ、指先の感触に意識が向かないよう注意しながら苦笑した。
「思ったより……紅茶が、まだ熱かったから。温まって…外の空気を吸いたいかも。」
「そうか。ジーク達もそれなりに離れただろうし、頃合いか。俺達も戻ろう。」
「ええ」
いともたやすく手は離れ、アベルは紅茶の残りをくいと飲み干して立ち上がる。
シャロンは指先に灯った熱を隠すように手を握り、席を立つ流れでアベルに背を向けた。密かに深呼吸をして、心を落ち着かせるよう努力する。
――…少し見とれてしまうくらい、仕方のない事だわ。
そこに特別な感情がなくとも。
美しいものや可愛いものを見たら心がときめいたり、感心したり、素敵だと思ってしまうものだ。感動を覚えたり見惚れたりしても、相手に迷惑がかからない限りは何も罪ではない。
『ごめんなさい、アベル。…見ていたかっただけよ。貴方を』
――思えば、先程の私は一体なにを正直に。見ていたかったって、そんな、「なぜ」と聞かれたらどうするつもりで。なぜ?なぜって――そんなのわからないわ。私は…
「行くぞ。」
「はいっ!」
つい肩を揺らして声を上げてしまい、シャロンはハッとして振り返った。
アベルが少し不思議そうな顔でこちらを見ている。「どうした」と聞かれる前に足を踏み出し、シャロンはどうにか微笑んだ。
「なんでもないわ。行きましょう」
会計処理はとうに済んでいる。二人が店の外に出ると、冷えた空気が肌を撫でた。
少し火照った頬にはちょうどいいと、シャロンは小さく息を吐く。アベルがまたシャロンのフードの端を軽く引いてチェックしているが、もはや突っ込まない。
「よし。手を」
そう言ってアベルが手を差し出した瞬間、シャロンの心に一抹の寂しさが訪れた。
学園へ戻れば、彼との時間は終わる。
――もう少しだけ。
浮かんだ気持ちを口に出せないまま手を重ね、自然と指先を絡めて繋がった。心臓の鼓動に気付かないふりをして。
彼がこんな風に触れる相手は自分だけではないだろうかと、考えなくていいはずの事を考えてしまう。
――もう少しだけ、…大切な友達と、女神祭を過ごしてみたい。
歩き出そうとしない彼女に気付き、アベルが僅かに首を傾げた。
「どうした?」
「…どこか寄りたいと言ったら、貴方を困らせるかしら。」
「場所による。」
アベルらしい即答である。
真剣な目をした彼が言う事には、飲み屋街と、西の古城やら公爵の屋敷やら、遠い場所は駄目らしい。あまりにてきぱき答えるので、シャロンはほんの数秒呆気にとられ、ぱちぱちと瞬いた。
感じていた気恥ずかしさもどこかへ消えて、心の中で「私、考え過ぎていたわね」と苦笑する。
「じゃあ、噴水広場は?」
「それくらい構わない。何かあったのか?」
「何かというわけではないのだけど……リラの女神祭は初めてだから」
「ああ…」
「せっかく貴方と来ているし、もう少し街を見ていきたくて。」
来年はウィルと来られるようにしてやろう、アベルはそう考えた。リラに来たのがせめてジークハルト一人ならその隙も作れたかもしれないが、今年は来賓の数が多かった。
シャロンの手を引いて歩き出す。
「来年はウィルと来たらいい。」
「そうね、来年はウィルも一緒に。」
――だから、なぜ俺を入れる。
アベルは「ウィルと(俺達で)来たらいい」と言ったわけではない。「ウィルと(君の二人で)来たらいい」と言ったのだ。
ウィルフレッドとシャロンの感覚が、アベルにはいまいちよくわからない。
一般的な話として、女神祭に恋人と行くなら二人きりで楽しむものらしい――というのが、周囲の話からアベルが察した常識だった。
もちろん家族で楽しむのも普通だが、アベルは自分が将来の義弟だからといって、婚約者同士の間に割って入るような性格はしていない。
ウィルフレッドが事ある毎に「三人で」と言ってくれるのが嬉しくないわけでは決してないが、本当にこのままでいいのだろうかと思う事はあった。
『貴方以外の人と、こんな風に二人になろうとは思わないもの。』
以前そう言ったシャロンは、ウィルフレッドとは沢山話せているから充分とも言っていた。
アベルが意図的に少し彼女から距離を置いていた時期だ。やり過ぎだと言われて、それ以降は徹底まではしないようにしていた。
――…ウィルとはとうに心が通じているから、何も問題ないという事なのだろうが。やはり、その辺りの感覚は俺にはわからないところだな。
さらに言うなら、シャロンからの家族扱いも気が早すぎるし、周囲に誤解を与えかねないリスクもあるのだが、こればかりはもう諦めかけている部分だった。
何かと飛び出していくシャロンのこと、今のようにダンがいない時は特にアベルが傍にいて、すぐ助けたり引き戻せる位置にいるのが最も安全なのは確かだからだ。
「この先は人が多くなるから、勝手に離れないように。」
「…成人していないとはいえ、そんな注意を受けるほど子供でもないつもりなのだけど。」
「目を離すと何かしら巻き込まれるだろう。」
「そんなこと――…ふふ、どうしましょう。否定するには前例が多くって。」
「笑いごとじゃない。」
くすくすと楽しそうなシャロンに、アベルは呆れた様子でため息を吐く。前にも似たようなやり取りをした事がある気がしてきた。
荷馬車が横切るのを待って、前にいる人々は一時足止めされているようだ。立ち止まったところで繋いだ手をくいと引かれ、そちらへ少し頭を傾ける。
「でも今夜は、貴方が捕まえていてくれるのでしょう?」
だから大丈夫と微笑むシャロンを見て、アベルは無意識に反対の手を伸ばしていた。
彼女の頬に触れそうだった手はぴたりと止まり、すぐ横にあったフードの端を軽く引くだけに留まる。困り顔のシャロンが「そんなに?」と尋ねた。




