523.この場における正解を
「思いのほか遅くなってしまったな」
ホワイトと共にギルドから一歩外へ踏み出し、帽子をかぶったヴァルターは黒い夜空を見上げる。白い大きな雲が時折月明かりを遮っているが、星々煌めく美しい冬の空だ。
門前で馬車の周囲を確かめるセシリア達に会釈して、黒いコートを着た男女二人組が通ってくる。背の高い女が、首を傾げて隣の男を見下ろした。
「どなたかお客様がいらしているのでしょうか?こんな時間に珍しいですね。」
「そうだな。場合によっては日を改めるか――」
緋色の長髪をポニーテールに結った女と、長い前髪が目元を覆い隠している男。
それでもヴァルターとホワイトに気付いたのだろう、男は言いかけたまま数メートル先で立ち止まり、女にも倣うよう合図しつつ一礼した。
さらりと流れる、濃い紫色の髪。その色に見覚えがあると気付いて、ヴァルターは瞬いた。
勢いよく頭を上げ、女は髪の乱れも気にせず笑う。
「こんばんは、ホワイト先生!奇遇ですね。」
「ギルド長にご用事ですか。」
「ああ。今終えたところだ」
知り合いらしいホワイトに説明を求めると、どうやらこの二人はジェフリーが運営する喫茶店の店員らしい。
まじまじと見ていると、前髪の向こうで、男の方に目をそらされた気がした。
「では、長くお引き止めするのも申し訳ないですね。失礼します」
「失礼しますね。先生、お客様。」
二人は軽く一礼し、ギルドの方へと再び歩き出す。
このまま別れていいのか。そんな言葉が頭に浮かび、ヴァルターの口は勝手に開いていた。
「ヴィンフリート」
ぴたりと、男の足が止まる。
知らないはずの名を聞いて足を止めた以上、彼は何もなしにこの場を去る事はできなかった。
女は彼が止まったがゆえに自分も止まり、不思議そうな顔で男とヴァルターをそれぞれ見やる。男はゆっくりと振り返ったが、薄く微笑みを浮かべる中に含まれた感情は読めなかった。
「…ルーク。先に行っていてくれ」
ヴァルターの言葉にホワイトは瞬いたが、ちらりと男――テオフィル・ノーサムを見やり、黙って馬車の方へ歩き出した。
テオフィルに軽く手で背中を押され、女――ワンダ・ノーサムも、困惑した様子ながらギルドの玄関へと離れていく。
互いに数歩進んで、二人は向かい合った。
距離が近付いても、テオフィルの目はよく見えない。口元は困ったような微笑を浮かべている。
「人払いをお望みのようでしたので、こちらも倣いましたが。お客様はどちら様でしょうか。」
「……貴方は《ヴィンフリート》だろうか?」
「いえ、テオフィル・ノーサムと申します。似た顔をご存じで?」
「俺に顔を見せてくれるのか。」
ヴァルターが聞き返すと、テオフィルは張り付けていた笑みをやめた。
ここで前髪を上げてはっきり目鼻立ちを晒せるかと言われると、それはしたくない。
「……貴方が、何をご存じなのです。」
本物だ。
ため息でも付きそうな鬱々とした声で返され、ヴァルターの体にぞわりと緊張が走った。背には冷や汗が滲み、心臓がどくりと震え、予想だにしなかった状況で何をすべきか考える。
――こんな所で会うとは、いや、まさか生きている内に会うとは、考えもしなかった。いなくなったのは俺が生まれるより前だ。そんな貴方がまだ生きているとも、思っていなかった。
呼吸が浅くなる。
動揺を押し隠し、ヴァルターは自分の胸に片手をあてた。他人から見て過剰と思われるような態度は取れない。爵位もない一般人として暮らしているだろう彼へ、せめてもの敬意として。
「……見た事が、あったんです。母は今も持っていますから……幼い頃の、貴方の髪を。」
「俺じゃない」
テオフィルが即座に否定する。
声色からすると彼は顔を顰めていそうだったが、それは嫌悪感というより、気付かれた理由に合点がいったからのように思えた。
「ですが」
「俺ではありません。ヴァルター殿下」
「…もちろん、国に混乱を起こしたいわけでは。ただ、母は今も貴方の生死を気にかけていて」
「お持ちなのが誰の髪か知りませんが、きっとその男はもう死んでいますよ。スペード事件の渦中で、義理の両親もろともね。」
公的に、ロベリアの先代国王の第一子は現国王ギードである。
その五年前に生を受けた子は死産だったためだ。記録に残されているのはそこまで。
「どうしてツイーディアに……あの子爵はまさか、貴方を」
「彼は何も知りません。たまたま訪れた先で孤児を拾ってくれただけの、俺の恩人であり、尊敬する養父です。」
「…わかりました。それは信じます」
髪色が違う。それだけの理由でいなかった事にされた男児の存在を、王妃は夫に隠れて子供達に伝えていた。本当の長兄の存在を。
ヴィンフリート・ヤニク・ノルドハイム、生きていれば二十九歳。
「お願いです、一度でも母上に会って頂けませんか?ヴィンフリート兄上」
「……俺と貴方は他人ですよ。殿下」
遠目からこちらを見守る護衛達を刺激しないよう、テオフィルはヴァルターに背を向けた。
袖の中から取り出した小型のナイフで髪の端、耳にかかる部分を一房切り落としてハンカチに包む。聞こえた音で、ヴァルターも彼が何をしたかは理解していた。
「…ですが、俺が誰かに似ていて……それが慰めになる人がいるなら。」
振り返ったテオフィルの前髪の隙間から、ほんの僅か、青い瞳が見えた気がする。
差し出されたハンカチを受け取り、ヴァルターは丁寧に懐へしまいこんだ。
「来世でそれなりに上手く生きているだろうとでも、伝えてあげてください。」
「……確かに、承りました。」
「もう会う事もないでしょうが……皆様、どうかお元気で。」
「はい。…そちらも、どうか。」
絞り出したようなヴァルターの声に、テオフィルはただ黙礼する。
ワンダが待っている玄関へ向けて踵を返し、今度こそもう、振り返る事はなかった。
◇
南西校舎二階――食堂。
席は空いている所の方が多いものの、イベントの手伝いで残っていた生徒や、宿に帰る前にもっと在学中の子供と話しておきたい両親。出張店舗を終えて食事に来た商人、学園の職員など、遅い時間ながらまだ様々な客が訪れている。
その中でもここ数十分の間にやってきた客が選ぶ席は妙に一方向へ偏っていて、いずれも時折ちらちらと視線を向ける先があった。
扉はなくとも左右の細い柱と彫刻が施された柵で区切り、そこは半個室の空間となっている。
テーブルを囲むのはツイーディア王国第一王子ウィルフレッド、アーチャー公爵家長女シャロン、オークス公爵家長男チェスターの三人。
夕食に来たわけではないらしく、テーブルには飲み物と摘まみ程度の菓子があるだけだ。
柱の傍にはシャロンの従者であり共に学園に通っているダンと、もう一人、橙色の髪の女性が控えている。公爵家どちらかの侍女ではないかと、客達は密かに予想を言い合っていた。
集まる視線など慣れっこで、まったく気にしていない様子のチェスターがへらりと笑う。
「今日もなんだかんだ疲れましたね。楽しいは楽しいんですけど、片肘張っちゃうっていうか。予想外の事もちらほら起きるし。」
「報告は色々と聞いているよ。チェーリアとヴェネリオとか、俺もその場で見てみたかったな。」
「ウィルフレッド様もシャロンちゃんも、その時は舞台の方に行ってましたもんね。」
「ええ。どうにか司会をこなして……舞台はとても素晴らしかったけれど、ふふ。馬術場の件は、私も見てみたかったわ。」
《馬術》の授業においてシャロンが主に選ぶ牝馬、チェーリア。同じくアベルが主に選ぶ牡馬、ヴェネリオ。
アベルと共に現れた客人に対し、反応したりしなかったりと、それぞれ自由にやっていたようだ。
「チェーリアが自分から知らない人に近付くのも珍しいと思うの。あの子は誇り高いから、見向きもしなさそうなものなのに…警戒していたなら猶更ね。」
「良く捉えれば、客人に興味があったという事かな。」
「あはは。仲良くしよーって感じではなかったけど、確かにね。興味はあったんだと思う」
談笑する三人の姿を、多くの人が遠巻きながら眺めている。
しかし今、誰も声をかけはしなかったその場所へ近付いていく者がいた。
来ると察したダンが声を出さずに合図し、ウィルフレッド達は話を中断してそちらを見やる。
立ち止まって丁寧な淑女の礼をしたのは、シャロンの親友であるフェリシア・ラファティ侯爵令嬢だ。
薄い水色の長髪がさらりと揺れて、同じ色の瞳がウィルフレッドを見据える。
「お話し中失礼致します。第一王子殿下」
「構わないよ、ラファティ侯爵令嬢。どうしたのかな」
「先程――ニクソン様にお会いしました。その際、シャロン様がわたくしを捜しておられたと聞きましたので」
それはありえない。
ウィルフレッドは即座にそう思った。
今現在シャロンは内密に、それもアベルと共に行動している。彼女がフェリシアを捜しているわけがない。
何らかの事情でフェリシア自身が嘘をつき、自然な形でウィルフレッド達と合流する事を望んでいるのだとしたら、わざわざサディアスの名を出すだろうか。
サディアスが何らかの意図でフェリシアを向かわせたなら、それがウィルフレッドではなくシャロンなのはなぜか。
ここに居るのが偽物である事など、サディアスはわかっているはずだ。
――受け入れるが、問題は彼がどう反応するかだな。わかるだろうか、この場においてどうするのが正しいかを。
ほんの一秒程度で思考を終えて、ウィルフレッドは同じ卓にいる「シャロン・アーチャー」に目を移す。
薄紫色の瞳を少し丸くして、彼はフェリシアをじっと見ていたようだ。瞬くと柔らかく微笑んで、シャロンのように頷く。
「急にごめんなさい、フェリシア様。私、今夜の魔法発表会には行けなかったでしょう?どんな様子だったか、司会として近くでご覧になった感想を聞きたくて。」
自然な仕草で彼女に椅子を勧めると、主人の意向を受けてダンがその椅子を軽く引く。
フェリシアはほんの僅か、安堵の息を吐き出してから足を踏み出した。「わたくしでよろしければ」と微笑む表情が、姿勢の角度が、椅子に腰かける深さが、普段見かけるものと違う。
――緊張してんのか怯えてんのかわかんねーし、何なのか全ッ然知らないし、マジでおじょーさまが何か言ってたのかどうかも知らないけど。今俺ちゃんが「知りません」って言うのはきっと、おじょーさまならやらない事だ。
シャロン・アーチャーを演じながら、ジャッキー・クレヴァリーはそう判断した。
こちらを見たフェリシアが、自分にしか聞こえない小ささで「ありがとう」と呟く。それはジャッキーの判断が正しかった事の、何よりの証左だった。
ウィルフレッド達に歓迎されて輪に加わるフェリシアの姿を、常盤色の髪の青年が冷めた目で見ている。
食堂入り口の扉の影に、身を隠すようにして。
「……なんだ、本当にアーチャー公爵令嬢に呼ばれてたのか。」
ぼそりと呟く声は誰にも聞こえない。
伯爵令息セドリック・ロウル。サディアスの指示通りにすると言った婚約者を食堂前まで送り、とうに笑顔で別れたはずの男だ。小さく舌打ちしても苛立ちは晴れない。
「俺がフェリシアと過ごしてたのに、余計な邪魔を。」
裏庭のベンチで二人きり、せっかく良い雰囲気だったというのにサディアスが通りかかった。
公爵家の跡取りが一人でそんな場所をうろつくとは思わなかったし、ニクソン家の事だから何か悪だくみでもしていたのかもしれない。そんな事はどうでもいいけれど、サディアスが来た途端、フェリシアは繋いでいた手を照れ隠しで離してしまったのだ。
無粋なのは良い雰囲気のこちらに気付かず姿を現した向こうなのに、互いに見なかった事にすればいいのに、フェリシアは姿勢を正しサディアスに挨拶した。
貴族令嬢として礼節を重んじるなら正しい行いかもしれないが、セドリックとしては行き過ぎに思える。
――おまけにあの方は、さっさと立ち去らないどころか俺のフェリシアをじろじろ見て。挙句に「シャロン様が捜していましたよ」?伝えるべき状況か否かくらいわからないのか、勉強じゃ習わない部分なのはわかるけど。
一応はサディアスにも笑顔で対応したセドリックだったが、眼鏡の奥、フェリシアよりも濃い水色の瞳がこちらを見た一瞬は妙に心がざわついた。今思い出すだけでも背を冷や汗が伝う。
――何だったんだ、あれは。疑心?敵意?警戒?探られたのか、元から愛想がないのは知ってるが。
もしやサディアスはフェリシアに気があり、二人の邪魔をしたのだろうか。
そこまで考えたセドリックだが、どうもシャロンが呼んでいたのは本当らしい。ため息を吐いてその場を後にした。




