522.それは希望ではなく
走り出した馬車の中、ヴァルターは深く息を吐き出した。
ロズリーヌと対面したのはそう長くない時間だったが、なにせ彼女はトラウマそのもの。精神疲労は多大なものだった。
セシリアを含め護衛達は馬車の前後についていて、ヴァルターの斜向かいには彼を気遣うでもなく、普段と何ら変わりないホワイトが座っている。青い瞳をそちらに向けて、ヴァルターは苦笑した。
「ルーク、ありがとう。」
「…何がだ。おれは何もしていない」
「そう思うだろうけど……貴方がいたから、俺は落ち着いて話ができたんだ。」
彼なら、もしヴァルターが怒りに身を任せかけても止めてくれる。
ひどく体調を崩してもすぐ適切に対処してくれただろう。彼のように冷静であらねばと自戒する事にも繋がった。一言たりとも喋っていないとしても。
「だから、いてくれてありがとう。」
その言葉に、ホワイトはただ相槌として頷いた。
深く理解はしていない、けれどヴァルターの意思は聞いたという証に。
強引に距離を詰める事も、踏み込んでくる事もない。
理解できると驕る事もなければ、支配しようと口を出してくる事もない。人によっては冷淡と言われるのだろう、けれど決して無情ではないホワイトの距離感が、ヴァルターは嫌いではなかった。
実に彼らしい接し方だと、そう思っている。
「――…貴方は、姉上を覚えているだろうか。」
「エーファ・イルムヒルト・ノルドハイム。昔会ったきりだが」
「そう……実は俺と今、少々揉めていてね。その原因を作ったのも、誰あろうロズリーヌ王女なんだ。…そんな事までは、責められやしなかったが。」
去年ロズリーヌが破壊した古い絡繰り、その内部から発見された設計図。
破壊されなければ見つかる事もなかったはずの、歴史の闇に葬られていただろう絡繰りの作り方。当時まだ王太子だったギードは、仕組みを理解した時点でそれの作成を禁じた。
無論、そんな物が見つかった事など、ホワイトにも言えるはずはない。
「例えば。成功率が限りなく低い薬なんて、希望ではなく幻想だと思わないか。」
「捉え方と状況によるな。」
「ふふ。とりあえずで共感を示さないあたりが、本当に貴方らしいよ。」
その絡繰りがあれば救われる者は多いと姉は言った。
しかしそれを使うには、死に至るほどの苦痛を避けては通れない。仮に生き残ってもどこまで精神を保てているか。凄惨な痛みは人間の脳を容易く壊すのだ。
希望を口にするエーファに対し、ヴァルターは告げた。
『酷な事を言うようですが、貴女が救いたい人達ではもたない。』
二十年近く前ロベリア王国で、風邪薬に違法魔力増強剤《スペード》が混入された。それは予測不能な魔力暴走の数々を引き起こし、数多の死傷者をもたらした――いわゆる《スペード事件》である。
当時第一王女エーファはまだ一歳だったが、その後、物心ついた彼女はある場所へよく出入りするようになった。
事件によって体の一部を失い、それまでのようには働けなくなった兵士達が勤める施設だ。
古びた設計図には、意思のままに動く義肢の作り方が書かれている。成功例はたった一人だとも。
大昔に存在したその被験者は大火傷によって片側の手足が無かったそうだが、それも結果は「成功」の二文字だけであり、予後がどうだったかまでは書かれていない。
家名も出自も不明な若い男。察するに、相当な胆力と精神力の持ち主だったのだろう。
全盛期に比べて心身が衰えた兵達に与えるには、あまりに惨いものだ。
たとえ、助けたいという純粋な想いからであっても。
「おまえの言う、成功率が限りなく低い薬があったとして。高められる可能性があるなら、希望と呼ばれてもおかしくはないだろう。だが現状その可能性が全く見えないなら、幻想と言われても仕方がない。」
「ああ。厄介な事に、それを中々理解して頂けなくてね。」
「強行されそうなのか。」
「いや。できる技術者が兄上ぐらいしか――…どの道、姉上単独では土台無理な話ではあるかな。」
ホワイト相手に口が滑りかけたと、ヴァルターは話を切り上げる。
ある程度悟られても問題ない相手ではあるが、それでも、残念ながらホワイトは他国の人間なのだ。
「……あの王女殿下には本当に困らされたんだと、俺のただの愚痴だよ。」
「そうか。」
「ルークならどう姉上を説得しただろうとか、考えてね。」
「おれは人の説得に向いていないと思うが。」
「あはは。それは相手によるだろうけど、俺も姉上がさらに激昂する姿が浮かんだよ」
くすりと年相応の笑みを漏らして、ヴァルターは首にかけたゴーグルに手を触れる。
エーファは怒り噛みつくだろうが、ホワイトは自分の考えを曲げない。そうしてきっと、やがて折れるのは姉の方なのだ。
――王になったギード兄上は、そこまで丁寧に姉上を見てやる事ができない。カルステン兄上は畑違いだし、フィーネは論外。妃達は姉上に同情的か無関心かに分かれている。何事も頼りになるルークがロベリアにいてくれると、俺は安心だし楽もできるという所だが。
それが望めないという事を、ヴァルターはよくわかっていた。
ホワイトの心に、ロベリアへ移住しようという気は全く無い。
「もうじき着く頃だ。」
「わかった。」
馬車が向かう先はヴァルターの宿泊先であるドレーク公爵邸――ではなく、危険生物対策ギルドだ。魔獣の対処法を把握した者に討伐資格を与えたり、素材の換金などを請け負っている施設だが、孤島リラはまだ魔獣が出現した事がない。
ゆえに、目立った実績としては王立学園の教師全員がそこで討伐資格を得たくらいである。
夏にヴァルターが王都ロタールを訪れたのは、国境付近の魔獣対策について協議するためだった。
今回孤島リラを訪れるにあたり、魔獣対策として建てられたギルドに寄りたいと希望したのもヴァルター自身だ。
ギルド長はジェフリー・ノーサム。
ホワイトの父親であるマリガン公爵の腹心、外交官として二十年以上勤めた男であり、一部には養子を多く引き取っている事でも知られる子爵だ。
ヴァルター達がギルドを訪れると、門前で待っていたジェフリー自らが応接室まで案内した。
六十手前の年齢ながら、背筋もピンと伸びて活力ある印象の紳士だ。
ホワイトブロンドの短髪は後頭部の下半分を刈り上げており、顎髭も清潔に整えている。
「お会いできて光栄です、殿下。」
「こちらこそ。訪問の機会を得られて嬉しく思っているよ」
「ありがとうございます。…ルーク様も、先日の試験ぶりですね。どうぞお掛けください。」
革張りのソファを勧められ、ホワイトとヴァルターは腰を下ろした。
セシリアはロベリアの護衛と共に壁際に立ち、ギルドの職員だろう女性が緊張した面持ちでそれぞれのカップに紅茶を注ぎ、退室する。
「魔獣の変質については、ウィルフレッド殿下達からも聞いている。魔石が体表に露出するようになったとか?」
「はい。その状態のものは致命傷を与えてもすぐには死なないようで、更にごく一部の強力な個体は、大きく露出した魔石の変色が見られました。これは魔石を砕かない限り死ななかったと」
魔獣の進化。
ツイーディア上層部にとっては、チェスターとシャロンの知り合いである《先読み》持ちが既に情報をもたらしていた事案である。
「それらの魔獣は段階的に、レベルⅡ、レベルⅢと呼称する事が決まっています。」
「なるほど。対処法が異なるのだから当然だな。ルークはもう見た事があるのか?」
「Ⅲは死体だけだが。」
ホワイトが頷き、簡潔に答えた。
王立学園の教師陣は全員が経験した事だ。単に討伐資格を得ただけではない。休日に魔塔へ赴いて、研究用に捕えられた魔獣と相対している。
「魔石の変色個体は現状ファイアウルフでしか確認されていませんが、それが赤色だった事を考えると……殿下がロタールの会議で仰った一言が、やはり的を射ていたのでしょう。」
魔法を使う獣――炎を吐くファイアウルフと、咆哮で大風を巻き起こすウインドベア。
それらを「魔獣」、その体内にある石を「魔石」と呼んだのは、昨年ツイーディアを訪れたコクリコ王国第二王女、イェシカ・ペトロネラ・スヴァルド率いる研究チームだった。
やがて魔石は変質した「鑑定石」であること、オオカミに「鑑定石」を与えるとファイアウルフに変貌するという事実が判明する。
ツイーディアは魔獣と魔石の研究を進めていたが、そこで王都を訪れたヴァルターが言った。
『魔石となった鑑定石は、魔力を鑑定する効果を完全に失っているのでしょうか?』
通常、鑑定石は人が触れるだけで発光する。
質が悪ければ魔力のあるなしを、質が良いものは発光する色の変化をもって、最適な属性を示してくれるという物だ。
魔石は触れても反応しない。
おまけに毒性も持っているため、「既に鑑定石とは全く別の物質に変化している」という認識が共通していた。ただ、「完全に失っているか」という問いに答えられる者がいない。
ゆえに、その研究が始まった。
「実際に研究を進めた者達が素晴らしいのであって、俺はきっかけに過ぎない。研究中の試行錯誤こそ、真に称賛されるべき発想や着眼点があるものだからな。」
「ご謙遜を。」
ジェフリーの目元にある笑い皺が深まる。
研究は派生していき、今は魔獣素材と魔石の活用方法にも活路を見出せた。文字通り魔塔で産まれた天才児が、目を輝かせて研究に励んでいると聞く。意見を求める手紙が代筆で沢山届き、ホワイトはやや迷惑そうにしているとも聞いているが。
ギルドの役割や今後の展望を明かせる程度に話しながら、ジェフリーはロベリアの王弟を観察していた。
明確な成果が出た時には、ヴァルターにも礼儀として相応の報酬が贈られるだろう。
――見たところ、ルーク坊ちゃんに懐いてるのは本当みたいだな。恩着せがましく無理難題を言うタイプでもなさそうだが。
御しやすそうな若者だ、などと。相手を侮った老人から消されていくものである。
孤児を拾い育てあげてきた男だからこそ、ジェフリーはそれを理解している自負があった。生きた年齢の差は、頭や体の実力差とは関係がない。
――顔色からして、ヘデラの王女様とも最悪の結果にはならずに済んだか。ま、場を整えて同席した殿下達の手腕って事にもなるかね。
客人達がこの島を離れたら、ジェフリーはマリガン公爵に手紙という名の報告書を綴る事になる。
一体どう書こうかと軽く頭を捻りながら、ヴァルターとの会話を楽しんでいた。




