521.伯爵邸の密談 ◆
『久しいな。シャロン』
部屋に入って挨拶を済ませるなり、ジークハルトはそう言ってソファに腰掛けた。
身に付けた白いマントは帝国の礼儀、黒地に銀色の刺繍が入った軍服に垂れた、長い朱色の髪が見る者の目に鮮やかだ。
ツイーディア王国西方の辺境、ブラックリー領。アクレイギア帝国との境。
その領主館において、公爵令嬢シャロン・アーチャーは皇帝ジークハルト・ユストゥス・ローエンシュタインと密会していた。
困ったように眉尻を下げて微笑むシャロンの後方には、彼女の護衛騎士であるデューク・アルドリッジや、特務大臣直下の外交官ジャック・ライルの姿もある。
『ええ……ようやくお会いできましたね。ジークハルト陛下』
『まぁ楽にしろ。どうせウィルフレッドには内緒で来たのだろう?許すはずがないからな。』
お前がいるあたり公爵は知っているかと、白い瞳がジャックを見やる。
シャロンは黙って小さく一礼し、肯定を示した。
ツイーディアで最も貴い星である国王の意に背く行為であるとわかった上での来訪。
アーチャー公爵家にあるまじき行いだが、当主であるエリオットはこれを良しとした。なぜならツイーディアの最善のためにはジークハルトと話す必要があり、最も適任なのは彼の愛娘シャロンだったからだ。
必要な面談だった。ジークハルトがシャロンを人質に取ったり、害する事がないと公爵が確信していなければ実現しない面談でもあった。
『お前達がわかっている通り、ヘデラの制圧は直に終わる。ツイーディアの助力がなければ、平和ボケした愚図どもは実に脆いからな。』
『…ヘデラについて、陛下はどこまでご存じなのでしょう。』
『開戦理由か?大方想像はつく。代々ぬるい国とはいえ、さすがに帝国に弓引く真似はしなかった』
ジークハルトの目の前で、シャロンは手ずから紅茶を淹れていく。
自分の責任において、これには毒が入っていないと証明するためだ。
『それが負けるとわかっていて吠えかかった。ならば、なぁ?こちらは都合の良い獲物を迎え討ったまでだが……そちらは揉めたのか。』
『同盟国ですから。とはいえ、協力を約束しているのは戦を仕掛けられた場合。ヘデラが自ら始めた戦においては同盟の範囲外です。……ただ、貴国による工作だと考える者もおりました。』
ヘデラを助けるか、否か。
帝国の策略に違いない、同盟国として助けるべきだ。いや、勝ち目のない戦を挑んだヘデラ王の自業自得であり、ツイーディアが犠牲を払う必要などない。
議会は荒れた。
『くははは!工作か。一体何をしたらヘデラのような弱者が帝国に挑むか、そこまで考えれば答えは自ずと見えるだろうにな。』
『……やはりあの方々は、宝石を盾に取られているのですね。』
『俺なら、そんなまどろっこしい真似はしない。そうだろう?』
『はい。ただ、ヘデラと貴国と争わせて利のある国など、あるかどうか…』
そこがわからないと目を伏せ、シャロンは紅茶をジークハルトと自分のもとにそれぞれ置いた。
知恵を貸してほしいと言われている事を察していて、カップを持ち上げたジークハルトは黙って傾ける。国で考えるからわからない。しかし、組織で考えてもわからないだろう。
小さな音を立て、カップがソーサーに戻される。
シャロンが持つ常識の、理解の範囲外にいる存在。
一般的な尺度からすると頭のネジが外れた人間がいる、彼女はそれを、本質的には知らないのだ。しかしそれも、どうでもいいこと。
『たとえ最初が誰の仕掛けだろうと、その解決をお前達に縋るでも己でやり遂げるでもなく、ただ帝国に吠えかかった。それがヘデラの選択だ』
『……そうですね。』
実に愚か。
ヘデラが黙っている以上、ツイーディア側としてはそれ以上に動けない。情報がないからだ。情報も寄越さない国のために動かす労力も限られるからだ。
アクレイギアとて、掴んだ情報をツイーディアに伝えてやる義理も、ヘデラを助けてやる義理もない。
『なぜお前がそんな顔をする。』
『私は……あの方と共に学園へ通っておりました。一年にも満たない期間でしたが、こうなる前に何かできただろうかと――…いいえ。今となっては全てが遅いですね。』
『くだらん。俺は噂しか知らんが、宝のように扱って外交もできん無能に育てたのはヘデラの失態、貴様が後悔する事ではなかろう。』
『それでも、少しだけ。交わす言葉や起きた出来事が違えばと……ジークハルト陛下。貴方と我が国についても言える事ですが。』
シャロンの声は落ち着いている。
悲嘆にくれる事なく、過去を懐かしむようにただ、他の可能性もあったと言葉を紡いだまで。
ジークハルトは片方だけ口角を上げた。
『六年は経ったか。アベルが死んで』
『…はい。』
彼が生きていれば、アクレイギアとの関係はまだ良かっただろう。
ジークハルトはアベルを気に入っていたし、成長したアベルの強さはそのままアクレイギアへのわかりやすい牽制になったはずだ。
しばらく、ジークハルトは目を閉じる。
子供が通う学園ごときでアベルが死ぬのは予想外だったが、後に詳しい状況を聞いて納得はした。魔力暴走したサディアス・ニクソンの攻撃、それは対処のしようがないものだったからだ。
当時もし自分がいて、矛先がこちらに向いていたとして。何も知らない状態だったなら――ジークハルトとて、避けられたかどうかは怪しい。
ウィルフレッドを庇って死ぬ、実にアベルらしい最期だった。
ジークハルトに言わせれば庇う必要などない男だが、そんな感想をシャロンに言うのも酷だろう。アベルが生きた方がツイーディアにとっては良かった、そんな事実をわざわざここで言う必要もなかった。
若くして死なせるにはあまりに惜しい男だったが、残念がったところで、時も人も戻らない。
『ウィルフレッドが感情的にヘデラを庇うようであれば、俺としてはどちらも愚かというだけのこと。もう十二分に大人だろう、アベルへの義理立ては済んでいる。』
『…今のところ、加勢の予定はないと聞いております。』
『それは幸いだったな、シャロン。俺にお前を殺す気はないが、戦ともなればお前だけ助けてやれと周知するのは無理だ。』
ジークハルトが語る言葉は端的で正直だ。希望がなければそれをはっきり口にする。
シャロンは小さく頷き、カップに手を伸ばした。皇帝を目の前にして震えずにその仕草ができる女性は、ツイーディアの中でもごく少数に限られる。
『お前達が上に立つ気はないのか?』
そう聞かれても、シャロンに動揺はなかった。
紅茶をこくりと飲み下し、カップをソーサーに戻す時にも音はしない。先程わざと音を立てたジークハルトとは対照的だった。
皇帝の言葉は、「アーチャー公爵家が王になるなら和平を結んでもいい」と言ったも同然だ。それをわかっていて、シャロンは目を細めて微笑む。
『輝く星がありながら、その座に取って代わろうなど。考えた事もありません』
『…だろうな。言ってみただけだ』
隠しもせずにため息を吐いて、ジークハルトは長い脚を組んだ。
ウィルフレッドが国王失格だとまでは言わないが、ジークハルトにとって、彼がアベルより遥かに劣る事は確かだった。弟が目の前で自分を庇って死んだ事で、かの男はさらに歪みを強めただろう。
会ってみようとさえ思わない。
確かめるまでもなく、ジークハルトにとって「つまらない相手」である。
それでもシャロンには、彼を見捨てる事などできないのだろう。
甘さゆえに、優しさゆえに、情ゆえに。
――…ウィル、を…
死の間際にあってなお兄を慮った、
――国を…頼む。
アベルのためにも。
『シャロン、お前がそうしたいならそこにいるがいい。俺は無理に取り上げて閉じ込める事はせん』
『…はい。』
『だが万一、お前の身に何か起きた時――ウィルフレッドがお前を守れなかった時は。俺は何も保証しない』
『……私の身一つで、ツイーディアへの対応を考え直すと仰るのですか。』
『ああ?…くく。お前を喪う事がウィルフレッドにとって何を意味するか、国に何が起きるか……お前自身が一番、軽く考えているのかもしれんな。』
薄紫色の瞳に浮かぶ困惑を、ジークハルトは見つめている。
ヘデラ王国を裏で操っている者が、何を企んでいるか。それはジークハルトとて知らない事だ。しかし仮にその手がシャロンの首へ伸び、ウィルフレッドが守れなかった時は。
ジークハルトは仇となった敵に剣を抜くだろう。
ウィルフレッドが何も気付けなかったとしても。なぜ剣を抜くのか問われても、説明する義理もなし。その時初めて、ツイーディアとアクレイギアの戦いが始まるかもしれない。
果たして愚かな王は、抜かれた剣の意味にいつ気付くのか。
『俺の想像通りなら。お前の王はやがて正義を翳して俺と戦い、命を落とすだろう。』
『陛下』
『まぁお前は望まんだろうから……そうならないよう、せいぜい長く生きるのだな。シャロン』
『……どうしても、相容れないのでしょうか。』
『お前が持つ柔軟さも、アベルのような安定した精神も、あれは持ち合わせていない。俺の話を大人しく聞ける状態になると思えるか?みすみすアベルを死なせた輩を前に、俺が嘲笑の一つもせずにいられると思うのか。』
初めて会った時からずっと、ジークハルトにとってウィルフレッドはつまらない存在だ。自ら道を狭めて苦しみ窮しているような、未熟なものだ。
わざわざ面倒を見てやる義理も価値も意味もない、そう考えるものだ。
シャロンは少しだけ眉尻を下げ、小さく頷いた。
最初からジークハルトの答えがわかっていたかのようだった。
『ヘデラの自滅は、お前達にとっては頭の痛い話だろうな。俺とて勝った後に誰を置くかは考えねばならん。こと、食料に関して整備する必要がある……お前のような賢い部下がいれば、さらに楽だったろうが。』
にやりと笑ってみせた皇帝に、シャロンも微笑みを返す。
ジークハルトの考えを聞く事はできても、揺らぐ事ないその在り方を曲げる事などできはしなかった。わかっていた事だ。すべて。
悪くない隣人でいられた未来がきっとあったはずなのにと、思わずにはいられないけれど。所詮それは幻想に過ぎない、少なくとも今はもう。
ウィルフレッドと彼が笑い合える未来など、無いに等しかった。
屋敷の外を、一人の騎士が歩いている。
竜胆色の短髪に凛々しい眉、騎士服の上からでも鍛えられた体の逞しさがよくわかり、左目の下には泣きボクロ。瞳孔の開いた黄金の瞳は、ジークハルトが乗ってきた馬車を見据えている。
ツイーディア王国騎士団十番隊長、アイザック・ブラックリー。
彼が立ち止まった数メートル先には、休憩中の馬を撫でる帝国軍の兵がいた。振り返ったその男はアイザックより長身で、ローブのフードを目深にかぶっており、鼻から下は薄い黒布で覆っている。
フードの内側に見えた髪色は黒。それを意外に思う事もない。
門前で出迎えた時から、アイザックにはそれが誰なのかわかっていた。周囲に人がいなくなるのを待っていた。
ツイーディアの騎士と見ても剣に手をやらないその男もまた、アイザックを知っているから警戒していないのだ。ここでいきなり切りかかる男ではないとわかっているから。
数秒の間を置いて、アイザックが口を開いた。
『一つだけ聞かせてくれ。いつから帝国側にいた?』
空気は冷えている。
沈黙の後、男は黒布の向こうで笑った。
『ンフッ……決まっているでしょう。』
変わらない笑い方。変わらない声。
アイザックがその男の名を呼ぶ事はない。ここで捕えねばならなくなるから。
『空に星が増え、同胞が後を追った日からです。』




