504.今もずっと、君は。 ◆
眠れぬ夜に一人、自室のカーテンを引いてみる。
部屋が暗い事もあり、窓の外が明るく見えた。空はよく晴れている。
弟を亡くして幾年か経ち、俺が「王」となってそれなりの月日が経った。
それでも見上げた先を思うと、自分の存在など随分と矮小で。
星が綺麗な夜には時々、闇を願う。
空高く輝くあの金色の光が、薄暗い俺の心に気付かぬように。
厚い雲が重なり影が落ちればきっと、貴い星々の目を逃れられるから。
『……俺はいつか、お前に恥じない王になれるのだろうか。』
まるで願望のように呟いてみたところで、結局。
俺にはそれを願う事も、望む事もできはしなかった。
なれるわけがないと、誰よりもわかっている。
カレンがどんなに俺を信じてくれていても。
シャロンがどれだけ俺を励ましてくれても。
『アベル』
未練が消えた事はない。
後悔しない日はない。
責めない夜はない。
『……俺じゃなくて、お前が生きてくれたらよかったのに』
独り言でしか許されない言葉を吐いて、笑う事などできない顔を俯けて、目を閉じる。
終わった事を、過ぎた事を考えても仕方がないのに。
サディアスが薬を飲まなければ。
あの炎が、俺を殺してくれたら。
アベルの手が俺に届かなければ。
そうしたらあいつは今も生きていて、サディアスもリビーも死ななかった。
チェスターの事だって、アベルなら助けてやれたかもしれない。
――貴方のせいじゃないわ。
思考が沈みそうになると、いつもシャロンの言葉を思い出した。
俺を気遣ってくれた彼女の声、涙を堪えていただろう彼女の表情を。こんな俺でも支えてくれる皆の姿を、笑顔を、信頼を、思い返す。
だって俺は立たなければならない。
生きなければならない。
王として。
ひゅう、と息を吸う。
生きるために息をして、償うためにも生きていく。
信頼に応えるためにも、皆が生きる国を守るためにも。
俺が、生きなくては。
学生時代から何も変わらず、シャロンは俺の側にいてくれた。
たとえ人前では「陛下」と呼んでいても、俺の心には「ウィル」と呼ぶ彼女の声が届いていて。仕事でも個人としても、支えられてばかりいる。
貴族でないカレンが文官としてほんの数年で俺の側近になったのも、周囲を納得させられたのは、シャロンが学園にいた頃から淑女教育を手配していたお陰だ。
アベルを喪った当時の俺は焦るばかりで……カレンがいてくれる事に感謝しながらも、彼女が城に勤める未来を見越した手配をするだとか、そこまでは気が回らなかった。
ネイト達も含め、俺という個人をよく知っている友人は本当に頼もしい。
飛び込んできた情報から何が気になり、どんな手を打ちたいか汲み取って迅速に動いてくれる。些事であっても頼む事ができて、それぞれの得意不得意も信用度も、俺自身がわかっている。
皆が俺を助けてくれて、だからこそ、父上のような《完璧》でなくても王ができていた。
『陛下はなぜ、アーチャー公爵令嬢と婚約されないのだ?』
『星のお考えはわからんな……王妃の座に相応しい方だと思うが。』
『陛下にその気がないなら距離を置いて頂かねば、シャロン嬢に縁談を持ち込む家が限られてしまう。』
そんな声が聞こえて、聞こえなかったふりをする。
筆頭公爵家の長女であるシャロンと国王である俺が、自他ともに認めるほど親しいのだ。貴族達がそういう思考を持つだろう事はわかっていた。
理解してもらえるとは思わない。理解してもらいたいとも思っていない。
シャロンがいてくれる事は俺にとって――「当たり前」ではない。
前提という言葉が正しいように思う。
彼女が無事でいて初めて俺はまともに息をして、生きていられる。失ったら、奪われたら、正気ではいられない自信があった。
だって大事なんだ。
自分の心理状態は、大人になった今ではよくわかっていた。
俺は「アベルと仲良くしたかった」、その分の執着もシャロンに向けている。
初めは俺とアベルは二人一緒だったのに、あいつがどんどん離れていって。代わりに手を繋いでくれたのはシャロンだったから。
学園でもアベルの分までずっと、シャロンが一緒にいてくれた。
だから彼女はかけがえのない存在。
俺が恋する相手ではなく、女性として愛する人でもない。
俺に恋する人ではなく、男性として愛する相手でもない。
だって俺達の絆はそういうものじゃない。
失う事も奪われる事も耐えがたい。
アベルを喪って、君まで失う事になったら?二度と会えなくなったら。
この身を捩じ切られるような痛みを味わうだろう。
俺は国の頂点にまで立ちながら、結局は「一人にしないで」と泣く子供のような、ひどく頼りなくて情けない存在のままだった。
きっとそんな事、シャロンにはわかっている。
優しい彼女は俺を見捨てられなくて、支え続けてくれている。
君からアベルを奪ったのは、俺の弱さなのに。
君は、アベルを愛していたのに。
『しかし閣下も、娘に届いた縁談を全て断っているとか?もちろん本人の意向かもしれませんが』
『めげずにアプローチを続けているのは、あのお方ぐらいでしょうなぁ。』
『このままではアーチャー公爵令嬢にとってもよくない。いずれひどい憶測を呼びますぞ』
俺の妻にしないなら、俺はシャロンを解放してあげないといけない。
もうみっともなく縋っていい年齢じゃない、そんな事はわかっていた。
それでも彼女が、俺の側からいなくなるなんて……その恐怖に耐えられない自信があって。
せめて、シャロン自身が言い出すまでは。
彼女の意思なら俺はもちろん、………。
シャロンが望むなら自由でいてほしいと思うのに、それ以上に願いがあった。
どうかずっと、アベルだけを想う君でいて。他の男のものになど。
どうかずっと、俺の贖罪を見守っていて。逃げ出す事がないように。
『――…に、嫁ごうと思うの。』
彼女がそう言った時、俺はただ表情を変えないように必死だった。
己の心がわからない。
祝福、悲嘆、喜び、失望、驚愕、困惑、疑念、どの感情をどれほど持っているのか。
『この数年、色んな方が声をかけてくれたけれど……きっともう、彼以上の人はいないでしょう。』
『……そうか。』
裏切り者。
違う、そんな事思ってない。
『ウィル』
アベルの事を忘れたって言うのか。
違う、そんなわけないと俺が一番わかってる。
『どうか諦めず、カレンと幸せに。』
そう言う君が一番、諦めたんじゃないのか。
シャロン、君は
『私はずっと、貴方達の味方よ。』
今もずっと、アベルを愛しているくせに。
『……ありがとう、シャロン』
心の中でばかり言葉を吐いて、ろくに伝える事はできなかった。
言ってしまったら、嫁ぐ覚悟をした彼女をどれほど傷付けるかわかっていたから。
『俺達もずっと君の味方だ。何かあればいつでも帰っておいで』
シャロンの中にある愛を思うなら止めるべきだった。
なのに俺は、嫌われるのが怖くて……引き止められなかった。
『国王陛下、万歳!』
俺の魔法は美しいと皆が言う。王の証だと皆が言う。
輝かしい光を生み出す貴い星は、ツイーディアの未来をも明るく照らすのだと。
そうだろうか?
唇を微笑みの形に維持して、胸に燻る自己嫌悪に蓋をした。
アベルがいたらもっと上手くやれた。
アベルだったらもっと上手くやれたんじゃないか。
アベルがいてくれたら、俺は……相談して、一緒に悩んで、笑い合って、共に進めただろうか。
それとも、いつまでも自分の心を守って。
向き合えないまま、いずれは見限られていただろうか。
『ウィルフレッド陛下、万歳!』
ああ、笑わないと。心が笑えていなくても。
学ばないと、鍛えないと、何もかも平気だという顔をして。
知識も、力も、あって当然とばかりに堂々と。
民にとって、国にとっての光であれ。
それが、アベルを犠牲にして生きた俺の、
『陛下!緊急の報告です、アーチャー公爵令嬢が……!』
この時の絶望をなんと言おう。
胸の中心を刃で貫かれ、半身を削ぎ落されるような、信じ難く耐え難い喪失。
何かの間違いであれと切に願った。
カレンが咄嗟に別室へ誘導してくれなければ、皆の前で醜態を晒していただろう。
殺された?
……シャロンが?
『どうして?』
わけがわからなくて、口が勝手に歪な笑みを浮かべる。
信じたくない、嘘だと言ってほしい、
だって、そんなわけがない。
アベルだけでなく君まで、俺を置いて、いってしまったのか。
ああ――…後を、追ってしまいたい。
その衝動を抑えるのはひどい苦しみが伴った。
けれど俺は、この国で誰よりも自死が許されない男で。
どうか二人のもとへ行かせてほしい。
アベルと沢山話がしたいんだ、シャロンも一緒に、三人で。
怒られたっていい、泣いたっていい、思ってたこと全部素直に話して、何でだって聞いて、謝って、笑い合って。
そんな些細な願いが、こんなにも遠い。
『護衛も少なくこのような場所で会うとは……くく。殺してほしいのかと思ったぞ。ウィルフレッド』
『…それはこちらの言葉だ。』
皇帝ジークハルト。
俺個人としても王としても、この男の所業を許すわけにはいかなかった。
しかし果たして俺達で、この男に勝てるのだろうか。
騎士やカレンのスキルによる助力があったとしても、確率は五分五分ですらない。
そして、俺が命を手放すにはあまりに都合の良い相手だった。
正直、もう「楽になってしまいたい」。
でも、それは今じゃない。
お前に奪わせてやる命などないから。
どんなに二人のもとへ行きたくても、俺はこの男の手によって死ぬ事だけは避けなければならない。
国のために、民のために。
アベルとシャロンに恥じない自分でいるために。
ぽつりと、雨粒が落ちた。
軽やかに笑っているように見えて、白い瞳に浮かぶのは侮蔑だ。
この男にとって、俺は随分とくだらない存在なのだろう。
初めて会った頃から、ずっと――…。
『……懐かしいな。』
我儘を言って護衛を待たせ、一人でその洞窟に足を踏み入れた。
ジークハルトに辛勝してからあまりに忙しなく、飛ぶように月日が経って。
何かしら気分転換をさせねば王が死ぬと、周りがなんとかこじ開けて作った休日だ。
そんな日の行き先にここを選んだのは、遠い記憶に触れたかったから。
無知で無謀だった幼い俺が、シャロンと一緒に迷い込んだ場所。
周囲を照らす光を出して、奥へ奥へと進んでいく。
星が見えない昼には時々、光を願う。
天高く輝くあの金色の星が、まだそこにいてくれるように。
夜の闇が迫っても見えないようなら、それはきっと――俺がまた、置いていかれた証だから。
辿り着いた先で、勿忘草に囲まれた女神像には陽光が降り注いでいた。
アーチャー公爵家が発見したと資料にあった通りの、月の女神達の石像だ。
でも俺はそれよりも何よりも、手前に置かれた物にだけ目がいって。
思わず駆け寄った。
どうしてこんなところに。
どうして。
疑問は尽きなかった。
けれどそこには間違いなく、在りし日の二人の笑顔が残されていて。
『ああ』
涙がこぼれる。
助けてほしい、なんて、誰にもできない事を考えて。
正解がわからなくて、現状から逃れたくて、描かれたそこへ行きたくて。
『早く、俺も……』
意味がないのに手を伸ばして、その肌には触れられないと知っているから手を下ろした。
嗚咽を漏らして膝をつき、情けなく背中を丸めて二人の名を呼ぶ。
俺はいつまで、ここに残されたまま…
『女神は確かに存在して、願うならば何か叶えようかと言った。真実だと思うかい?』
日陰から声がした。
二人の笑顔に気を取られ、死角にいた誰かに気付くのが遅れていた。
敵意も害意もないその声は聞き覚えがあって、緩慢な動きでそちらを見やる。
『たとえあの日に戻れたって、ボクにできる事は何もないのさ。だけど――』
王がこんな場所で泣いていたなどと、彼が悪意をもって言いふらす事はないだろう。
いつ会っても不思議な人だった、俺の常識とは外れた感覚で生きていて。
今も現実のようで神話めいた、意味のわからない事を言っている。
『君はどうだろうね?』
片方だけになった目で俺を見て、ガブリエル・ウェイバリーは微笑んだ。




