488.展示室ではお静かに
北西校舎は二階と三階に渡って複数の自習室があり、学園祭の今は論文の展示室として使われている。
北東校舎の《特別展示》と違い、こちらは文字通り紙での提出。内容によって大まかに教室が分けられており、各教室の受付には配置を記した目録があるため、特定のレポートが見たい時は場所を聞く事ができるのだ。
「《国史》については、全生徒が提出するのだったか。膨大な量だな…」
ハットを深くかぶった青年が言う。
やや外跳ねした青い髪は肩を越す長さで、襟足で一つに結ばれていた。目の下にうっすらとクマがあるものの、整った顔立ちをしている。いつも首元にかけているゴーグルは襟巻で隠し、青い瞳は並んだレポートのタイトルをちらりと確認した。
「うん。見回すだけで目が回りそうだな!」
腰に手をあててそう言ったのは茶色のポニーテールに赤紫の瞳、男のような格好の女性。
ツイーディア王国第一王子ウィルフレッドの護衛騎士、セシリア・パーセルだ。
今は二歩前に居る青年――根本から毛先に向け、白から青へと変わっている特殊な髪色を持つ、ロベリア王国の王弟、ヴァルター・ヨハネス・ノルドハイムの護衛兼案内役を担っている。
ほぼ男装と言って差し支えない格好でいるのは、ヴァルターが女性恐怖症だからだった。
「伯爵様。恐縮ですが、声を抑えて頂いて…」
苦笑いを浮かべ、中性的な柔らかい顔立ちの男子生徒が小声で注意する。
白茶色の髪を編み込んで後ろでまとめ上げた、スカイグレーの瞳の彼の名はネイト。学園で《魔法学》中級と《護身術》を担当する教師、ケイティ・エンジェルの息子だ。
今はウィルフレッドの指示でヴァルター達に付き添っている。
ネイトの注意を受け、笑顔のセシリアは「なるほど」と大きく頷いた。
「そうか、確かに。これは失礼した!」
「抑えて頂いて」
ネイトは改めて伝えた。ここは読み物をする場所なのだ。
展示を並べたテーブルや棚の前には椅子やソファが置かれ、客は立ったままぱらりとレポートをめくる者もいれば、座ってじっくり目を通す者もいる。
靴音や衣擦れ、密やかに語り合う小声はあっても、堂々と声を張っては他の客に迷惑となってしまう。
セシリアはこくこく頷き、にっと笑って唇の前に人差し指を添えた。
その仕草の粗雑さに、ネイトは内心「道理で女性騎士でありながら選ばれたわけだ」と考える。外見が見るからに男らしいというわけではないが、仕草に女性らしい流麗さが無いのだ。
仮にシャロン・アーチャー公爵令嬢が隣に並んでいたら、その差は歴然としていただろう。
夫婦仲の良い既婚者であり、当然ながら男に色目を使うタイプではなく、権力者に媚びる性質でもなく。王子殿下の護衛を担う実力を持っており、代々騎士団に勤めるパーセル伯爵家の現当主。
それが、セシリア・パーセルという女性だった。
「ネイト。早速ですまないが、殿下達のレポートを拝見したい。」
「はい。場所は先に確認しているのですが、少し問題がありまして……」
「問題?」
「あちらです。」
ネイトが手で示したのは今いる教室の最奥だ。
制服もドレスも様々に、年若いご令嬢と思しき皆様が二カ所に分かれて押し合いへし合いしている。
彼女達の視線の先にあるのは、第一王子ウィルフレッドと第二王子アベルのレポートだ。学園側もこうなる事を予想していたのだろう、配置は離されている。
「うっ…」
小さく呻いたヴァルターが口元に拳をかざし、目を背けた。
王子に憧れているだけなのだろう彼女達を一緒くたに嫌悪する気はないが、身体の拒否反応とは反射的に起きるものだ。
「さすがにあの中へお入り頂くのは難しいと存じますので、少々お待ち頂きたく」
「それで構わない。あれほど見たがるとは……勤勉な者が多いんだな。」
「どちらかというと、殿下達の書き文字を見たい一心かと。」
「……そういうものか。」
本人の肖像画が添えてあるわけでもあるまいに、文字を見てあそこまで興奮するものか。
そう思ったヴァルターは不可解そうに眉を顰めた。教室を見回したネイトはポケットから手帳を取り出し、メモしていた配置を見て納得した様子で頷く。
「やはり。…あそこに男子生徒が固まっていますが、彼らも似たようなものですよ。」
「あれは?」
「アーチャー公爵令嬢、シャロン様のレポートですね。」
「見たい」
「はい?」
「ごほん。何でもない」
ヴァルターは咄嗟に咳払いした。
あまりにするりと本音を零してしまったからだ。幸いにも、小声での短い呟きだったために、ネイトには聞き取れなかったようである。
「是非とも見たいそうだ。行こう」
善意しかない笑顔でセシリアが暴露した。きちんと小声だった。
ヴァルターは動揺など一切していないという顔で「手間でなければね」と言う。もちろん手間などではないと、ネイトは快く先導した。
シャロンのレポートの前、ため息を漏らしたり、ニヤッと笑って肩を叩き合う男子達に声をかける。
「君達、まだそこで見ているかい?わたし達も見たいんだが」
「ん?…って、ネイトか。」
「悪い悪い、固まっちまってたな。俺達はもう行くよ」
「では失礼します、エンジェル様。」
ちょうどネイトの知り合いだったようで、本当に手間などなく彼らは素直にどいてくれた。
ヴァルターは落ち着いた声で礼を言い、展示台に近付く。
見下ろしたレポートに記されたシャロンの署名を見て一秒、すぅ、と細く息を吸った。
――っ、じ…字まで美しいとは、どういう事なんだ……!
じわりと額に汗を滲ませ、辛うじて紳士の微笑みを保ちながらヴァルターは困った。
レポートなど言ってしまえばただの紙束に過ぎず、美しく整った筆跡など他に幾らでも見てきたはずだ。
――しかし、これを。
先日ようやく会えた少女の姿が浮かぶ。
さらりと揺れる長く艶やかな薄紫の髪、純真さが見える澄んだ瞳、確かな知性を感じさせる落ち着いた眼差し、気品ある仕草、いつまでも聞いていたい声、心に残る柔らかな微笑み。
――これを、彼女が、手に取って書いたのだと思うと。
簡単には触れられない。
表紙をめくらねばレポート内容は読めないのに、ヴァルターの伸ばしかけた手は中途半端に止まっていた。たかが紙束、されど憧れの美少女が、あの白く細い指先で触れ、書き綴った紙である。
記されたタイトルと署名の筆致を見ているだけで、これを彼女が書いたと思うだけで、ヴァルターはまるでシャロン本人を目の前にしたかのような緊張感すら覚えていた。
「…いかがされましたか?」
「いや…」
ネイトに声をかけられ、はっとする。今のままでは不審だ。
ヴァルターはなんて事ないかのようにレポートを手に取り、「拝見するよ」と笑って椅子に腰掛けた。
ページをめくる際、もし女性ものの香水の香りが漂った暁にはどうすればいいのか、そんな懸念に心臓が高鳴ったが、生憎と、提出から時間の経ったレポートにそんな香りは残っていなかった。
羞恥で熱くなった顔を見られぬよう下を向き、読み始める。
ヴァルターの内心など露知らず、ネイトは周囲に不審な動きをする者がいない事を確認した。
その程度騎士であるセシリアがきちんと警戒しているはずだが、自身の今後のためにも油断せず、手を抜く事なく与えられた任務を全うしたいのだ。
護衛や従者を連れたり、知り合いなのだろう生徒の案内を受ける客はそう珍しくもない。
特段目立つような事もなくヴァルターが読み進める間に、ネイトはウィルフレッド達のレポートに集まっていた女子の集団へと目を向けた。
薄い水色の長い髪。
後ろ姿からでもわかる品格を備え、一人の女子生徒が彼女達のもとへ歩み寄る。そして何事か声をかけると、押し合いへし合いしていた少女達はあっという間に大人しくなった。
一礼して立ち去る者が多く、その場に残ったのは殆ど見られていなかったのだろう一人、二人。礼を言う彼女達に微笑みを向け、踵を返した令嬢とネイトの目が合った。
互いに黙って会釈をし、彼女――フェリシア・ラファティ侯爵令嬢は去っていく。
生徒会の一員として見回っていたのか偶然かは不明だが、これでヴァルターもウィルフレッド達のレポートがある場所に向かえるだろう。
背後から真っ直ぐ自分達の方へ近付く足音に気付き、ネイトは鋭い目つきでそちらを振り返った。
そこに居た人物に驚き、スカイブルーの瞳を丸くする。
「デューク。君か」
「ん」
軽く手を挙げたのは、ネイトと同じ一年生のデューク・アルドリッジだった。
肩につかない長さで不揃いに切られた茶髪、同じ色の瞳を抱く三白眼は、たとえ睨んでいなくても迫力がある。既に百七十センチに到達した背丈に鍛えられた身体、見るからに貴族ではないよれたネクタイなども原因だろう。
ヴァルターの邪魔をしないよう、ネイトは再度周囲を確認してからデュークの方へと数歩、歩み寄った。
「あにづっ立っでらんだ…、しょうとか」
「まぁそんな所だよ、知り合いの案内中だ。君は?」
「姫さんなぁこおらって言わえぇな」
「おっと、そうか。悪いね、今は彼が読んでて…」
言いかけたところで紙の音がして、ネイトはそちらを見る。
ヴァルターがレポートを手に立ち上がり、デュークに向き直ってにこりと微笑んだ。
「アーチャー公爵令嬢のレポートだろうか。今ちょうど読み終わったところだ」
「ん…こあども。」
他国の王弟に観察されているとも知らず、デュークは軽く頭を下げて両手で受け取った。シャロンのレポートを曲げたり折ったりする事のないよう、丁重に扱うつもりだとわかる手つきだ。
無論、展示物に何かした際には《案内係》と称した監視員が黙っていない。
だからこそ先程の興奮した少女達や男子達は触れる事なく、寄り集まって眺めるに留めていたのである。
そしてそんなルールは関係なく、デュークにとってこれは、丁寧に扱うべき品だった。
顔を上げたデュークは、ヴァルターの青い瞳と目が合って瞬く。
年上で、恐らく貴族だろう。それは察せられる事実だが、正体に踏み込んで良いか否かの判別はつかないし、デュークから触れるべきではない事だ。
「…でぁ。」
ありがとうより発音の差が目立たないものを選び、デュークは先程より丁寧に頭を下げた。
ネイトはヴァルターに教室の最奥を示し、今は女子がいない事を伝える。頷き合って歩き出す二人に合わせながら、セシリアは一瞬だけ教室の入り口に目をやった。
そこには不機嫌そうな男子生徒が居たが、視線の先はヴァルターでもネイトでもない。
「汚らわしい孤児風情が…」
憎々しげに吐き捨てた彼――ジョエル・ニューランズの独り言を聞いた者は、いなかった。




