482.一番安全な男
君影国のエリ様に続き、ロベリア王国のヴァルター殿下にも無事にご挨拶ができた。
女性である私に対してはやはり拒否反応からか、緊張しておられるようだったけれど…ウィル達とは穏やかに会話されていたと思う。
ホワイト先生が寝始めたのは少し驚いたわね…もちろん、ヴァルター殿下がそれを許すという確信があったのでしょうけど。
面談は上手くいった。
私はそう考えていたものの……。
「わかってる、シャロン。ヴァルター殿下に協力するのは悪い事ではない。」
馬車の中、私の正面に座ったウィルは片手のひらをこちらへ向けてそう切り出した。反対の手は悩ましく額にあてている。
……「わかってる」と言われても、私まだ、何も言っていないのだけれど。ひとまず話を聞いておきましょう。
「むしろ良い事だ、ロベリアの王族が抱える難題をツイーディアが助力…この短期間で治るまではいかないだろうが、多少なりと改善が見られたなら、それは素晴らしい事だと思う。度合いによってはロベリアへの貸しになるだろう……、うっ」
ウィルはどうしてかくしゃりと顔を歪め、両手で顔を覆ってしまった。
「…ううっ……俺は殿下を止めもせず、国益のために君を差し出したんだ……!」
「さ、差し出してはいなかったと思うけれど。」
なぜそんな苦渋に満ちた声なの?ヴァルター殿下を何だと思っているのかしら。
接するのに難のある方ではなかったし、女神祭の間に少し交流を持つくらい、まったく何も問題ないはず。
――…そうよね?
私の斜向かい、ウィルの隣に座っているアベルと目を合わせ、少しだけ首を傾げながら瞬いた。彼は彼で、考え込むように眉間に皺を寄せていたようだ。
音の無いため息を吐いて、アベルは口を開いた。
「受けた君は正しいし、僕もウィルと同じで状況をわかっていたから止めなかったけど。……それでもウィルが嫌がるのは、当然なんじゃないの。」
「え?お前も嫌だろう、アベル。なんだか俺だけ狭量なようじゃないか。」
「ウィルを狭量だと言ったつもりはないけど。」
私だって、差し出されたつもりはないのだけれど。
殿下の話を私自身が引き受けたのだから、ウィルが申し訳なく思う必要はない。
そう伝えると、ウィルは眉を下げて私の手を握った。
「シャロン。ヴァルター殿下の体調の為にも、交流の時は五メートルは離れておいてくれ。」
「ウィル。それは交流とは呼ばないと思うわ」
「じゃあ四メートル九十センチ」
「ウィル」
一体どうしたというの。
何も変わらないじゃないという気持ちを込めて名を呼ぶと、私の幼馴染は瞳を潤ませた。
「ヴァルター殿下の話につられて、ロベリアへ行ったりしないよな……?」
「留学ということ?」
聞き返した途端、アベルが眉間に軽く拳をあてダンが窓の外を見始める。偶然にしてはタイミングがぴったりだけど、まさか「留学の話じゃない」という事はないでしょう。
「今のところ考えていないわね。ホワイト先生の後継者としてやっていくなら、そうしても良いのでしょうけれど……」
先生がそうだったように、この学園から離れてまで卒業前に行くつもりはない。
卒業後は身の振り方によるのよね。どなたと結婚するのか、とか。
「色々落ち着いたら、あくまで短期の留学とか…旅行がてら図書館や薬草園を見たり、そういった事なら興味があるわ。」
「よし。アベル、その時は一緒に行くように。」
「ウィル。何でそうなったのか聞いていいかな。」
ものすごく眉を顰めたアベルがじろりとウィルを見やって、「ぶふぐ」と声を漏らしたダンが咳払いした。何も誤魔化せていないけれど、そっとしておきましょう。
ウィルは念を押すように私の手をぎゅっと握ってから離し、曇りの無い瞳でアベルと目を合わせた。
「本当は俺も一緒に行きたいけどたぶん難しいし、アベルと行くのが一番安全だからだ。」
「安全な自覚はあるけど。状況がおかしいでしょ」
「そうか?」
「ともかく。ヴァルター殿下と交流したからと言って、急にロベリアへ行ったりはしないわ。――ずっと一緒でしょう?ウィル。大丈夫」
胸元のブローチに触れて微笑みかける。
ウィルはハッとして嬉しそうに頬を染め、くしゃりと笑ってくれた。
「うん、そうだな。ありがとう、シャロン」
小さく頷き返し、私は手を膝の上へ戻す。
ヴァルター殿下だけでなく、ジークハルト殿下もすぐにこのリラへやってくる。
敢えてゲームのシナリオから外れるための招待……そうして、私が知る《学園編》とは違う女神祭が始まるのだ。
――…その中で、カレンは誰と女神祭を回り、誰と踊るのかしら……。
「ダン。あちらに少しでも妙な動きがあれば、俺達にも報告してくれ。」
「りょーかい、王子サマ。――つっても、お嬢がどれ選ぶかによるけどな?」
ダンがにやりと意地悪な笑みを作って言う。
ウィルは少し目を見開き、すぐさまこちらへ視線を移した。
「私?来賓の皆様の動きについては、基本的にはウィル達に秘匿する必要はないけれど……そうね。場合によっては、内緒にする事もあるかしら。」
「シャロン……!?」
たとえば歩く内にどなたかが少しつまずいたとして、それをウィル達に報告する必要はない……と、それぐらいの意味なのだけれど。
私がダンの冗談に乗った言い方をしたものだから、ウィルは「俺に内緒ごとを…?」と訴えかけるような目をしている。そんな幼馴染が可愛くて、不敬ながら少し笑ってしまった。
「ふふふ、冗談よ。」
「そ、そうだよな!よかった!」
ほっとした様子のウィルと笑い合っていると、視界にこちらを見つめるお方が。
ちょっぴり眉を顰めたアベルは、「あまりウィルをからかうな」という呆れとお咎めの混ざった目をしている。けれど私は笑顔を止める事ができず、
――可愛くて、つい。
悪びれもせずに目を細め、少し小首を傾げた。
瞬いたアベルは私達をちらと見回す。そうして、まるで「仕方ないな」とでも言うように彼が笑うから。
「ふっ……ウィルも彼女には敵わないね。」
「あはは、そうだな。俺はシャロンがいないとダメだから」
「まぁ。そんな事ないでしょう?」
「いーや、お嬢がいねぇとダメだろ、こいつらは。」
「何で僕まで含めるんだ。……はは、まったく。」
ああ、きっと私達は大丈夫だと。
こうして笑い合う日々を守っていけると、そう思えた。
◇
古びた扉を開ければ、木材の軋む音が響く。
広い額にダークグレーの短髪、五十歳は過ぎているだろう痩せぎすの男が、一人で地下室へとやってきた。指の痕がついた眼鏡をかけ、片手には中身の減った酒瓶を持っている。
集まる時間ではないからだろう、静まり返った広い室内に生きた人間はいなかった。
高い天井、壁には火の消えた蝋燭、一方向へ整列した長椅子たち。
正面に顔のない一人きりの女神像が置かれたここは、影の女神を信仰する《夜教》の地下聖堂。明かりは無いというのに、女神像の足元にだけ人一人分ほどの大きさの光がある。
男が立っている入口からそこまでは遠く、男の周囲は闇に包まれていた。
「宣言。理想郷を焼き尽くす力よ此処へ――…審判の炎」
ポヒュッ。
男の指先にコインサイズの火が現れ、入口の横に置かれたテーブルの上、燭台の蝋燭を灯す。
酒臭い息を己の指に吹きかけて、男――魔獣を創り出した研究者、ヒラリー・ワイマンは魔法の発動を止めた。
酒瓶を持っていない方の手で燭台を掴み、ゆらりと歩き出す。瓶の中身がちゃぽんと音を立てた。
「自然の中で生きるケモノというのは、強いな。クク…私の作品たちは想像以上に成長している。専用の対策ギルドが設立される程に……フフフフ!私を馬鹿にした奴らが、私の作品に怯えて生きているわけだ……」
一度足を止め、酒を口に含んでゴクリと喉を鳴らす。
大げさに肩をすくめておどけてみせても、誰も彼を見てはいない。
「楽しいね、良い気分だ。コクリコのバカ王女がエストルンド侯を潰し、鑑定石が中々回ってこないのは困ったが……騎士団のバカに支部をやられ――あの陰気な薬師が捕まったのも、まぁ、いい。そうだろう、女神様?」
一歩、また一歩、遠い距離をワイマンは歩いている。
光が佇む方へ。
「連中きっと今頃わかったのさ!かつて魔塔に居た天才、このヒラリー・ワイマンこそが!魔法を操る素晴らしい作品を創り出し、野に放ち、騎士団を王家を国中の誰をも震え上がらせているとな!!」
げらげらと笑う彼を見る者はいない。
徐々に近づいてきた光は、長髪の女のようなシルエットをしている。
「最初から私を認めていれば良かったんだ!そうすればこの力はツイーディアの味方だったろうに!私の才能を見逃したお前達の愚かさが、今自分の首を絞めているんだ!!」
鑑定石を用いて創り出した魔獣は帝国の《キメラの血》によって変異、そのうえ野生の中でますます強力に進化している。
なんと素晴らしい事かと、彼は笑いが止まらなかった。
信者達は「協力者が捕われた」と焦っていたが、ワイマンにとってそれはどうでもいい事だ。
《ジョーカー》を欲した女がどうなろうと、飲まされるサディアス・ニクソンがどうなろうと、《神の器》らしい第二王子がどうなろうと、《女神の器》がどうなろうとも。
影の女神の願いが、愛とやらが、どうなろうとも。
「そちらの事情は知った事ではない、今までどうもありがとう。そんな気持ちだ。」
光る女は背を向けて立っている。
ワイマンは軽く酒瓶を振り、彼女の頭に酒を浴びせかけた。実体のないものを通り抜け、酒は床に落ちていく。
何の反応もない女を、横から覗き込んだ。
顔のない女神はどうやら、いつも通り泣いているらしい。
眩しくてよく見えやしないが、光の粒が落下しては消えていく。信者はこれを見ると必死に彼女を励まし始めるのだ。相手が言葉を返す事は殆どないのに。
それがワイマンの目には、ひどく滑稽に映る。
――もっとも、女神様が持つ大量の魔力だけは……馬鹿にできないがな。
眼鏡の奥で目を細め、ワイマンは女の前で燭台の火を揺らした。それでも、顔の中へ燭台が入り込むほど近付けても、反応がない。
すっかり意思疎通が困難になっているが、鑑定石を大量に運んだり、研究室を移動する時などはワイマンもかなり彼女の世話になってきた。
自分の魔力だけでは《ゲート》の距離も限界があるが、女神から魔力を貰う事で遠距離も可能となる。
「おい、影の女神様。」
呼びかけても返事がない。
顔を動かす事もないので、こちらを見てもいないだろう。ワイマンは火を揺らすのをやめ、一番近いベンチにどかりと腰掛けた。
空になった酒瓶を横に置き、大欠伸をする。
「十年ぐらい前まで、もっとマシだったが。アレを手放してからすっかりコレだ…」
その頃は魔獣を創るのに夢中で、「女神様が」と騒ぐ信者達の話は半分くらいしか聞いていなかった。
以前の女神はカンテラのような容器を持っていたのが、無くなった。ワイマンが見て取ったのはそれだけだ。
どうやら、第二王子に何かして失敗したとか。
いや時間がかかってるだけだとか。なんとか。
夜教は第二王子にご執心だ。
なぜなら彼は影の女神が選んだ《器》で、彼女が持っていた何かを今、持っているはずだから。
第二王子の精神を壊せば《器》の役割が果たされると、影の女神の願いが叶うのだと、信者達はそう言っている。
「そちらと違って私は好調、とうとう買い手が出たようでね……興味はあるかな?もう少し先の話だが――…《器》がいる場所に行くんだ。魔力を分けてくれるなら、連れて行けるのだが。」
ゴン、ゴン、ゴン。
酒瓶でベンチを叩きながらワイマンは少し待ったが、反応はない。舌打ちして頭を掻いた。
――何だったか、女神が呼んでいた名は……ああ、そうだ。
「 」
女神がほんの僅か、顔を上げる。
ようやく耳が聞こえたかと、ワイマンは心の中で口汚く罵倒しながら笑った。
「会いたいんだろう?海が越えられないのなら、私が連れて行ってやろう。……少々、荷運びも手伝ってもらうがね。」




