453.触れなければ
フェリシアとシミオンが充分離れた事を確認し、ホワイトはアベルの短剣を指した。
「先程発生した事象についてはこちらで調べておく。褒賞を預かるが構わないか。」
「別にいいけど、君が調査を?」
「俺一人ではない。」
アベルは一拍待ったが、ホワイトはそれ以上言葉を続ける気がないらしかった。説明が足りないと僅かに眉を顰める。
「結果について詳しい報告は貰えるのかな。もちろん、誰がどう調べたかも含めてだけど。」
「伝えられる範囲であればな。それを決めるのは上の仕事だ」
そう言いながら、ホワイトは催促するように片手を差し出した。
アベルが瞬き、短剣を渡す素振りもなく赤い瞳を見上げる。ホワイトはただ見返すだけだ。
「…差し出がましいようですが」
一歩下がった位置にいたシャロンが、そっとアベルの横へ進み出た。
艶めく唇は麗しい微笑みを作り、穏やかな声で問いかける。
「貴方は名乗りもしないまま、殿下の物を預かるつもりですか。」
薄紫の瞳は真っ直ぐにホワイトを見据えていた。
アベルも自分の抱いた違和感が正しいと察し、ホワイトは意外そうに目を丸くして一瞬だけにやりと口角を上げる。アベルが呟いた。
「バークスか。」
「――はい、殿下。それを受け取る時にでも、種明かしと思っていましたが…ふふ。」
ホワイトの顔と声で、似た仕草で。
バークスと呼ばれた誰かは「まさかお二人ともにバレるとは」と呟いた。面白そうに弧を描いた目でシャロンを見下ろす。
外見は完全にホワイトであるためシャロンは苦笑し、未来の兄嫁をそんな目で見られたアベルはいかにも不快そうに眉根を寄せた。
まだ客席からこちらを見ている者もいるが故に、バークスは少しも頭を下げずに言う。
「王国騎士団三番隊長を務めております、クレメンタイン・バークスと申します。変装中の姿で失礼しますが。」
「ご挨拶させて頂くのは初めてですね。シャロン・アーチャーです」
どちらも昨年の女神祭の夜会に出席したため、互いに姿は知っている。
バークスは細身の体に黒い瞳、右目にモノクルをかけた三十代前半ほどの女性だ。灰褐色の髪を耳の前は鎖骨まで垂らし、前髪は眉の上で切り揃え、後ろは襟足を刈り上げた独特の髪型をしている。
ただ今は己のスキルをもって、ホワイトの外見と声を完全に再現していた。
「やはり仕草や口調、音程、表情あたりが少し違いますか?子爵とはほぼ初対面だった上、先程急に振られた割には、上手く演じた方だと思うのですが。」
「彼は君ほど性急じゃないからね。」
「おやおや。先程は急かして失礼致しました。」
確かに自分はせっかちだと笑いたいところを自重し、バークスはアベルが差し出した短剣を受け取る。
シャロンが見破ったのはどこでかと目で聞いてみるが、公爵令嬢は微笑んでいるだけだ。概ねバークスの予想が正しいのだろう。詳細を自分から言う気がないのか、アベルが先に言った以上、余計な付け足しは不要と思っているのか。
バークスは意識してゆっくりと瞬きをした。
「将来有望な若者を見に来たはずが、天候を変えるほどの魔法を見られるとは。既に殿下の支持者が騒いでいましたよ。あれは、ドレーク公爵家が貴方の後ろについた意思表明だと。」
「支持者?一部の馬鹿の間違いだね。」
「さて?殿下のお言葉を否とは言いませんが……魔力を持たない貴方が第一王子殿下に勝利し、表彰では《システーツェの祝福》さながらの現象が起きた。閣下の仕込みでは無いと疑う者達が、果たして誰ぞの仕業と見るか、奇跡と見るか。」
アベル自身がどう感じていようと、第二王子派は盛り上がるだろう。
バークスが言わんとするところを察し、シャロンは胸元でそっと手を握りしめた。今あからさまにそちらを見るような真似はできないが、心当たりはある。
『アベル殿下こそは真に王となるべきお方だった。星に例えられる歴代王家の中でも、彼ほどの器を持つ者はいなかった……』
フランシス・グレン。
ゲームの《未来編》において、ウィルフレッドの敵となる男。アベルが魔力持ちだと公表して王になった世界線では、特筆される事もなかった男。
バークスとアベルが話す傍らで、シャロンはゲームの画面を思い返していた。
学園編の十一月。剣闘大会イベントにおいて、アベルが褒賞を得た後に空を見上げたカレンは確かに青空を見ている。
では、それまでの天気はどうだったのか。
シャロンがどれだけ前世の記憶を振り返っても、剣闘大会の試合中、空模様は映っていない。背景は観客席かフィールドのどちらかだ。
――…まさか、あの現象はシナリオでも起きていた?
教会で話した時、グレンはアベルが魔力持ちだったらどんな完全体だったか興味があると語っていた。
そのグレンが見ている前でウィルフレッドを打ち破り、アベルは優勝した。自分の力を十二分に見せつけたと言える。加えて伝承そっくりの現象が起きたのだ、まるで選ばれし者のように。
グレンは今、アベルをどう見ているのか。
――もし、《効果付与》が起こした現象だとするなら……私は知らない内に、ゲームのシナリオに沿う重要な引き金を引いてしまったのでは……
「ご存知の通り、本部から来た面子にはロナガンもいます。確信に近い容疑者がいれば覗けたかもしれませんが。」
「難しいだろうね。そこまで容疑者を絞れると思えないし」
「仰る通り。まぁ現状はただ空が晴れただけ。あまりお気になさいませんよう――…あぁ、迎えが来たようで。ここで失礼します」
二人の後ろへ目をやり、バークスはホワイトらしく返事も聞かずに踵を返した。
アベルとシャロンが振り返れば、貴賓席から降りてきたのだろう四人がこちらへ歩いてくる。先頭はもちろん、弾けんばかりの眩い笑顔を浮かべたウィルフレッドだ。ほくほくと満足げでうっすらと頬が赤い。
「アベル!シャロンも、堂々として見事な式だったよ。」
「ありがとう、ウィル」
ふわりと微笑んだシャロンを見つめ、ウィルフレッドは目を細めて小さく頷いた。
舞台でアベルに褒賞を差し出す前、オペラグラス越しに見た彼女の笑顔をはっきりと覚えている。素で照れた様子はとても可愛らしかったし、何よりその瞬間、アベルがごく僅かに動揺を見せたのだ。
一瞬にも満たない時間だが、彼が静止した事に兄は気付いていた。
チェスターが「祝福のとこ驚きましたけど、さすがアベル様は冷静でしたね」などと言っているので、皆は気付いていないようだが。
――ふふ…良い感じだ。どうだろうこの辺りで、俺から軽い感じで「二人でお祝いに出掛けるのもいいんじゃないか」と提案を…
ウィルフレッドは開きかけた唇を閉じた。
思い出したのは、以前シャロンとのデートを終えたアベルが言っていた言葉だ。
『……ウィル、できれば二度と「是非行ってこい」などと言わないでほしい。』
――…俺から言うのは、やめておこうか。
懸命な判断を下し、ウィルフレッドは黙ってアベルに視線を送った。
何を言いかけたのかと促すようにこちらを見ているが、含みのある笑みでただ見つめ返す。
アベルは「よくわからないがまた何か勘違いされている」と察し、隣にいるシャロンを見やった。ウィルフレッドが妙ににこにこしている時は大体彼女に関する事なのだ。
ひゅうと秋風が吹き、純白のヴェールが煽られた。
シャロンが咄嗟に手で押さえようとしたので、アベルは飛ぶものと思い彼女の頭にさっと手を添える。楽団席からは何か倒れるような激しい音がしたが、ヴェールが離れる事はなかった。
「ありがとう、アベル。コームで固定しているから大丈夫なのだけど、それを忘れていたわ」
こちらを見上げて照れ笑いするシャロンに軽く頷き、手を下ろしたアベルは視線を感じて瞬く。
成り行き上たまたま隣にいたので、アベルが手助けしただけの事だ。
チェスターとサディアスはそれをわかっているようだが、ダンの目は揶揄うように弧を描いているし、ウィルフレッドは一段と嬉しそうにしている。
『お前とシャロンが仲良しなようで、俺は本当に嬉しい。嬉しいなぁ』
以前兄に言われた言葉を思い出し、アベルはなぜか嫌な予感がした。
青い瞳は何かを期待するようにきらきらと輝き、意味深にこちらを見つめている。危険だ。
「――空が晴れた事だけど。あれは演出じゃない」
待ちきれないとばかり口を開きかけた兄に、アベルは先手を打った。
コロシアムの中、人気のない通路で一人の女子生徒が蹲っている。
屈んだ状態で壁にもたれ、吐き気を堪えるように口元を押さえ、苦しげに吐息を漏らして俯いた彼女の長い銀髪がさらさらと流れた。
後方から誰かの足音が聞こえても、動く事ができない。
「ちょっと、貴女どうしたの?」
「……何でもありません。」
今にも消え入りそうな声だった。
振り返らずにいれば足音は遠慮なく近付いてきて、誰かがすぐ傍に屈む。鬱陶しく思いながら銀の瞳を動かせば、見えたのは騎士服だった。ならば放っておいてはくれないだろうと、少女は嫌々ながら視線を上げる。
「顔が真っ青よ。」
眼鏡のつるに指先をあててそう言ったのは、藤色の長髪を左右の高い位置で団子に結い、細いツインテールに流した女性騎士だった。年の頃は三十代か、細い眉を気遣わしげに顰めている。
「何かあったの?それとも体調不良?良ければ医務室まで運ぶけど。」
「ひ、人酔いです。だから触らないで」
伸ばされた手から逃げようと後ずさりし、少女は汚いものを近づけられたかのように手を振った。騎士は少し気に障った様子で「随分貧弱なお嬢様ね」と呟き、自分のポケットを探る。
「あたしはロナガン。女の身ですが、これでも副隊長の位を預かっています。…具合の悪い子供を放置する事はできないの。お名前は?」
「……ディアナ・クロスリー。」
「ではクロスリー様、ご覧の通り手袋をはめましたが、これも駄目ですか?」
「………。」
ディアナは血の気が引いた顔でロナガンの手を見つめた。
駄目かと問われたら、わからない。
第一、ディアナはこれまで人酔いなどした事がなかったのだ。なのに突然、コロシアムの外へ出る生徒達の中にいたら気分が悪くなり、必死に抜け出てきた。
「隙あり」
「っ――…!?」
ディアナの返答を待たず、ロナガンは彼女をさっと抱き上げる。
咄嗟に抵抗しようとしたディアナだったが、ロナガンの言う通り素肌ではないせいか、あるいは偶然なのか、体調が悪化する事はなかった。
「平気そうね。とりあえず医務室へ連れていくから、そこで休んでください。」
「………。」
問題ないと判断してロナガンは歩き出したが、ディアナは返事もせず身を固くしたまま、祈るように胸元で両手を組む。無表情でそれをやるものだから、まるでポーズを強制された人形のようだった。
――どっかで聞いた気がするわね、クロスリー。……ああ、枢機卿の一人がそんな家名だったかな。
「えぇ、太陽の女神様に祈っておくと良いでしょう。余計な事を考えると、頭がごちゃごちゃして余計に気分が悪くなったりしますから。」
「…女神様……」
湧き起こる吐き気の原因がわからず、ディアナの額にじわりと汗が滲む。
気分が悪くなる直前、ディアナの手の甲に、出口を目指していた集団の誰かの手が触れた。途端に目の前がぐらりとして、立ち止まりかけたが故に連続で人にぶつかられ、よろめきながら逃げてきた。
屋内だからだろうか、目の前が暗い。
されるがままに運ばれながら、ディアナは眩暈がして目を閉じる。
――ああ…
瞼の裏で蠢く何かの影は悍ましく、恐ろしかった。言い知れぬ不安があった。
だからこそ少しだけ、ディアナの心が動く。
『……女神様の願いを叶える事は…正しいこと。』
果たして本当にそうなのかと、以前浮かんだ問いを繰り返し――ディアナ・クロスリーはこの時、小さな意思を持った。覚悟には程遠い、決意にも満たない、儚く小さなもの。
それでも、これまで流されるままだった彼女が初めて、自ら「知ろう」と思った瞬間だった。
頭の中、暗闇にはっきりと第二王子の姿が浮かぶ。
――あの方に、触れなければ。




