426.すべては貴女次第
少し癖のついた黒の短髪、疑念の滲んだ金色の瞳。
彫像のように整った顔立ちの第二王子アベルは、ラフなシャツ姿で姿見の前に立っていた。右の首筋を片手で押さえているけれど、彼の左側にいる視点ではそれが怪我なのかどうかもわからない。
服についた血は返り血か、誰かを助けた時のものか。
首筋を押さえたまま、アベルは左手を開いて見下ろした。
赤い。手のひら全体にべったりとついた血が乾いたかのような、近付けばまだ残る血の匂いがしそうな手だった。アベルは怒りに燃えるような目でその手を固く閉じる。拳が小さく震えるほどに。
音も匂いもしない。
あるのはただ、視覚情報だけだ。
ぎろりと鏡の中の自分を睨みつけ、アベルの口が動く。
ほんの一瞬ではあったが、読唇術など身に付けていないが、それでも唇の動きを見た。
「なぜ…」
彼はそう言った、気がした。
長い黒髪がふわりと揺れ、クローディア・ホーキンズ伯爵令嬢は目を開ける。
既に王立学園を卒業した彼女は今年で十九歳だ。
黒い瞳を抱いた猫目は気の強さを感じさせながらも気品があり、白い肌は滑らかで、唇は桜色をしている。
自室のベッドで身を起こした彼女は満足気に微笑んだ。朝、目覚めてすぐのスキル発動だった。
――少なくとも、殿下が無事だという可能性はある。誰かが傷ついていようとも。
クローディアのスキルは《先読み》。
未来視とも呼ばれる珍しいもので、未来に起きる可能性のある出来事を知る事ができる。どの程度をどのように知るかは個人差が大きく、彼女は身分を隠した上で「占い」として一般客も取っていた。
最も大事なのは当然、主君たる第二王子アベルから持ち込まれる依頼である。
来年の二月に起きる事件について、クローディアは時間をかけてようやくそれらしい現場を見た。
様子がおかしいサディアス、突き飛ばされたのか受け身を取るウィルフレッド、怯えたカレンの姿、炎と水。ウィルフレッドが誰かを呼ぶように口を動かしつつ駆け出す。
一度でも見てしまえば、後は「それが起きた日」を軸にできる。
二月のいつかはわからずとも、事件の日に他には何が起きたのか――できるならばアベルに求められた以上の結果を出したいと、クローディアは依頼を終えた後も時折スキルを使っていた。
それでも殆どが意味のない日常風景だったが、今ようやく、初めての景色が見えたのだ。
本来であれば、王族に関わる未来を勝手に覗く事は不敬。
長い歴史の中では、軽率な《先読み》持ちが処断された例など幾つもあった。
世間話に思えた密談を人に喋ってしまったり、湯浴みをする王女が見えて酒場で下世話に語ったり、従順な臣下と見せかけて執拗に国王のプライベートを探って記録していたり。
クローディアはアベルから依頼があったこと、第一王子の従者であるサディアス・ニクソンが何らかの要因で事件を起こす――つまり国にとって一大事であること、報告を終えた時アベルが「これ以上は見るな」と言わず、彼が手配しただろう監視の目がまだあること。
そういった総合的な判断で時折、勝手に挑戦を続けている。
見た中でアベルに伝えるのはクローディアが重要と考えた未来だけであり、先週やっと一つだけ報告した。
学園に通う弟シミオンにアベルを連れてきてもらい、直接口頭で。
『…息を切らした様子のノーラが、倒れたサディアス様を見下ろしていました。彼女は辺りを見回してから彼を引きずり始めましたが、眠っているのか気絶しているのか、サディアス様が抵抗なさる様子はありませんでした。』
事件当日を見ようとして、見えたものだ。
ウィルフレッドの前で事件を起こしたサディアスが、その後一人で歩いているわけがない。当日の話なら事件が起きるより前の出来事だろう。
ノーラ・コールリッジはサディアス・ニクソンに何をした?
たまたま、サディアスが気絶しているのを発見した。それならもっと動揺し、助けがいないか大声を出すものではないか。何か起きるとつい声を上げがちなノーラにしては、辺りを見回すだけで黙って運び始めるのは妙だった。
ノーラがサディアスを気絶させた。これは方法が絞られてくる。よく知る相手という油断があったとしても、サディアスはノーラに倒されるほど弱くない。薬か、よほどの不意打ちか。
ノーラの前でサディアスが気絶させられた。その実行犯が立ち去った直後で、どこかに隠れていたノーラが急いで駆け寄ってきたのかもしれない。戻ってくる前に隠そうとしたかもしれない。ただ、それならどうしてサディアスを起こす努力をしなかったのか。
『俺が見張ります。』
普段と変わらぬ真顔で、シミオンはきっぱりと言った。
これがよく知りもしない《先読み》持ちの言葉なら、彼は剣を相手の喉元に突き付けてでも真偽を問うただろう。冗談でも嘘でもシミオンは許さない。
歴史のない男爵家の令嬢と次期公爵、人によっては「害する可能性があるなら今すぐ投獄しろ」と言いかねない話だ。
しかし未来を見たのは実姉クローディア。
シミオンの性格を知っていて嘘を吐く理由がない。なら起きる起きないは別として、シミオンはノーラを守るために動く。彼女が面倒事に巻き込まれないように。
――シミオンがついていれば、その未来は潰えるでしょう。ノーラの事は任せておけばいい。それより……殿下の血は、ご自身のものには見えなかったけれど。あれは一体誰の……
ノックの音が聞こえ、クローディアは思考を中断した。
聞き慣れた侍女の声に一言返してベッドを降りる。入室した彼女らに身支度を整えられながら、美しき伯爵令嬢は微笑みを浮かべた。
今日は《占いの館》の営業日だ。
紺色の上質なクロスをかけた丸テーブルを挟んで椅子が二脚、向かい合わせに置かれている。
クローディアが着ている黒のドレスは肩回りをレースで飾り、繊細な刺繍の模様に合わせて小粒の宝石を散りばめたものだ。正体を隠すため、目元より下は少しだけ透けたフェイスベールで覆い、睫毛の長い猫目の周りは植物模様を描いて印象強くしている。
テーブルには火を灯した三本の蝋燭がついた燭台と、緻密な彫りが美しい盆には水を張っていた。テーブル周りを問題なく歩ける程度に余裕をもって、天井からテントのようにして滑らかな暗幕を垂らしている。
こうした演出は客が求める非日常感と神聖さのためだ。
やがて使用人に案内されて向かいの席についた客は、カレン・フルード。
生まれつき白い髪と赤い瞳を持つ平民の少女だ。緊張しているのだろう、捕獲された白うさぎのようにキョロキョロと目を泳がせている。
かわいらしいこと、と心の中で呟いて、クローディアは瞳をまっすぐにカレンへ向けた。
「今日は何を見ましょうか?」
「えっと……畏れ多い事だとは、思ってるんですけど…その…」
「ふふ、どうか落ち着いて。乙女の心を世に暴くような事は致しませんよ。」
にこりと微笑んでみせれば、カレンは恥じらって頬を染める。
胸に手をあてて深呼吸し、ようやっと再び口を開いた。
「私、いつか皆の役に立てる人になりたいんです。まだまだ、成績もふるわないけど……あっ、頑張ればいいって事はわかってるんです!自分なりに努力をするつもりです。ただ、なんていうか。」
クローディアは「わかっています」と鷹揚に頷く。
悩みを抱える客がまとまりのない話し方になるのは珍しくない。
「皆」というのは双子の王子とその臣下だろう。
カレンは見目が珍しい平民の少女だが、アベルは先日、ほんの二十分程度とはいえ個別に時間を取ってやったらしい。
サディアスやチェスター、シャロン達が引き離そうとしない事から見ても、カレンは一定の信頼を得ている。
役に立ちたいと言うのなら、彼女自身の中でも少しは――今はまだ、友人に向けるものであっても――忠義の心が芽生えているのだろう。将来アベルの役に立つなら、クローディアとしてもその背は押してやりたい。
「誰かのためにと考えられる貴女は、素敵だと思いますよ。」
「そそんな、」
「占うには具体的なお話があるとやりやすいのですが、どなたの役に立ちたいのですか?」
「どなた?…うーん……」
カレンにとっては予想外の質問だったらしい。
目を丸くした後、テーブルに視線を落として考え始める。
――私はただ…大人になった時、胸を張って皆と一緒にいられたらどんなに良いだろうって。勉強を頑張ったらお城の下級文官くらいなれるかもしれない。《薬学》とかを頑張ったらシャロンのお手伝いができるかもしれない。レオと騎士団に入って皆を守る……なんていうのは、一番難しそうだけど……
「……お城で働けたり――ううん。それはさすがに無理だと思うから…」
「…決めつけることはありませんよ。占ってみますか?」
「う……そうですね。お願いしていいですか…」
「えぇ、わかりました。」
クローディアは薄く微笑み、フェイスベールの内側で静かに宣言を唱えて目を閉じる。
ふわりと風が舞った。盆の水が、燭台の炎が、垂れ下がった幕が揺らめく。閉じた瞼の裏に人影が見えた。
立派に成長したアベルがこちらに背を向け、一枚の肖像画を見上げている。
今年ガブリエル・ウェイバリーが手掛けたと聞くものだろう、金細工の額縁に飾られたそれには国王夫妻と双子の王子が描かれていた。
アベルが振り返る。
その美貌に思わず息を呑んだクローディアを通り越し、二人の人物が彼の前に現れた。
揃って一礼して顔を上げ、何か報告しているらしい。
ぴしりと背筋を伸ばした紺色の髪の男性は恐らくサディアスだろう。来年の事件がどうなったか不明だが、この未来では無事に仕えている。
彼の斜め後ろに控えたのは白髪の女性だ。そんな髪色の者はまずいない、これがカレンだ。報告に合わせてか、胸元に抱えた資料を随時サディアスに渡している。
見えた景色が消え去り、クローディアは目を開いた。
風は止んでいて、カレンは固唾を飲んでこちらの様子を窺っている。
「…よく学ぶと良いでしょう。紺色の髪を持つ男性と、城で仕事ができるかもしれません。」
「紺色、ですか?それって…」
思い当たるのは一人だと、カレンは意外に思って赤い瞳を丸くした。
具体的な名前を出して良いものか迷い、半開きになっていた口は結局閉じてしまう。そんな様子に気付きながらも、クローディアはただ笑みを深めた。
「希望を胸に、望む未来を手にできますよう――…すべては、貴女次第ですよ。」




