423.この手を伸ばせと何かが言う
放課後の王立学園、訓練場にて。
ウェーブがかった長い赤茶の髪を掻き上げ、チェスターは荒い呼吸を整えながら立ち上がった。
珍しく眉を顰めているせいで、普段は優しそうに見える垂れ目には険がある。茶色の瞳は真剣な光を宿し、こめかみから目尻へと流れ落ちる汗を手の甲で雑に拭った。
見学席から黄色い声が飛んでいたのは途中までで、空は暗くなり夕食も近付いてきた為に殆どの女子生徒は引き上げている。
一人を除いて。
「はぁ、はぁ……っありがとう、ございました。」
限界まで疲労し、情けないくらいに震える手で剣を胸の前に構える。
鍛錬に付き合ってくれた主君――アベルは、微塵も疲れを見せていなかった。チェスターの動きに揃えて剣をピタリと構え、「ありがとうございました」と言う声は落ち着き払っている。
構えを解いた瞬間にでも座り込みたかったチェスターだが、何とか堪えてアベルのもとへ歩み寄った。見学席を見ないようにしつつ、確実に届かない小声で聞く。
「ディアナ嬢だけ残ってるけど、どうします?」
「どうもしない。」
「わかりました」
頷いて、チェスターはアベルと共に歩き出した。
訓練場はコロシアムと違って壁に囲まれていない。出ていくのに見学席の近くを通る必要もなく、ディアナ・クロスリーが二人を大声で呼び止めたり、走って追い付こうとする事もなかった。
ディアナは艶めく銀色の長髪に、同じ色の瞳。
驚くほど白い肌は華奢な彼女をひどく儚げに見せている。か弱く麗しい少女ではあるが、微笑むところを見た者は誰もいなかった。
熱の無い冷めた目で日々を過ごし、時折、ああやってアベルの近くに姿を現す。
――ほんと、何考えてんだか。
いつものゆるい笑みを取り戻しながら、チェスターは心の中で警戒を強めた。
三年前、クロスリー枢機卿が養女を連れて城を訪れた時。偶然――かは不明だが――ディアナはほんの数分だけ枢機卿とはぐれ、従者を連れた第二王子と出くわした。
挨拶程度は寛容に許し、互いに名乗った次の瞬間。
『房事の際は、わたくしをお使いください。』
アベルを見つめ、ディアナは当然のように言いきった。
房事は男女が体を重ねることであって、十歳の少女が王子に申し出ることではない。
唖然としたチェスターがつい素で「何言ってんの」と呟き、不快そうに眉を顰めたアベルはじろりとディアナを睨んだ。恋慕も欲も無い、銀色の瞳を。
『あー…っと、お父上から何か言われてるのかな?』
だとしたらやばい男だと思いながら、チェスターは笑顔を作って聞いた。
ディアナは小さく首を横に振る。
『猊下はただ、第二王子殿下にはわたくしが必要だと。……理由を推測し、そういう事だと認識しております。』
『いらない』
切り捨てるように言って、アベルはディアナの横をすり抜けた。
後に続くチェスターは笑みを消し、すれ違いざま「二度と言わないでね」と釘を刺す。たまたま周囲にあまり人がおらず、ディアナの小さな声も二人以外に届きはしなかったからまだよかった。言葉の理解も礼節も未熟な子供の戯言として見逃した。
これがもし他にも聞こえる状況であれば、騎士に拘束させるくらいはしていただろう。
娘の教育がなっていないようだと言われた枢機卿は深く頭を下げ、丁寧な弁明と謝罪の手紙を書いて寄越した。彼は自身だけでなく大神殿の威信に関わると正しく理解していた。
ディアナは二度とそういった事を口走らなかったが、あの銀色の瞳を見ていると、心から反省したとも理解したとも思えない。
入学以降チェスターがそれとなく話しかけ探ろうとした事も幾度かあったが、どうにも何を考えているのか掴めないままだった。
――女の子にこんな事思いたくないけど、ちょっと不気味なんだよね。
ディアナの目を思い出すと背筋がぞくりとして、チェスターは頭を切り替えようと軽く肩を回した。日頃自分なりに鍛錬はしているが、アベルにしごかれたのは久々だ。恐らく明日は悲惨な筋肉痛が待っているだろう。
「――……。」
見学席にぽつんと座ったまま、ディアナは小さくなっていく二人の背中から目を離す。
顔の向きを前へ戻すと、小さくため息をついた。喉が小さく震えた気がして、少しだけ眉根を寄せる。
どくり、どくり、心臓のリズムはいつもと変わりないはずだった。
夏は過ぎ涼やかな風が吹いているのに、ろくに動いてもいないディアナが汗をかくわけがない。だから額に細い指先をあてた時、僅かに湿っていた気がするのもきっと気のせい。
学園に入るまでこんな感覚は知らなかった。
去年の狩猟でケンジットに抱えられ、山の中を魔獣から逃げている時でさえディアナは平静だったのに。
最近何かがおかしかった。
第二王子をじっと見ていると胸がざわめく。いつか彼らに身を差し出すと決まっていて、ディアナが何をどう感じたところで、思ったところで、意味は無いのに。
「美しいお嬢さん、こんな夜にどうしたのかな?」
考え事に夢中で近付く影に気付かなかった。
肩を揺らし目を見開いて振り向けば、この二か月ほどしつこく声をかけてくる令息がそこにいた。肩の上で切りそろえた柿色の髪、大きな茶色の瞳。家を継ぐ予定もないからと、将来は騎士団に入るつもりの二年生である。
揶揄うような声色だったのに、いつも通りへらへらと笑っていたようなのに、ディアナと目が合った彼は気遣わしげに眉を顰めた。
「――何か、怖いことでも?」
「…こわい……?」
「怯えた目をしていますよ。…貴女のそんな顔は初めてだ。」
「……怯えてる…わたくしが……?」
初めて聞いた単語を繰り返すように、信じがたいことを聞くように、ディアナは独り言のように呟く。
「俺が脅かしたから…というわけではなさそうですね。どうしたのです?」
男子生徒は片膝を付き、ディアナを見下ろすのではなく見上げる形をとった。怖がらせないために。
何も映さない銀色の瞳が湖面のように揺らいでいる。
――…恐怖を、感じたというの?……わたくしが?
そんなはずはないと考えるのに、先程まで感じていた胸のざわめきにその言葉はしっくりときた。ディアナはアベルに怯えていたのだ。
ゆっくりと瞬いて、ディアナは跪いた男子生徒を目に映す。
二か月前、しつこい彼を鬱陶しく思って風の魔法を放った。
授業外での攻撃魔法は使用禁止、そうわかっていても。直後に現れたアベルにそれを咎められ、素直に聞き入れた。その時のディアナには恐怖などなかった。
アベルに怒られようと嫌われようと、たとえ暴力を振るわれたとしても響かなかっただろう。彼の意思など関係なく、いずれディアナと肌を合わせるに違いないのだから。
なのにどうして最近になって、怖いのか。
「わかりません」
得体の知れない何かが、胸の奥底に渦巻いていた。
ディアナは第二王子に手を伸ばさなければならない。もしかしたらそれは、枢機卿の言う「その時」が来るより早く。怖いとしても、恐ろしいとしても――否、怖いから、恐ろしいから、正体を知りたいのだ。
だから手を、伸ばさなければならない。触れた所で、何もわかるわけがないのに。でも、触れなければならない。
膝に置いた手が震えていた。初めての事だった。
「何か、不安を抱えているのですね。」
ディアナ本人がわからないのに、目の前の男は簡単に彼女の心に名前を付けていく。
震える手を許可も無く握り、体温を分けるように包んできた。温かい手だった。
「俺でよければ力になりますよ、お姫様。」
「…いりません。」
「ふふ、そこは素直に頼るところでは?サロンでゆっくり話でもと思ったのですが。」
「貴方に頼ることは、ありません。……放っておいてください。」
自分より大きな手を軽く振り払って立ち上がる。
彼はディアナを強引に止める事はしなかった。
「誰かに相談したくなったら、いつでもどうぞ。美しい女性の頼みは断りませんから。」
真摯な声で軽口を叩く彼に背を向け、ディアナは訓練場を立ち去る。
そもそも、第二王子について考えるのは彼女の仕事ではなかった。ディアナ・クロスリーは「その時」が来るまで、自分の身体を美しく純潔に保っていれば良いのだ。どうせ使うのはディアナではない。
――もし、わたくしが本当に殿下を恐れているとして。仮に、わたくしが本当に不安だとして。
それで未来が変わるなどありえない。
全ては影の女神と彼女に仕える者達が定めたままなのだから。
手を伸ばせと言われているかのような、衝動。
第二王子を見るとじわり、胸に浮かぶ嫌な感覚。不安、恐怖、感じても意味はないのに。
なぜ今になってと、どうしても考えてしまう。
神殿都市で暮らしていた頃と、この王立学園での日々。
違いといえば同年代の子供達が多くいる事だろうか、騒がしい事だろうか、ぽつぽつと記憶を辿るディアナの頭に人の顔が浮かんでいく。
やたら絡んでくる先程の令息、街へ出るとよく声をかけてくる騎士ケンジット、協力者だと聞いたのに一方的に裏切ったグレン、どこにいても人目を引く王子達。
理解しがたいもの、自分と違うものを沢山見て、ディアナの精神は少しずつ崩されていたのかもしれない。不安も恐怖もよくわからない衝動も、ディアナにはいらないものなのに。
手を伸ばしてどうなるというのか。
触れたところで何がわかるというのか。
論拠の伴わない、得体の知れない感覚に従う必要は無い。
「……女神様の願いを叶える事は…正しいこと。」
小さな声で呟いた。
孤児だった自分が枢機卿に差し出されたのは、見た目が相応しいからだ。頭脳や心を買われたわけではない。
多くの人を救った《影の女神様》のためになる事は、正しいこと。良いこと。好いこと。善いこと。
本当に?
「………。」
定められた未来が変わるはずもないのに、疑ってどうなるというのか。
そう心の中で呟きながら、ディアナは立ち止まって自分の手のひらを見つめた。
この手を伸ばせと何かが言う。
触れてみようかとほんの一瞬考えれば、冷えた炎のような感覚が微かに手の中を巡った。
魔法を使う際、「これは発動できる」と直感した時に似ている。
己の魔力が言っているのだと、そう気付くのはまだ先のことだった。




