416.全て伝える義務はない
神殿都市へ向かっていた君影国のエリとヴェン、ブルーノ・ブラックリーの三人は、アーチャー公爵領内、風車の街タルミアを発って東へ向かった。
平原を通る迂回路ではなくベイゲナ森林を通ることにし、護衛が負傷して困っていた貴族の馬車と同行する事になり――魔獣に襲われた。
まだ日の差す午後のこと、現れたのは十数頭のファイアウルフだったという。
ヴェンとブルーノが応戦し、周囲の木々へ燃え移った炎を貴族の青年が水の魔法で消し止める。そのままいけば無事に戦闘を終えていたのだろうが、一体いつから機を窺っていたのか、突然現れた賊が青年を拘束した。
エリの悲鳴にヴェン達が振り返った瞬間、青年は彼を助けようとしがみついたエリごと掻き消えた。光の魔法による目くらましだ。
『エリ様!!』
『ヴェン!助けっ…』
『宣言だぁ、陰りやがれッ!!』
ファイアウルフを叩き切りながらブルーノが吼える。
エリ達が消えた場所を中心に波紋のようにして闇が通っていく。相手が使った魔法さえ打ち消せればそれでいい。
目を凝らしたヴェンは、動きから予想していた先とは別方向へ駆ける賊を数名見つけた。手慣れているようだ。黒い鎖を巻かれてなおもがく青年は二人がかりで担がれ、エリは気絶させられたのかぐったりとしている。
『行け、ヴェン!こっちは俺がやる!』
『かたじけない!』
御者を騎士団詰所へ走らせるにしても魔獣はまだ残っており、この先も出るかもしれない。
馬車の中には走れもしない負傷者がいるだけとなれば、誰かが残って守らねばならなかった。
ヴェンが賊を追いかけた後、ファイアウルフを片付けたブルーノはできる限り馬車を急がせて神殿都市へ向かう。
到着してすぐ御者達を騎士団詰所に預け、早馬を借りて現場へ駆け戻った。
魔獣の死骸は騎士に任せてヴェンが走った方向へ急いだが、彼の足跡は崖の上で途絶えていた。二十メートルほど下を流れる川は幅が広く底も深い。
魔法で飛んだか、落ちたのか。
目下、行方を捜索中である。
日曜の午後、シャロンは難しい顔をして喫茶《都忘れ》の二階個室に来ていた。
隣に座ったダンは遠慮なくお菓子を摘まんでいるが、シャロンは紅茶を一口飲んで以降だんまりだ。
カレンがロズリーヌを庇って怪我するイベントがなかった事は、もういいのだ。
無事ならそれに越した事はないし、代わりにゲームにはなかった幽霊騒動が起き、カレンがそこへ呼び出されたこと。結局はゲームと同様に攻略対象の一人が医務室でカレンに会ったことも、今はいい。
シャロンが気になっているのは別の事だった。
――昨日、ウィルに聞いた話……どういう事なのかしら。誘拐された二人が心配なのはもちろんだけど、エリ姫の護衛がヴェンだったなんて。
かの姫君に護衛がついているとはシャロンも知っていたが、思い返してみればその名を聞いた事はなかった。
黒の短髪に赤い瞳、背が高くがたいの良い大男。外見もゲームの立ち絵と一致している。
ヴェンはカレンがホワイトのルートに進んだ場合、《未来編》で戦う事になる相手。言わば中ボスの立ち位置だ。
ホワイトの命を狙って現れた彼は、敗北してなおも食い下がる。鬼気迫るその刃をアロイスが止め、突然の乱入者にヴェンは目を見開いた。
『後は私に任せて行くといい、二人とも!』
『っありがとう!』
刃を弾く音を背にしてカレン達は駆け抜け、無事に王都ロタールへ到着する。
一方残ったアロイスを前に、ただ気力だけで立っていたヴェンは声すら出せないまま倒れてしまった。キン、とアロイスが刀を鞘に戻す音がして、場面転換となる。
――だけどヴェンが君影国の人間で、エリ姫の護衛だったのなら。割り込んだのはむしろ、彼を助けるためだったのでは?そのままではホワイト先生はトドメを刺すしかなかったもの。……今日、アロイスさんから彼について話を聞ければ良いのだけど。
シャロンが「久々にお会いできませんか」と手紙を出したのは昨日の午後だ。
返信が間に合わないだろう事を考えて「返事がなくとも待っている」と書き、仲介者テオには個室の長時間予約と、手紙はその日のうちに届けてほしいとチップをつけていた。彼は先程の入店時に小さく頷いてくれたので、それは叶ったはずである。
アロイスが来るかはわからない。
定期的に当たり障りない手紙をやり取りし、彼がまだこの街にいると確認はしていたものの、二人が直接会うのは三ヶ月ぶりだ。
「…兄貴が攫われたこと、あのお嬢様は知ってんのか?」
クッキーを頬張りながらダンが聞く。
エリと共に誘拐された青年の妹はシャロンと同い年の一年生だ。シャロンは僅かに首を傾げて「どうかしら」と呟く。
「こちらにいてはできる事もないし、侯爵の判断次第では何も知らないかも。ただ、君影の貴人が一緒だとはさすがに知らないでしょうね。」
現場がアーチャー公爵領の隣でなければ、シャロンもそこまで詳しくは教えてもらえなかったかもしれない。
今日アロイスに聞きたいのはヴェンの事だが、エリの危機について知っているかどうかも気になっていた。
勉強をしながら待つこと、一時間半。
とうとうバルコニーへ通じる扉がノックされ、ダンが席を立って外を覗く。誰もいなかったそこにはすぐ、最初からいたかのようにアロイスが姿を現した。目くらましの光魔法を解除したのだろう。
ダンが驚く事なく礼をして一歩下がり、開けた扉を支える頃にはテーブルに広げた勉強道具もざっと片付いていた。
「待たせしてしまったかな。久し振りだね、シャロン。」
「お呼び立てしたのはこちらですから。来てくださってありがとうございます、アロイスさん。」
相変わらずアロイスの目は見えないが、薄い唇は気さくな笑みを浮かべていた。
既に立ち上がっていたシャロンは淑女の礼をして挨拶を返す。アロイスは長い黒髪の後ろ半分を小さな団子にして銀の簪を挿し、余った髪もいつも通りそのまま垂らしていた。
着慣れた様子のシャツとズボン、よく磨かれた革靴。顔の上半分を覆う猫面さえなければ、下級貴族の紳士とそうは変わらない。
ダンに注文を伝え、アロイスはシャロンの向かいのソファへ座った。
シャロンも私服のスカートの裾を整えて腰を下ろし、彼がつけた猫面の目の部分に空いた穴の奥、暗闇に焦点を合わせて微笑む。
「最近は暑さもすっかり落ち着いて、朝晩は涼やかな風が吹くようになりましたね。」
「過ごしやすくて良いね。エリがお腹を冷やしてないと良いんだが。」
「十六のお年だと伺っておりますが……」
「ああ、もうそんなになるか。私の記憶ではどうも小さいままでね」
アロイスは昔を思い返すように目を閉じて顎を軽くさすった。八年もあれば随分と背も伸びたはずだ。
「会わなくてよろしいのですか?」
「さてね、どうなるだろう。あの子にはあの子の、私には私の自由がある。……私に急いで会おうという気はないから君達に黙っていてくれと頼んだし、絶対に会わないという気もないから口止めは軽かった。」
確かに、とシャロンは考える。
アロイスは口封じどころか脅迫という手段もとらなかった。完全に放置する気なら探し人の張り紙に返事を出さない事もできたのに、そうはしなかった。
「ですが、ご心配では?魔獣の活動範囲も広がっていますし…」
「私をまだ探すと決めたのはあの子自身。そこに何がしかの苦労が伴っても仕方のない事だし、紅玉は優秀な男だよ。」
「ヴェンというお名前でしたか。真面目そうな方だとお聞きしています。」
「そうだね。彼は生涯、私とエリを裏切る事はないだろう。」
「…とても、信頼されているのですね。」
少しばかり目を丸くしてシャロンが返す。
ゲームのアロイスは飄々とした男だったので、断言する程に信頼する相手がいる事が意外だったのだ。
「こちらで言う護衛騎士のような役割の方なのでしょうか。」
「私達にとってはね。けれど愚かな事に、国の大多数は彼を疎んでいる。」
「…なぜでしょう。」
流れた沈黙の中でかたかたと音がして、ダンが絡繰り戸棚へ歩く。香り立つコーヒーがアロイスの前へ運ばれた。
今日は砂糖も入れずそのままに、アロイスは熱いコーヒーを喉へ流した。
「ひとつ、君影の因習を教えてあげようか。赤い瞳を持つ者は《忌み子》と呼ばれ、婚姻も子を成す事も禁じられているんだ。」
シャロンとダンがはっとしたように目を見開く。
赤い瞳を持つ者。
それはエリの護衛ヴェンもあてはまるが、ゲームの主人公カレン・フルードも、シャロンの師であるホワイトも同じだ。
「どうしてそのような……」
狼狽えるシャロンの前で、アロイスは片方の人差し指をピンと立てる。
「大昔。それはもうツイーディア王国ができるより――アンジェ達が生まれるより、さらに前までさかのぼる。赤目と呼ばれた男と、村一番の強さを誇る青年が戦ったという伝承があるのさ。」
「赤い瞳の男が敵役だと?」
「その通り。彼は最期、村人達への怨嗟を吐きながら死んだ。だから赤目持ちは彼の転生ではないか、意思を継ぐ者ではないか……そんな事で容易く迫害が起きるんだ。瞳の赤い子供を産んだ親は子を殺して事実を隠すか、最低限の食事だけは与えるとか、暴力暴言もよくある……まぁ、自分達ごと虐げられても子を大切にするという者は少ない。」
シャロンとダンは話の内容に眉を顰めつつも黙って聞いている。
カレンやホワイトも、もし君影国に生まれていたなら忌み子と呼ばれたのだろう。
「ともかく、エリの事はあまり心配してないんだ。」
「最近どうされているかはご存知ですか。」
「いいや、何も。――仮に君が何か知っていたとて、私に全て伝える義務はないよ。シャロン」
「……死の危険があっても?」
仮面の奥を見据え、シャロンは静かな声で聞いた。
アロイスの微笑みは僅かにも崩れない。
「その域なら、君はそれほど悠長にしていないだろうね。」
確信を持った声にシャロンは小さく息を吐き、数秒の間目を閉じる。良く言えば信頼を得ていて、悪く言えば見透かされていた。
賊の目的が貴族の青年なら、邪魔なエリはその場で捨て置くのが一番楽だったはずだ。
それを気絶させた彼女もまとめて連れ去ったあたり、少なくとも即座に殺される可能性は低いと思われる。ヴェンは後を追っているだろうし、騎士団も動いていた。
「…妹様を放っておいて、よろしいのですね。」
「少なくとも私は、あの子がただか弱いだけとは思っていないよ。なに、きっと乗り越えられるだろう。」
「わかりました。」
アロイスが自らそう言うのなら、ウィルフレッドが教えてくれた話を勝手に漏らしてまで伝える事もないだろう。もし「知りたい」と言われれば、アロイスと連絡が取れる事実を王子達に話して良いならと返すつもりだった。
シャロンはエリの話はここまでと決め、紅茶のカップに指をかける。
「そういえば、君はホワイト先生に弟子入りしたんだってね。」
「もう街にまで広まっていますか。」
「学園の先生がたは街でも有名人だからね。色んな風に聞こえてきた。」
「…そうでしょうね。」
紅茶をこくりと飲み、やや困り顔のシャロンは苦笑してカップをソーサーに戻した。
これまで浮いた話のない公爵家次男に筆頭公爵家の令嬢が弟子入りしたのだ。真面目なことであっても、どうしても色眼鏡で見て噂する輩も出る。
アロイスはシャロンから目を離し、苦いコーヒーをすいと喉へ流した。
――弟子入りは国王が訪れてすぐだった。そこまで突っ込んだら流石にこの子を警戒させるな。能力がバレたのか、自覚したのか、関係ないのか、それはわからないけど。
「すごく良い選択だと思うよ、シャロン。ホワイト先生と君は相性が良いんじゃないかな。」
「先生の事はよくご存知なのですか?」
「何年かいる先生なら、少し街の人に聞けばあれこれとエピソードが出てくるものさ。私が言うのもなんだが、独特な人だろう?君なら大丈夫そうだと思ってね。」
「独特…ではありますね。確かに。」
片頬に手を添えたシャロンが呟き、黙って控えているダンもしっかりと頷いた。
アロイスの真意は「スキルの相性が良い」という事だったが、それを明かす気のない彼はにこりと微笑んでいる。
――第二王子に憑いた魂が、私の予想通りの相手なら。赤目持ちがいるに越した事はない……特に突然の状況でも冷静に判断ができる者、覚醒済みかそれに近い状態の者が望ましい。ホワイト先生がいるのは本当に僥倖だった。
あるいは、これもまた運命かもしれない。
そう思いながら、アロイスは暗闇の奥で目を細めた。
「師からよく学ぶといい、シャロン。いざという時も、彼ならきっと守ってくれるだろう。」




