407.確かな親愛を込めて ◆
『ルーク』
久方振りに聞いた姉上の声は、ひどく弱々しかった。
ベッドの上で身を起こす事すらできず、辛うじて開いた唇から漏れるその声が消えないよう、壁際に立つ近衛達は息を潜めている。
『来て、くれたのですね……』
おれなどの来訪を喜んで、姉上は微かに笑った。
長い黒髪も肌も変わらぬ艶があり、瞳の青色も変わりないはずだが、今にも消え失せてしまいそうだと感じた。
布団の上で指先だけ浮いた細い手を、少し考えてから握る。あまりに軽いそれが恐ろしくなり、自分が一瞬手を放そうとした事に気付いた。
知識が告げている、姉上は長くない。
見ればわかる、姉上は自覚している。
来てようやく気付いた。
おれは、あなたが死ぬのが怖い。
『……申し訳ありません。おれが』
『…ルーク…』
『おれが、居たのに――…』
軽く叩いたとすら言えない、ただおれの手のひらを少し押すだけの動作。
幼い頃のおれに何か言い聞かせる時、姉上はよくこうして繋いだ手を握り直していた。こんな些細な力ではなかったが。
おれの、血のような瞳を見つめて。
『……貴方のせいでは、……ないのですよ。』
何を言えばいい。
死の淵にあって猶おれを気遣って笑うあなたに、何を言えば、どうしたら、少しでも返せるのか。
時間が無かった。
もうしばらくあれば、シャロンは《効果付与》した薬の作成に充分な実績を積めたはずだ。姉上に献上しても問題ない程に。あなたをずっと悩ませていた体質も、きっと…。
だがあいつが殺された事でそれどころではなくなった。
『ああ……この身が、憎い。』
『…姉上』
『可愛い弟を……抱きしめる、と、さえ…できないの、ですから。』
治癒の魔法も、おれの薬学も、何の役にも立たない。
姉上はこのまま衰弱して死ぬだろう。
義兄上は毎日見舞っていると聞いた。
弱っているために義兄上を見ても身体に負担がかかるほどの気力が起きず、元気だった頃より余程普通に話せているらしい。皮肉なものだ。
兄上も仕事の合間に顔を出しているらしい。
父親の方は知らないが、来てはいないだろうという確信があった。身体の弱い姉上を「マリガン家の仕事ができない役立たず」と言った事は、知っている。
そしてリラにいたおれは、今更。
今更、やっと顔を出して……恐らく、姉上が死ぬ時ここにはいない。これが最後になるだろう。
『……あなたに、何も返せない。』
『…何を、言うのです…』
『――…あなたがいた事で、おれは何か…与えられたと思う。受け取ったと思う。だが、同じだけの何かを返せていない。』
こういう時は本来泣くのだろうと思うが、泣き方がわからない。
きっと、正しく悲しめていない。
知識として理解している、あなたが死ぬ事実は変えられない。
足掻いて変わるなら試してみるが、これは変わらないのだから、どうにもならないから、受け入れている。
あなたが死ぬまで傍にいるなどとほざくつもりも一切ない。
思考は合理的に学園へ戻る判断を下していて、それで正しいと理解している。冷たい奴だと後ろ指を指される事もわかっている。
だが、それがどうしたと言うのか。
おれがここにいて姉上の命が延びるわけではない。
『……あなたがいなくなる事は、嫌だと認識している。嘘に聞こえるかもしれませんが。』
姉上はほんの僅か、顔を横に揺り動かした。
おれの言う事を信じるらしい。涙の滲まない目を伏せ、あまり温度を感じない手を放す。これ以上いても無意味と考えて立ち上がった。
別れの挨拶すら、どの言葉を使うべきかわからない。おれが横へどくと、姉上はようやく後ろにいたシャロンに気付いたようだった。微かな声で名を呼んでいる。
『はい。……こちらにおります。王妃殿下』
隣に進み出たシャロンが深く礼をし、顔を上げる。
姉上がほんの僅か浮かせた手を迷いなく取り、小さい両手で包んだ。不敬だと咎める者はいない。恐らくこの娘が次代の王妃だと、部屋にいる誰もが考えていただろう。
『どうか……あの子を、頼みます。…わたくしの、分まで……』
『お支えします。必ず……父と共にこの国を、殿下を守ります。』
『――…ありがとう……』
殆ど吐息のような声で礼を言い、姉上はゆったりと瞼を下ろした。
目を閉じていく中でおれに瞳を向け、微笑んだように見えたが……実際はどうだったのか、わからない。近衛が静かに駆け寄って姉上の呼吸を確かめ、安堵の息を吐く。
眠っただけだ。
今は、まだ。
『……行くぞ。』
『はい』
おれは結局、別れを言わないまま姉上の部屋を出た。
騎士に誘導されて廊下を歩く。
こちらを見た城の者達が立ち止まり、硬直して物を落とし、あるいは足早に立ち去った。
ああ、おれのせいか。
背丈があり、髪色は不自然で、瞳が赤く、無愛想で、正装もせず帯剣しているからだ。
気付くのにしばらくかかった。
ため息を吐いて首元に下げていたゴーグルをつけると、斜め後ろを歩くシャロンの視線を感じた。どうしたのかと黙って振り返れば、いつも通り「先生」と呼ばれる。こいつは昔から、ゴーグルがあろうとなかろうと変わりなくおれの目を見る。
『もしよろしければ、屋敷の薬草畑を見てくださいませんか。私の弟子入りを聞いてすぐ作り始めたそうなのです。』
『……わかった。』
『ありがとうございます。』
そう言われてアーチャー公爵邸まで来たが、畑を軽く見て相談に乗った後は、花々の咲き誇る庭をシャロンに案内された。
ガゼボには準備済みのティーテーブル、使用人は橙色の髪をした侍女が遠目に一人立っているだけだ。おれ達が席について、ポットから紅茶を注いだのはシャロンだった。
『ホワイト先生。少しゆっくりしましょう』
『構わないが、なぜだ。』
『お疲れのように見えます。とても……とてもです。どうか、楽になさってください。無遠慮な視線も他人の声も、仕事も抜きにしましょう。今すぐ戻って作業なさったら、きっとお身体を壊します。』
『………そうか。』
疲れたという認識は無かったが、日頃から、おれの体調については弟子の方が詳しい。
ネクタイを緩めてゴーグルを下げ、帯剣ベルトを外した。音を立ててガゼボの石床に落ちたそれをシャロンは整えたそうに見やったが、立ち上がる事はなかった。
紅茶に口をつけると存外、喉が渇いていたと思い知る。
食道を流れて胃に染みる温度を感じながら脚を組み、背もたれに身を預けた。シャロンはこちらを観察するでもなく、まだ明るい空を眺めている。
腹の前で手を組んで目を閉じ、息を吐き出した。
……疲れた。
ああ、確かにそうだと理解する。
疲労感が押し寄せた。王都への移動も、久方振りの登城も、大した事はなかったはずだが。それなりに身体を作っているおれより、こいつの方が疲れて………やけに、重い。深く沈むような心地だ。なぜなのか考えようとして、やめる。そんな事はどうでもいい。
風が草花を揺らす音がする。
瞼の裏で、姉上は微笑んでいた。
もう二度と、会う事はない。
目が覚めた時おれには毛布が掛けられ、空は薄暗かった。
弟子は変わらずそこにいて、真剣な顔で本を読んでいる。
手を伸ばして自分のティーカップを取ると、文字を辿っていた瞳がおれを見た。少し前に淹れ直されたのだろう、飲まれた様子のない紅茶はまだ温かい。組んでいた脚を解き、紅茶を飲み干してカップを置いた。
『おはようございます、先生。』
『…おはよう。』
皿に乗っていたクッキーを口に放り込む。
シャロンはポットに残っていた紅茶をおれのカップに注ぎ、静かに座り直した。
転寝のせいか身体が少し固い。
疲れは当然残っており、胸の内は空虚で軽く、頭が冴えていた。
『――おまえを連れてきて、よかったと思っている。』
微かに湯気が昇る紅茶に目を落とし、独り言のように呟く。
シャロンが静かに本を閉じた。
『心が弱った者に対して、おれは上手い言葉がわからない。何を言えばよかったのか…』
『……先生のお心を、王妃殿下はわかっておられたと思います。』
『なぜだ。』
『…いなくなる事は嫌だと、そう認識していると仰いましたね。……あれは貴方だからこその、確かな愛情の言葉だったと思います。』
シャロン・アーチャーは穏やかに、そう言い切った。
おれは眉間に皺を寄せた事を自覚する。
『あれがか。』
『えぇ、あれが。』
『……おまえは、そう思うのか。』
『はい。』
『…あんな、』
拙い言葉で、半端な言葉で。この胸にある、まとまりのない何かが。
伝わった上で姉上は、おれが嘘を言っていないと……信じると、示したのだろうか。
『………こういった件に関して、おれに真実はわからない。おまえの言うことが正しいという証明もない』
『そうですね。』
けれど先生、とシャロンが続ける。
まだ薄暗いだけの空には、早くも星が見えていた。
『私がそう思ったという事実は、覚えていてくださるでしょう。』
少し、考えた。
忘れるだろうか、姉上と最後に会った今日のことを。
覚えていられるだろうか、エリオット様の庭でシャロンが言ったことを。
『人間の記憶に絶対は無いが、忘れにくい事柄ではあるだろう。』
おれの弟子は、「先生らしい答えですね」と笑った。
そして忘却に関連して自分が好きな花の話を始め、学園を卒業したらこの庭で育てたいと言う。
『勿忘草か…』
『父の領地で女神像が見つかったこと――先生もご存知だと聞いています。そこに群生していて……私にとってあれは、大切な思い出の花なのです。』
『そうか。』
『もしよろしければ、先生と王妃殿下の思い出を聞かせてくださいませんか。人の記憶に絶対は無くても、いつか忘れてしまうとしても……その日を遠ざける事は、できるでしょうから。』
『……確かに、おまえの言う通りだ。』
老いて記憶を失うならおれが先だろう。
取り立てて隠すような事もない。紅茶を一口飲んでから、おれはゆっくりと過去を振り返った。
シャロン・アーチャー。
墓石には見覚えのあるサインが綴られている。
おまえがおれより早く死ぬとは、あの頃誰が予想できただろう。
『……悪い、血がついた。』
勿忘草の花束を見下ろして呟いた。
返り血が飛ばないよう気に掛けるという発想がなかった。考えれば当然の結果だが…既に乾いたそれは、袖を押し付けても拭えない。
代わりはないのでそのまま墓前に供えた。許せ。
呆れたように苦笑する姿が目に浮かぶ。
『大体、片は付いたと見ている。』
失ったものは大きいが、ツイーディアは少しずつ立て直していくだろう。
国は守られたと、そう言って差し支えない。
兄上はおれが手を汚さぬよう願って殉職したそうだが……結局、父親とその部下を殺したのはおれだった。兄上の娘が学園を卒業する前に。
だがおれが動いた事はどうも、一部の者にとって脅威だったらしい。
誰の手先とも知れない奴が未だ、こうやって命を狙いに来る。今のところ弱い者ばかりで、追い払うなり牢へ放り込むなりできているが。
『………。』
黙っていると供えた花が風に揺られ、青い花弁が一枚だけ地面に落ちた。
相変わらず、言うべきことがわからない。
わからないが……それでも、この胸にあるまとまりのない何かを。
笑顔も何もない、ただ名が刻まれただけの石を見つめて呟いた。
『おまえがいなくなったことを――残念に思う。』




