396.どこかで何かを間違えて ◆
鮮血が飛び散った。
決着だ。
彼はもう戦えない、それは明らかだった。
でも床を転がって倒れたイドナは、まだ剣を握っていて。それだけの想いがあってここまで来たんだって痛いほど伝わってくる。
けど……ッ!
たまらない気持ちになって、私は叫んでいた。
『お願い、もう諦めて!アベルを倒しても貴方の家族は…!』
止まってほしかった、これ以上傷付かないでほしかった、傷付けないでほしかった。この国は、アベルは戦うしかなかったんだとわかってほしい。
でも、城から遠い地の民に、そんな事情は伝わらないって事もわかってた。私だって、皆に会わなければ……アベルの傍にいなければ、同じように責めたかもしれない。
『わかってる!誰も戻ってこないし、誰も望んでないんだ。俺が、文句を言いたかっただけで…』
俯いたままそう零して、彼はふらりと立ち上がる。
これ以上は失血で死んでしまう。私はイドナを取り押さえようと足を踏み出して――剣の握りがおかしい事に、振り上げた刃の先に気付いて目を見開く。
到底届く距離じゃないのに、手を伸ばした。
「駄目」と叫びたかった私の声は、間に合わないと察した瞬間出なくなって。
まるで夢の中みたいに全てが遅くなる。
届かない。届かない――…届かなかった。
『ぐ、ぁ……』
『あ――…ッ、嫌ぁあああああ!!』
どうしてだろう、どうしてだろう。
人が敵が味方が死ぬところだってたくさん見てきたのに、私は今更、戦いを知らない女の子みたいに悲鳴を上げていた。
イドナは、自分の胸に剣を突き刺して。
やめて、死なないで。赤い水溜まりにその身体が倒れ込む。嫌だ、嫌だ!
『――何をしている!!』
アベルはイドナのもとへ駆け寄り、傍らに膝をついて抱き起こした。
貫通した剣から血が滴り落ちている。
ポタポタと鳴る小さなその音が、戦争を止められずただ勝つしかなかった私達を責めている気がした。
勝つ事でしか、多くを守れなくて。
戦わないと、国を守れなくて。
どうすればよかったの。
『ごめ、ん…姉上……父上、ははう、え……』
涙を流すイドナは焦点の合わない目で家族に謝って、動かなくなる。
私は嗚咽が漏れそうな口を押さえて、ぐっと唾を飲み込んで目元を拭った。情けない顔は見せたくない……ふらつきながらも、アベルのもとへ数歩近付く。
絞り出した声は少し掠れていた。
『アベル、彼は…』
『間に合わなかった。俺の責だ』
どうしてそんな事言うの?
違うよ、私が行くべきだった。
アベルが彼を抑えてくれた時に私が、すぐ動いて拘束しなきゃいけなかったんだ。
私を責めてよ。
イドナを殺さずに止めようとした貴方の気持ちを、守れなかった、私を。
……隊長達は、革命軍の幹部を捕えてくれただろうか。
家族を傷付けられて失って、だからって沢山の人を傷付けただろうイドナは、もういない。
後悔に歯を食いしばって遺体を見下ろしていると、イドナが淡く光に包まれた。
何が起きてるのかと思った時には、光がおさまって――…
『そんな……』
血の気が引いて、私は膝から崩れ落ちた。
アベルが抱えているのは、赤髪の革命軍なんかじゃない。イドナなんて名前じゃない。
銀髪の、まだ十二歳の男の子――……
『ぁ……あぁ、ッ』
唇が戦慄いて嗚咽が漏れる。
死の瞬間、どうして自分があんなに動揺したのか、どうして悲鳴を上げたのか、わかった。
何でこんな事になったかはわからない。
わからないけど、でも。
駐屯所の皆が必死に探してくれていた、私達の大切なシャロンの弟が、クリス君が、そこにいた。
ぴくりとも動かずに。
……気を、失ってしまいそうだった。
震える手を握り締めて、誤魔化して、私は役立たずの脚を引きずってアベルの傍に行こうとして、でも、動けなくなる。
彼は今、どんな思いで。
『……カレン・フルード』
アベルの――私達の皇帝陛下の声は、ひどく静かで、悲しくて、冷たくて。
何かを覚悟なさったんだと思った。
喉の奥が熱くなる。
『はい。皇帝陛下』
アベルの名前を呼ばなかった。
彼が、部下としての私を呼んだから。
動きたくないと、ずっとここで泣き暮らしていたいと叫ぶ心を、身体を叱咤して跪く。
アベルはクリス君をそっと横たえ、愛剣を手に立ち上がった。
鞘に納める事なく私を振り返る。
その目を見て理解した。
諦めてしまったのだと。
信じたくなくて目を見開いて、でも充分過ぎるぐらいに気持ちがわかって。
この時が来てしまった。
私は、たぶん知ってたんだと思う。このままじゃいつかそうなるって。
だってもう随分前から、アベルは疲れきっていた。
やりたくもない戦争をして、皆のために他国の兵を殺して。
ウィルが願った国の守りをずっとずっと頑張って、いつか次代を継ぐ誰かに託せるようにって、どんどん仲間が死んでいって……惨い殺され方もした。
ヴィクターさんとセシリアさんは、狂った拷問の果てに。
アベルを止めようとしたレベッカはあの後、バージル君と一緒にならず者に捕まって……失血死するまで痛めつけられた。
サディアスはアベルを庇って猛毒を受け、苦しむ彼を……そのままには、でき、なくて。
――アーチャー家秘伝の薬よ。どうか、これを持って行って。
ずっと私達を支えてくれた……シャロンも。
訃報を聞いただけで気絶しちゃった私は、詳しく教えてもらえなかったけど。遺体はかなりひどい状態だったっていう。
皆、そうしていなくなった。
アベルは私の前に、たった一人で立っている。
敵からさんざん「化け物」と呼ばれたこの目を、まっすぐに見つめて。
『俺に殺されてほしい。』
彼の声は疲れきっていて、でも……どこまでも真摯だった。
それを聞いて私が逃げたらどうするの?事前に聞かれてハイって言う人なんか、普通いないよ。頭の片隅でそう考えながら、私は。笑って茶化すことも、誤魔化すことも、できなかった。
だってアベルは自分を責めてる。
私に死んでほしいわけじゃない。
私を殺したいわけじゃない。
それでも殺させてほしいって、真正面から頼んでる。
『右腕として顔が知れたお前はもう、放っておいてもらえないだろう。だから、俺が……。』
お願い、アベル。
そんなに自分を責めないでよ。
大丈夫だから、わかってるから、貴方がどうしてそんなこと言うのかを。
国のために生きた貴方が、私という戦力を失ってでも、私を苦しめたくないと言ってくれたの。
嬉しくて悲しくてどうしようもなく愛しくて、微笑む私の頬を涙が伝った。
おかしいと、人は言うだろうか。
私の中には確かに幸福がある。
『わかった。』
精一杯明るく言って立ち上がり、アベルの前へ進み出て、ぐいと目元を拭う。
貴方に拭ってもらわなくても平気だって、伝えたくて。
まだ、覚えてるかな。
何もできなくてちっぽけだった私にさ、「やってみせなよ」って言ってくれたこと。断られると思ったのに、稽古をつけてくれたことも。
貴方がいたから私は強くなって、貴方に恋する楽しみも、愛する幸せも知った。
だからね、何も気にしなくていいの。
私は全部貴方のもの。
『いいよ、アベル。私を殺して。』
『……すまない。』
『謝らないで。私のためなんでしょ?気にしないで』
絶対無理だってわかってるけど、そう言った。
大好きなアベルの手が、剣の柄を固く握りしめている。
あぁ、彼はきっと一生自分を許さない。
私はひどい女だろうか。
貴方の望み通りにするようでいて、本当はただ、私という存在を忘れてほしくないだけかもしれない。
一緒に生きる道を望んでくれない事が悲しくて辛いと思うのに、「やっと特別になれる」なんて喜びを感じる自分もいる。
私は最後まで、彼女のようにはきれいになれなくて。
誇り高い貴方の瞳が、私を見つめていた。
そんなにつらそうな顔をしないで。
大丈夫だから。
『私ね、貴方が好きだった。一人の男性として…』
暗くて重たい話をしてたのに、私の一言でアベルは目を丸くする。
最後のイタズラに成功した子供みたいな気持ちで、私は「気付いてないと思った」なんて、強がって笑った。
……もっと早く、言う前に気付いてほしかったな!遅いよ!
『でも、』
いいの。
わかっていた、最初から。
『やっぱり敵わないね。』
アベルには、叶わないって聞こえただろうか。皇帝陛下を好きになった騎士の恋。
それとも今になってようやく――…失ってようやく、少しはわかったのかな。
私じゃ敵わないところに、貴方の心の広い場所に、誰かいるでしょ?
貴方はどうしてか、彼女の手を放したけど。
いかにも心苦しそうに目をそらされて、普通にショックを受ける。
自分で言い出したけど、私どうして死ぬ前にわざわざ振られてるんだろう。
あっ、結構つらいね、振られるのって……い、いつか絶対伝えたかったから、良いけど。全然っ、いいけど。
これから先、貴方が私を思い出したら。
私が貴方を好きだった気持ちも、思い出してくれるといいな。
そんな願いは心に秘めて、私はもうちょっとだけ強がってみせる。
『名前も知らない人に殺されるより、好きな人に殺される方がよっぽどマシ。だからいいの』
『…カレン』
『謝らないでね、アベル。』
先手を打って遮った。
この恋を拒絶されるようで怖かったのもあるし、私が怯えてるとか、不本意だとか思ってほしくなくて。
お願い、これだけは信じてほしい。
『私貴方といられて本当に幸せだった。』
傍にいられて、近くで支える事ができて、頼ってもらえて……あぁ、前が滲んでよく見えない。
最期の一瞬までずっと貴方を見ていたいのに。
どんなに辛くても悲しくても戦いが嫌でも、国を守るために。
頑張って頑張って走ってきた私とアベルの、これが結末なんだ。
私達は……どこかで何かを、間違えちゃったのかな。
――貴女なら大丈夫よ、カレン。……アベルをよろしくね。
ごめんね、シャロン。
私、泣き喚いてでも貴女を止めればよかった。行っちゃ嫌だって、ここにいて、って。
そうしたらもしかして、せめて時間が変わって。貴女が襲われる事はなかったかもしれないのに。
ごめんね、アベル。
私貴方の心を守りたかったのに、駄目だった。
……だめだったなぁ……。
この国を、大勢の命を守ってきた手が、さんざん私を助けてくれた剣を構える。
刃に反射する光を綺麗だと思った。
いつか見たシャロンの涙みたいに。
彼が剣を扱う姿は、動作は、目に焼き付いている。
足の向きが僅かに変わって力が入り、次に起きる出来事はもうわかっていた。
だから私は意識して姿勢を正す。
アベル。
貴方は私の人生の道しるべで、希望で、誇らしい主君で、何よりも大切な人でした。
私の可能性を教えてくれて、
ちっぽけな私を救ってくれて、
最後まで信じてくれて、
本当に
『『――ありがとう。』』
瞬いて涙がこぼれた瞬間、胸を刺し貫く痛みと近づいた距離の中で。
ひどく苦しい顔をしたアベルが見えて、私は思いっきり――…笑って、みせた。
胸が割られるように痛んで頭が重くなる。
体からずるりと引っ張られるような心地で。何も見えなくなる。
力強い腕が支えてくれて、たぶん、床にごちんってならずに済んだと思う。たぶん……だってもう、わからない。
私もう、戦わなくていい。
苦しまなくていい。
泣かなくていい。
……でも、アベルは?
本当にこれでよかったのかな。
私もっと、別の道を選べたんじゃ…
『 っカレン…どうして……何で、こんな……! 』
どこか遠くで、懐かしい声が聞こえた。
涙に濡れて、悲しみに震える、あの子の声。
お願い、泣かないで。
泣かないで。
ごめんね――…
《ゲーム》に不要な記録を削除しますか?
▶はい
いいえ




