392.サディアス・ニクソンの仰望 ◆
報告を終え、踵を返そうとした時だった。
『サディアス』
陛下が――アベル様が私を呼ぶ声に、その声色に、ぎくりとする。
心臓は嫌な音を立てて鼓動を早め、背中に汗が滲んだ。
あぁ、今…出会ってから初めて、
貴方の言葉を聞きたくない。
アベル様は、私の返事を待った。
ぎこちなく視線を上げた瞳が、握った拳が、喉が、唇が、心臓が、震える。
『……はい。』
何もかも決定事項だという顔で、とうに覚悟を終えた目で、貴方は私を貫いた。
『お前が俺を殺せ。』
嫌ですと、歯向かいそうな口を閉じる。
それでもこの目にはきっと、拒否の色が滲んだだろう。美しい金の瞳に睫毛の影がかかった。
『わかるな、ニクソン公爵。』
『……ツイーディア《王国》の…王位継承における特例、ですか。』
アベル様は瞬いて肯定する。
王家の、レヴァイン家の血が絶えた時。
初代国王エルヴィス・レヴァイン様の兄弟の血統である五公爵家のいずれかを、次の王家とする。そんな、未だかつて使われた事のない古びた法だ。
まるで立っている床が崩れ、奈落へと落ちていくような心地だった。
『必ずお前が継げとは言わないが、お前であれば良いと思っている。』
『……私、などでは……』
全ては貴方のためにと生きてきた私に、貴方は自分を殺せと言う。
私ならば命令を遂行すると、信じて託してくださっている。
リビーにはできない。
ロイなら納得しない。
『俺を悪とし、平和な王国に戻せ。』
『…それが……お望みだと……』
『近いうちに戦争は終わる。皇帝は不要だ、丁度いいだろう。』
『私は…陛下を悪とは思いません。』
辛うじて声を絞り出すと、アベル様は少し眉根を寄せて微笑んだ。
『俺の部下は皆頑固だ。……好きに思うがいい、お前の心の内ならば。』
対外的には悪とせよ、アベル様はそう言っている。
近くでお仕えしてきた私には……声や、表情の僅かな変化で。
今の彼が激痛と戦っている事がわかってしまう。
限界なのだ。
この方の身体はもう、あとどれくらい隠していられるかわからない。
シャロンのスキルをもってしても――否、彼女のスキルを真に活用する事はできていなかった。アベル様は、彼女に本当の事を話さない。尋常でない頭痛だけはシャロンの薬で緩和しているが、全身を襲う麻痺の発作、それは何も。
ナイトリー医師を呼び戻しても駄目だった。原因がわからない。解決の手立てもない。
何も。
私達は誰一人として、この方の未来を救えないまま。
情けなくも涙が滲みそうになり、瞬いた。
また発作がきたのだろう。アベル様はしばし目を伏せる。
『……アクレイギアはどうするのです。』
何か、引き留める理由を。言い訳を、条件を、何か、何か。
アベル様はどうという事もないように目を開き、ため息混じりに視線を宙へ投げた。
『ジークには話を通してある。俺がいなくとも手出しはしない……いや、余程の事をしでかせば放っておかないか。お前なら問題ないはずだ。』
『……』
『カレンに悟らせるなよ。お前はあいつに弱い』
『陛下』
『悪評は充分広めた。国民の大多数は賛成だろう。』
『アベル様っ!』
たまらなくなって名を呼んだ。
今、貴方の目に私はどう映っているのか。
正しい側近でありたかった。
何より信じられる部下でいたかった。
誰もが認める右腕になりたかった。
努力し続けてきたのは、そんな命令を受けるためではない。
『私は……貴方がいたから、これまで……』
視界が滲み、唯一の主君の姿が歪む。
心の奥底で幼い子供が悲鳴を上げた気がした。
『お前はもう、俺がいなくとも立てる。歩けるし、走れるだろう。あの部屋で蹲っていた時とは違う。』
『……どこを目指せというのです、陛下。貴方にお仕えする事だけを、お役に立つ事だけを考えてきたのに。』
『そう言うのなら、最後の願いと思って叶えてくれ。サディアス』
嫌だ。
貴方のためにできる最後が、貴方を殺す事だなどと。
馬鹿げている。矛盾している。許されない。許したくもない。
『俺はもうもたない。』
『――…っ!』
大の大人が情けなくも、恥知らずにも、国でもっとも貴い主君の前で涙を流す。
自分の身体の事は一番わかっていると、貴方は。
立ち上がる際にもふらついて、机に片手をつく。
あの、アベル様が。
信じたくない事を、とっくに――…そう、本当はとっくに、わかっていた。
膝に力が入らなくなり、私はその場に崩れ落ちる。
いずれ命令が下る事を理解していた。
助からないと察したら貴方はそうするのだろうと、貴方は、貴方は…
『いつから……わかっていたのですか。』
『最初からだ、サディアス。』
まだ半身が痺れるのか片足をひきずり、アベル様は机を支えにして私の前へ立つ。
ハンカチで強引に目元を拭い、眼鏡をかけ直して顔を上げた。
両膝をついた私の前に、アベル様が立っている。
まるであの夜のようだった。
――話すのは初めてだね。僕はアベル。君は?
『お前と出会った時には既に、俺はこれに侵されていた。』
『……そんな、』
『最初から、いつか壊れると知っていた。ウィルが死んだ事で、限界まで粘らなければいけなくなったが……本当はもっと早く、静かに消えるつもりだった。今ではそうもいかない、誰かが超えなければ。』
その誰かに、私を選ぶと。
見上げた金色の瞳は、私が了承すると信じている。私が瞬く度に涙が頬を伝って喉元へ落ちた。
『加減はできない。油断するな』
『……私が、どうやって貴方に勝てるというのです。』
『カレンのスキルを使え。できないようならどちらも殺すまでだ』
『っ……』
私一人ならそれでもよかった。
貴方をこの手で殺すくらいなら……
しかし、カレンを。
何の罪もない彼女を…私を支えてくれた彼女を、死なせる訳にはいかない。
『いいな、サディアス。離反の準備をしておけ』
嗚咽を漏らし、嫌だと首を振りたいのに振れない私は、それが最後に決めた事なら貫いて差し上げたいと思う自分に、とうとう流され、押し負けて。
ほとんど土下座のような体で床に這いつくばり、無様に泣きくれて受令した。
どこかで子供が泣いている。
『うっ…う゛うぅ、ぐ……』
『ありがとう。サディアス』
いやだよ
『お前の忠義を忘れない。』
あなたは、わたしをたすけてくれたのに。
どうしてそんなことをいうの。
いやだよ。
ことわってよ、ねぇ。
『アベル様、私は…ッ私は――…』
肩に触れてくださった手へ、自らの手を添えて。
見れたものではないだろう酷い顔を上げ、透明な涙の向こうに、輝かしき星を見る。
『貴方の道は間違っていなかったと、それだけは……!これから、何があっても。たとえどんな結末になろうとも、この胸に。……私の主君は、未来永劫。ただ一人です。』
アベル様は黙ったまま、少しだけ手に力を込めた。
私の意志を覚えていてくださると、そういう意味だと理解した。
殺さなければ。
対外的にきちんと、そう見えるように。
カレンと共に城を離れ、準備を整えて、騎士団と秘密裏に情報共有しつつ、時を待つ。カレンに真実を言えない事は心苦しかったが、知れば彼女は全力で私を止めるだろう。
中途半端な事をするわけにはいかなかった。
万一にもアベル様が先に病で倒れては、ツイーディアは危険に晒される。
計画は順調なはずだった――…いや、順調だ。
シャロンが殺されたとて、支障はない。
ただ少し日が変わっただけだ。
カレンが連日魘されて療養する間に、私は騎士団から情報を受け取った。
シャロンには、デュークがついていたはずだ。
アベル様が特に信を置く騎士の一人だ。彼がただの賊に負けたとは思えない。それに、シャロンには他にも公爵家の護衛がついていた。
果たして何が起きたのか、私は知る必要が……
………シャロンの、死に、ついて。
どう、言葉を、感情を整理すればいいのか、わからない。
口にしたものを幾度吐いたか、わからない。顔色が悪いとカレンに心配されたが、ただの貧血だと押し切った。
言えるわけがない、知らないままでいてほしい、貴女はこれ以上、何も、知らないままで。
『馬鹿な』
それだけ、呟いた。
あまりの事に思考が追い付かない。
神などいない、わかっている。
わかっているが、どうか誰か、何かの答えをくれないか。
シャロンに、そんな死に方をしなければならない業があっただろうか?
……手が、勝手に震えている。
私にとって彼女は間違いなく友人であり、主君を支える仲間だった。私自身も、カレンも、幾度助けられたかわからない。
カレンに譲られた妙薬は明らかに、アベル様の真意を理解した上で託された物だった。
どうして、なぜ、彼女が殺されねばならない?
シャロンの命を絶ったのはデュークの剣だった。
彼はよりによって、アベル様から賜った剣で彼女を嬲り殺したのだ。信じられない。あのデュークがなぜ。
騎士達が着いた時には既に、姿を消していたという。まだ捕まっていない。なぜ、なぜ。
目の前で姉を拷問されたクリスは発狂し、治癒に回す体力がすり減って消えるまで暴れ続け、糸が切れたようにバッタリと死んだらしい。
アーチャー公爵は正体不明のスキルを受け、自ら夫人らを殺害。副団長ベインズが重傷を負いながらも彼を討ち取った。
何が起きている。
私の頭が事態を整理するより早く、滞在していた町に速報が飛び込んだ。
アベル様は同盟国へ進軍し、たった一夜にして王の首を刎ねたらしい。
今日届いたという事は、何日前の情報だろう。
「本当に変わっちゃったのかな」と呟いたカレンを否定したかったが、私は、命令のために。「誰かが止めねばなりません」と、「私はあの方に仕えた者として、私自身の手でお止めしたい」と、言わねばならなかった。
ああ……反吐が出る。
騎士団の情報などなくとも私は、おおよそ、そういう事なのだろうと察しがついていた。
あの方は今どれほど傷ついているのだろう。
察するに余りある事だった。
宵闇に紛れ、透明な水の鳥が文を抱えて飛来する。
アベル様が呼んでいた。
心の奥底で「嫌だ」と叫んでいた私を変えたのは、確かにシャロンの死であったのだろう。
貴方はもうどれだけの苦痛を飲み込んできたのか。
国のために、いなくなった兄のために、
どれほど。
……解放されて欲しいと、願ってしまった。
だから私はここにいる。
カレンのスキルを頼ってなお劣る剣を振るい、必死に頭を働かせ、魔法を幾度も打ち消し合って、貴方を殺す事を考えている。
私が終わらせなければならない。それを望まれたのだから。
終わらないでほしい。それまで貴方はここにいるから。
目の前が滲んで瞬いた。
魔法の発動には視覚が要る、命令を受けた日のような無様を晒すわけにはいかない。
雫が頬を伝う代わり、視界が鮮明になった。
ずっと追い縋ってきた星の姿が見える。
『――我が敵を貫け!』
この一瞬を、忘れない。
まだ腕を上げる事が、魔法を使う事ができたはずのアベル様は。
主君を「敵」と呼んだ私を見て、ほんの僅か眉を下げる。
唇は薄く笑っていた。
私達が忠誠を示す度に貴方が見せた、少し困ったような微笑みだった。
ああ、覚えていてくださったのだと。
再び滲む涙を風が攫う。
炎と血の赤はどうしてか美しく貴方を彩り、愚かな私に終幕を告げた。
『犠牲の上に成った平和です、これは。』
空は青く澄んで晴れ渡り、ツイーディア王国はここに在る。
アベル陛下がいなくなった事を国民の多くは祝福し、騎士団を始めとした真実を知る者達は、人知れず喪に服していた。
静かに同意する声を後ろに聞きながら、私はバルコニーへ出て白い手すりに触れる。
ご遺体は事前の手筈通りに騎士が回収し、アベル様は今、ウィルフレッド様の隣にいた。
知れば抗議する民もいるのだろうが、どうせ王家の墓は限られた者しか入れない。些細な偽装であの方が静かに眠れるのなら、容易い事だった。
『……私達は、この数年で本当に多くのものを失いましたね。学園にいた頃が懐かしく…ひどく、遠いように思える。』
不思議と心は凪いでいた。
私は確かにアベル様をこの手で殺した大罪人であり、あの方の願いをまっとうした者でもある。
後を託された。
そう考えていれば、それだけを軸にしていれば、立っていられる。
私は託された。
ならばまだ、アベル様の命令は続いている。
敬愛するあの方のためにこそ、私はこれから、国のために在ろう。
胸の奥にどろりとした悔恨が残っていた。
救えなかったものがあまりに多く、大きく、重たく、存在している。
自嘲気味に微笑んで、妻となる女性を振り返った。
『共に進みましょう。……命尽きる、その時まで。』




