387.望まれぬ迎え人
ぽかんと口を開けて、ネグリジェに身を包んだエリはふかふかのベッドに寝転んでいた。
風呂上がりにきちんと乾かされた黒髪は艶やかに広がり、蜂蜜色の瞳が広い客室の天井を見つめる。
ツイーディアの城へ泊まっていた頃はこれでも狭いくらいだったが、すっかり宿の生活に慣れた今では、豪華過ぎて少々落ち着かない。
髭面の商人ブルーノに連れられ、護衛のヴェンと共に訪れたセンツベリー伯爵邸。
ヴェンの瞳を見た侍女の一人が「ヒッ」と声を上げて退室させられた以外、さして問題なく三人は迎え入れられた。
落ち着いた物腰の伯爵夫人がもてなしてくれ、今年で四十歳だという伯爵が仕事から戻って晩餐を共にする。懐刀を見せてほしいと言ったエリに、彼は快く美術室に置かれていた木箱の中を見せてくれた。
間違いない。
兄――アロイシウス・フェルディナント・バストルの懐刀だ。
『もう三年前になる。』
伯爵は旧友を懐かしむように目を細めて顎を擦った。
この屋敷で五年ほど働いた男が辞める時、「金では受け取って貰えないだろうから」と置いていったのだという。換金すれば相当な額になるだろうが、伯爵はいつか帰ってきた時に返したいと思っていた。
『そ、その男は誰じゃ!名は!』
『フェル・インス。』
『――…フェル?』
『ああ。先代……私の父が病になってこちらへ呼んだ時、一緒に連れてきたんだ。友人の息子らしい』
ツイーディア王国の人間だと聞いてエリは肩を落とした。
しかし、それならなぜその男は兄の懐刀を持っていたのか。
伯爵はどこか悲し気な顔で笑った。
『ブルーノさん、聞いてくださいよ。親父があいつを連れてきたせいで、俺…私は可愛い娘から、「しょうらいはフェルとけっこんするの」、なんて言われる羽目に…っ!』
『なんだ、泣いてやがんのか?ったく情けねぇ坊主だ。』
『そのような戯け話はよいのじゃ!』
『伯爵。感傷に浸られているところ恐れ入りますが、フェルとやらはどのような人物で?』
『ああ…中々面白い奴でね。あいつがいると、さっきまで喧嘩してたような連中でも何でか気が抜ける。父が亡くなった時、私は引き留めたが……行ってしまったよ。』
当時、伯爵の娘は学園の一年生だった。
祖父の葬儀には何とか出席したもののとんぼ返りせざるを得ず、フェル・インスが去った事は手紙で知らされた。父のもとには大抗議の分厚い手紙が届いたものである。
『足取りはわからぬのか……では、どこでこれを手に入れたかも、』
『それが、つい最近娘と再会したようでね。』
『なんじゃと!?』
『たまたま――…いや、本当に偶然か?私の目を盗んで密会するための高度な痛ッ!!』
『おめぇもっとしっかりしろ、センツベリーの名が泣くぜ。』
『ああ、失礼。』
ブルーノに叱責されて気を取り直し、伯爵はフェル・インスの所在を《学園都市リラ》だと告げた。エリとヴェンは目を丸くする。
『アベルが今いるところではないかッ!!』
『エリ様!』
『へっ!?あ、いや今のは…』
『……ブルーノさん、貴方もしやとんでもない貴人を連れてきました?』
『ハハハハ!さぁな。』
エリ達が焦った様子から、同名の別人ではないと察したのだろう。
この国の第二王子を呼び捨てにし、相当な額になるだろう懐刀を「兄の物」と言い、忠誠心もありそうな大男を従えた少女。
考えるのはやめよう。センツベリー伯爵はコホンと空咳をした。
『…フェルは今、コールリッジ男爵が運営するユーリヤ商会で雇われているそうです。リラの市場に支店がありますから、そこで会えるかと。』
『わかった。その者に会えば、きっと兄様に……。』
『外見をお聞きしても?』
『変わってなければ長い黒髪に黒目、ブルーノさんや貴方みたいな分厚い身体つきじゃない。…そうだ、私がやったサングラスをまだしてたと手紙に書いてあったな。』
『さんぐらす?……これか。』
エリが王都で手に入れたハート型の物をひょいとかけてみせる。
伯爵は微笑ましそうに笑って「形は違うが、そうだな」と言った。
『あいつたまに、眩しそうに渋面してる時があってね。プレゼントしたらえらく喜んでたよ。つけたり外したりして、凄いだなんだって驚いていた。』
『……驚いておったか。ふむ…』
『さきほど、面白い男だと仰っていましたが…妙な行動をとる事はありましたか。』
『妙って程じゃないが、知らない草っぱ見るとやたらはしゃぐような奴でな。何度注意しても勝手に食うもんだから、屋敷には解毒薬だの胃薬だのを置くようになった。』
『『………。』』
エリとヴェンは黙って視線を交わした。
二人に背を向けている伯爵は懐刀を納めた箱の蓋を戻し、振り返る。
『君達は、これを持っていきたいのかな。』
『そのつもりであったが……どうやらそれは、このままで良いようじゃ。』
エリは深く息を吸い、静かに吐き出して姿勢を正した。
不思議そうに瞬く伯爵の目を見据え、
『そなたに感謝を。』
君影の姫として、アロイスの妹として、頭を下げる。
ヴェンも頭を下げ、エリが顔を上げるのを待ってから姿勢を戻した。ブルーノが口角を上げて聞く。
『リラに行くか?嬢ちゃん。』
『うむ。道は定まったようじゃ』
今夜の回想を終えて、エリはごろんと寝返りを打った。
窓ガラス越しに見える真っ黒な夜空には、沢山の星が輝いている。
――…兄様は、《眼》を失ったのじゃろうか。それともアベルが言ったように、術で隠しておるのか。
兄の姿を思い浮かべた。
首と両手首に枷を嵌められ、それら三つが長い鎖で繋がれている。動く度にじゃらりと鳴って、銀の簪がしゃらんと鳴って、ひどく歪な合奏のよう。
顔にはお決まりの猫面がつけられて、エリがじぃっと見上げた先に兄の目は見えない。闇があるだけで。
「……ヴェン。」
身を起こして呼ぶと、部屋の扉の向こうから「何でしょうか」と声がした。
このままでは少し遠い。
ベッドを降りるとネグリジェの裾が足首をくすぐる。伯爵の娘が小さい頃に着ていたお下がりだ。
ととと、と駆けて扉を背にし、ぴょんと座り込む。話がしたいと呟けば、廊下側でヴェンが膝をついたらしき衣擦れの音がした。
「兄様は……国に戻れないと思っているのではなく、戻りたくないと思っておるのかもしれぬ。」
私は谷間には戻らない。
唯一寄越した手紙でそう語った兄は、エリを心配させまいと強がったわけではなく。
色々忙しいというのも本当で、エリが何を言ったところで、国に帰ってはくれないのかもしれない。
「…ツイーディアは広いな。人が沢山いて…街の様相もあちこち違って……海の向こうにまで、土地がある。」
アロイスに鎖をつけようとする者はいない。
化け物と呼ぶ者はいない。
「兄様を連れ帰ってみせると飛び出したが…金の簪を今こそ兄様にと、思うたが……」
小さな膝を抱えて、エリは背中を丸めた。
君影に戻る事は果たして、兄にとって幸せなのだろうか。
――もう平気じゃと、帰ってきて大丈夫じゃと、言いたかった。
望まれていなかった。
本当はとっくにわかっていた。
けれど諦めたくなくて、足掻いて。
兄は少なくともこのセンツベリー伯爵家で、大事にされていたのだと知った。
「わらわが行っても、兄様には邪魔なだけかもしれぬ。」
「そんな事はありません。」
「アベルが手紙をくれた時、とんと諦めておればよかったのじゃ。」
「……貴女が諦めなかったから、俺達はアロイス様に会えるんです。」
「文は優しかったが…押しかけては、嫌がられるじゃろうか。」
「あいつは」
語気を強めたヴェンが口を噤む。
主従としては誤った言葉遣いだった。
しかし今、従者として護衛として、一線を引いた言葉のままで良いのか。
それでエリは納得するのか。
数秒の沈黙の後、ヴェンは口を開いた。
「――…ただの、友として話します。あいつはそんな男ではない。」
「……うむ。そうじゃな」
生まれてこの方十六年、一緒に過ごしてきたのだ。
エリとてヴェンの考える事などわかっている。敢えて今、素で語ってくれた事が嬉しかった。苦笑したところで、扉を挟んで背中合わせでは、見えやしないけれど。
丸めていた背を伸ばして顔を上げる。
「すまぬ。少しばかり気落ちしていた」
「お気になさらず。」
「……もし、兄様が戻らぬなら……このままとは、いくまいな。」
「…なにがしかのお覚悟は必要かと。」
「ふふ、億劫な事じゃ…」
憂鬱に目を伏せ、エリは深く息を吐いた。
内巻きがかった艶やかな黒髪が、膨らんだ胸元へさらさらと垂れる。長い脚を伸ばせばネグリジェの裾が白い太腿をくすぐった。
女性らしい細くしなやかな腕を遠い窓辺へと伸ばし、手をかざしてみる。潤いのあるふっくらとした唇を薄く開き、けれど何も言わずに閉じた。
声を届けたい人はそこにいない。
八年前。
最後に見た兄は、月明かりの下で微笑んでいた。
エリが伸ばした小さな手を取ってはくれなかった。
留まらせるように、指先だけ優しく触れて。
『さようなら。どうか元気でいておくれ、私の可愛いエリシュカ。』
また会おうとは、言ってくれなかった。
窓へ届くわけもない手を下ろして、エリは自嘲気味に笑った。涙が頬を伝う。
「ヴェン」
「はい。」
「……ずっと傍で、わらわを守ってくれるな?」
「…お望みとあらば、この命尽きるまで。」
エリの声は涙ぐんでいて、普段と少しばかり違って聞こえるのはそのせいだとヴェンは考える。当然の事だった。
ぐす、と鼻をすする音が聞こえる。
「嫁をとる時は、ずびっ、わらわの心の傷を考えるのじゃぞ。」
「…とるも何も、赤目持ちの婚姻は禁じられております。」
「わからんじゃろ!この国のおなごが押しかけてきたら!よいからハイと言え、ハイと!」
背にした扉がガタガタと揺れた。
やけに力強いが、エリが腕を振るなどしてぶつかっているのだろう。
ヴェンは眉間に皺を寄せて頭を掻いた。ヴェンの強面を格好良いだの好きだの言うのはエリくらいだ。
「……嫁は、とりません。」
「なんでじゃあ!ふぐっ、ヴェンがしあ、幸せにならんとわらわが許せぬぅ~!!うぐぅうう!」
「…エリ様、一度落ち着きましょう。俺は結婚などしなくても――」
「おいおい、なに夜中に騒いでんだ…」
「その声はブルーノか!わらわは、ぐしゅっ、フクザツな女心ッ……ふうぅ、もう寝るッ!!」
部屋の中からドタドタと足音が聞こえ、どすんとベッドが軋む音が続く。あの小ささでそんな音を立てるとは、だいぶ勢いよく突っ込んだらしい。
厚い筋肉に覆われた腹をボリボリ掻きながら、ブルーノは立ち上がったヴェンに目を移した。
「おめぇよ、あの年齢に手ぇ出したら犯罪だぜ。」
「……手は出しませんが、エリ様は成人です。」
「嘘だろ!?」
ぼすん!
扉に何か投げつけられたようだ。用意された枕はそこそこ大きかったはずだが、怒りで力が増したのか。
ブルーノは「目ぇ覚めちまった」と言いながら首をひねる。
「女心ね……俺もわかる方じゃねぇな。マリーちゃんは例外だろうし。」
「………そうですか。」
「何だその目。ああ違うぞ、そういう店の女じゃない。息子の嫁だ」
「左様でしたか。」
「もう空に行っちまったが気の強い女でなぁ。結婚記念日だ誕生日だなんて、息子のがよっぽど覚えて……ほら、参考にならねぇだろ。」
こきりと首を鳴らし、ブルーノは「まぁ頑張んな」と言って去っていった。
ヴェンにとっては頑張りようのない話だ。
どうしろというのか。
二度瞬いて、ヴェンはひとまず見張りに戻った。




