376.歌は止み、笑い声が響く ◆
展望デッキのテーブル席で二人。
深刻な顔のロズリーヌと平然とした従者ラウルが向かい合っている。
「ラウル」
「はい。」
「わたくし昨日幸福にも……シャロン様達と共に、菓子作りに励みましたわ。」
「は?」
何を言っているのだとばかりにラウルが聞き返した。
緩くウェーブした緑髪は肩につかない長さで切られ、鼻は高く一見優しそうな目に桃色の瞳、甘やかな色気のある整った顔立ちをしている。
「菓子を作りました。わたくしが。」
「…曲はどなたが?」
「歌詞ではなくってよ!お菓子!ティータイムのお供っ!!」
「それはまた…好きなだけ甘くなさったのでしょうね。」
「……そっな事…あみまめんめもっ。」
ロズリーヌは痛そうに目を閉じて口元に手をかざした。
ラウルがまだほんのりと湯気の昇る紅茶を勧め、ロズリーヌが弱々しく頷いて一口分を喉へ流す。そうしてふうと息を吐き、ティーカップをソーサーの上へ戻した。
「まぁまぁまぁ、素晴らしい経験でしたわ!カレンちゃんやレベッカ、デイジーちゃんともお話しできましたし。」
「よく倒れませんでしたね。」
「最初こそ緊張しましたが何とか!何とか乗り切りましたわ!おほほほほ、わたくしも日々成長しているという事ッ!」
「おめでとうございます。作業は皆様で分担を?」
「いえいえ、わたくし達それぞれ別々に材料から生地を作って。あの、ピールと言うんですか?石窯にこう、天板を乗せる平たいやつ。あれもこの手でやりましたのよ!」
フンフンと楽しげに手振りを再現してみせ、ロズリーヌは頬にえくぼを作って笑う。
王女や貴族令嬢が調理場で自ら、火傷する恐れのある作業までやったのだ。ロズリーヌの父王や兄王子達が聞いたら仰天する事だろう。
連れ戻すと言い出しかねないので、ロズリーヌとしてはそこは帰国まで内緒にしておくつもりである。
「そうして出来上がった、あっっまやかなクッキー……!日頃、えぇ常日頃わたくしを支えてくれている貴方に。是非とも分けて差し上げたいと思いますわ。」
「……そうですか。」
ラウルが桃色の瞳を少し丸くした。
ロズリーヌが嬉々として食べつくしたのだろうと思っていたのだ。むにりと得意げに口角をあげたロズリーヌが、鞄に手を入れたところでぴたりと止まる。
「…それでね、えぇと……。」
「はい。」
薄青色の瞳がちら、ちらと右へ左へ動いてからラウルを見た。
スゥ、と深く息を吸ったロズリーヌの表情は深刻なものに戻っている。
「……ラウル。これは恐ろしい話なのですが」
「まぁ、聞きましょう。」
「えぇ、どうか聞いてくださいな。わたくし確かに貴方の分をきちりと分けておきましたの。大事ですからね、十枚はあったかしら。」
「沢山ですね」
「そうですわ!沢山、と思ったのに……」
その時の事を思い返してかロズリーヌの手がわなわなと震えだした。幽霊でも見たかのように目を見開き、ぐっと拳を握った王女殿下は泣きそうな声で悔しげに言う。
「なのに、見る度に一枚、また一枚と数が減って!」
「不思議ですね。」
「恐怖!もはや恐怖ですわ!お口の中は幸せなのにわたくし怖くって!」
「…何ででしょうね。」
「なぜだったのか…不明ですわ……そう。まったくもって原因は不明のまま……わたくしが守り抜いたのがこちら。」
きちりと姿勢を正し、ロズリーヌは小さな包みを鞄から取り出した。テーブル伝いに渡され、ラウルは黙ってそれを広げる。
少しもヒビのない丸型のプレーンクッキーだ。
「最後の一枚……貴方に差し上げます。」
「………、ふっ。」
神妙な顔つきの王女とたった一枚のクッキーに、ラウルは堪えきれず噴き出した。
口元に手の甲をかざしてくつくつと笑う。ロズリーヌがキョトンと目を丸くしているものだから、余計に笑いがおさまらなかった。
「なぁんで笑うんですの!?」
「だって、殿下。そんなめちゃくちゃ気を張って出してくる物ですか、これが。」
「貴方まぁそんな、最後の一枚ですわよ?最後の!」
「えぇ、えぇ。俺にくれるんですね、最後の一枚を。」
「そうですわ!ちょっぴりわたくしへの尊敬の念が足りていませんけれど、それでも貴方はこの異国の地で、よく仕えてくれていますから。それを与える事に決して……くっ、決して未練などッ……!」
ぎゅっと目を閉じたロズリーヌは、なおもクッキーが視界に入らぬよう両手で顔を覆っている。
ラウルは唇に微笑みを残し、直接触らぬよう包装紙を挟んでクッキーを割った。そのぽきりという小さな音を聞きつけ、目を開けたロズリーヌは指の隙間からそっと覗き見る。
「これをどうぞ、殿下。俺は今、誰かと半分ずつ食べたい気分なので。」
◇ ◇ ◇
冷たい石の床に膝をつき、緑髪の男は薄暗い牢獄の鉄格子を掴んだ。
粗末な椅子に座していた囚われの貴人が立ち上がり、彼の前にやってきて同じように両膝をつく。かつて丸々としていた彼女の身体は不健康にやせ細り、輝いていたプラチナブロンドも今はくすんでいた。薄青色の瞳だけが変わらない。
『な、んで……そんな事を、言うんです。』
男が絞り出した声は震えていた。
彼は戦う力などまるでない腰抜けだったから、見張り番はこの牢部屋の外にいる。再会の日から今日まで、二人は何度も会って沢山の話をしてきた。
彼女が怒って暴れて、男が苦笑いして。
拗ねても彼女に逃げ場はなく、男の話を聞くしかなく。
やる事がなければ自然、男に言われた事を思い返した。
『わたくし、貴方のお陰で目が覚めましたもの。自分の状況を考える事もできましたわ』
『駄目だ!……違う、でしょう。そんな…』
学園でどうして上手くいかなかったのか。
愛されているはずの彼女がなぜ、欲するままに与えられなかったのか。
あの王子は、令息は、令嬢は、平民達は、何を思って彼女に言葉を投げていたのか。
少しずつ理解し、納得し、後悔して、ようやく。
ヘデラ王国第一王女、ロズリーヌ・ゾエ・バルニエはすっかり人となりを変えていた。
『ここに居れば貴女は少なくとも、』
『生きてはいる……えぇ、そうですわ。わたくしが生きている事が問題なの。ラウル』
『……昔の貴女は、そんなにいなくなってしまいましたか。もっと、自分の事を…』
桃色の瞳を持つ目を閉じ、項垂れて男は唇を噛みしめる。
あまりにも非力だった。
逃げてくれとも、逃げようとも言えなかった。だって、その先に何があると言うのか。
入学した日に戻ってやり直したいと、何度も願っていた王女の言葉を思い返す。戻りたいという気持ちの強さは男も同じだった。全てをやり直せたら。
鉄格子を掴む手に力がこもる。
――…あの白髪の子なんて、皇帝の近衛にまでのし上がってた。同じ平民で…全然、力なんか無かっただろうに。
『ね、お願いしますわ。』
そっと手に触れられて男は顔を上げる。
心を入れ替えた王女殿下はやつれた顔で、それでも希望を見つめるように微笑んだ。
『わたくしに死に方を教えてくださいな。』
男の目から涙が溢れ出す。
牢で再会した時こそ、傲慢な王女の行く末などどうでも良いと考えていた。相手をするのも面倒で退屈だと思っていた。
けれど彼女はきっとこれまで、高貴な生まれ故にハッキリ言ってくれる誰かがいなくて。居たとしても追い出す力があって、逃げ込む場所もあって。
この牢部屋に来てようやく、向き合う事ができたのだ。
いつの間にか、男は少しずつ変わっていく彼女と話す時間が楽しくなっていた。
たった一人の友人ができたと思っていた。
黒く塗り潰された人生の中で少しだけ、僅かでも良い事をしていると思えた、それなのに。
『っ――…なら……お、れも……一緒に。』
『わたくしと一緒に死んでくださるの?どうして。』
『……俺も、逃げられないからです。』
服の袖で涙を拭って男は言う。
帰る場所などどこにもなかった。何年も前から。
男をじっと見つめる王女は珍しく悲しげに眉を下げていて、しかしゆっくりと頷いた。微笑んでいるのにまるで泣いているようだと男は思った。
『そう。…では、二人でこの世から逃げてしまいましょうか。貴方、お名前は?』
『はは…さっき呼んでくださったじゃないですか』
『知りたいのは貴方の名ですわ。』
『…え……』
男は呆然と呟いた。
王女の薄青色の瞳を見つめ、意味を察すると涙が再びじわりと滲んで溢れだす。
『故郷の者の姿をとって、わたくしを慰めてくれた貴方。共にここで終わるのなら、どうか名前を教えてくださいな。』
『――…ッ、う…!』
『お顔は?元から変えてしまったんですの?』
『う゛うっ……ぐ…』
嗚咽を漏らしながら男は頭を横に振った。
零れる涙を止める事もできず、発動していた魔法を解除して緑髪をぐいと引っ張り下ろした。
短く切った薄紫の髪、同じ色の瞳は涙に濡れている。
幼い中性的な顔立ちになった男を眺め、王女は嬉しそうに目を細めた。
『やっと……貴方自身に会えましたわね。』
『……ッいつ、から…気付いて、たの……』
『途中からだんだんとね。わたくし、最初は怒ってばかりでロクに見もしませんでしたし。』
『ごめん…ごめんね、騙して。』
『いいんですのよそんな事。どうせ旦那様のご命令でしょう?』
男は鼻を啜りながら頷き、王女に促されて口を開く。
誰かに自分の名を告げるのも、もう随分と久しい事だった。
『ジャッキー……おれ、俺ちゃんはね……ジャッキー・クレヴァリーって、いうの。さいていさいあくの、クズだよ……』
『まぁまぁ、貴方ときたら。ふふ、変てこな自己紹介ですこと。』
『すんごい馬鹿なの…弱くて、あんたを出してやる事もできなくて……!』
『ねぇ、貴方が自分をどう思っても勝手ですけれど。でもきっとね、最低最悪な方はそのように泣いたりしないし、わたくしに人の気持ちを教えてなんてくれませんわ。』
『ほんとに…俺ちゃんが一緒で、いいの……』
『当たり前でしょう?唯一のお友達ですもの。』
添えられた手の微かな温もりを感じ、ジャッキーは掠れた声で「ありがとう」と呟く。友人と思っているのは自分だけではなかった。
『……貴方だけでも生きてと言えたら、よかったのですけれど。』
逃げられないのなら、共に。
そう言ってロズリーヌは笑った。
『ね……最後に、一曲だけ歌ってくれる?俺ちゃん……あんたの歌が、すごい好きだから。』
泣きながら願う彼を慰めるように、穏やかな救いの歌声が響く。
ジャッキーは震える手で毒薬を取り出した。
『ではさよならね、ジャッキー。違う命としてきっとまた会いますわよ。』
『っうん……頑張って探すから…だからまた、友達になってくれる?』
『えぇ、もちろん!』
『ありがと、ロズリーヌ。あんたと会えて良かった……じゃあね。』
笑い声が響いている。
『‘ あっはっはっはっはっは!!ちょーウケる! ’』
ジャッキーの死体を蹴りつけ、役立たずの見張り番を切り殺して、その男は腹を抱えて笑っていた。
痛めつければ言う事を聞く、臆病者のジャッキー・クレヴァリー。
捕まって拷問にかけられた場合にと渡した毒薬を、まさかロズリーヌとの心中に使うとは。自殺を選ぶ度胸など無い男のはずだった。
『‘ いつの間にかデキてたんかな?つって、こんな痩せこけ女のどこがいんだか。ヤる前に萎えねぇ?ぷぷっ、人のシュミってわかんねー。ま、アレか。愛あれば死ありよな。うん…っくく。はぁー…… ’』
大きくため息を吐き、男は笑みを消してジャッキーの心臓に剣を突き立てた。
つまらなそうな顔でドスドスと刺し、物言わぬ死体を痛めつける。ロズリーヌの遺体を運び出す部下達は慣れているのか無反応だった。
『‘ ふざけんなよ、ほんと。シャロンのために考えた余興ができねぇじゃん。代わり用意する時間ないしさー…… ’』
『‘ ヘデラ国王にはなんと… ’』
『‘ しばらく黙っといていんじゃね?敗戦国がどう頑張ったって、ツイーディアの監視抜けてこっちに催促なんかできないだろ。ま、もし来たら返してやれよ。首だけ。……ぷっ、くくくく!あはははははははは!! ’』




