369.王子が守る相手なら ◆
赤いガラスの奥。
ホワイトの瞳が斜め上へ動いた直後、レオが焦った声で「危ねぇ!!」と叫んだ。シャロンがその意味を知るより早く、素早く立ち上がったホワイトが降ってきた大男の身体に横から靴裏をめり込ませる。
短い悲鳴を上げたシャロンのもとへレオが駆けつけた時には、大男はテラス席を囲う柵に激突して崩れ落ちていた。気絶しているのかぐったりとして動かない。
『――…っ。』
気付いてから数秒もない出来事で、たった数歩の距離が間に合わなかった。
シャロンの手を支えて立たせながら、レオは「もし先生がいなかったら」とゾッとする。あの男はテーブルに激突し、シャロンも怪我をしていたはずだ。
ごくりと唾を飲み込んでホワイトへ視線を移すと、席に座り直してアイスを口へ運んでいる。二人が唖然としてその姿を眺めれば、こちらへ目を向けた薬学教師はシャロンが座っていた椅子をスプーンで指した。
『どうした。座れ』
『…それどころではない、かと。』
シャロンが苦笑して答える。
飛び出してきた店員は奇妙な状況に固まっていた。
レオが大男が降ってきた方向――道の向かい側の建物を見上げると、屋根から誰かが飛び降りる。店先にズダン、と着地したのは同級生だった。
不揃いに切られたぱさついた茶髪、同じ色の瞳を抱く目は三白眼。
十三歳の年頃ながら身長は既に百七十センチ近くあり、肩幅も広く見るからに力強い少年だ。着古したシャツとズボンはところどころに土汚れがあり、何があったのか鼻から血が出ている。
彼は気絶した男へと歩きかけ、ホワイトに気付いて足を止めた。
『ん゛……こあっつれい、んせがるった…』
『…デューク・アルドリッジか。何してる』
『りゆあしゃんのすが、そんとがきにわしをんぐぃあって。』
『……そうか。』
二人の会話にシャロンが首を傾げる。
レオが大きく手を振り、デュークはそこでようやくシャロン達にも気付いたようだった。ホワイトがアイスの残りを喉へ流し込んで立ち上がる。
『デューク、お前かよ!人投げんなら先見ろって、先生いなかったら危なかったんだぜ。』
『わい、やんでぁってといああんげえあった』
『つか何であんなトコ行ったんだ?魔法か?』
『そんとぁいげあぁったら追っがねぇら!』
デュークは苛立った様子で拳を自分の手でパァンと受け止めた。
二人の会話を放置し、ホワイトはテラス席から男を引きずり出して騎士に引き渡す。
シャロンは未だ鼻血がだらりと流れるデュークへハンカチを差し出した。彼女が公爵令嬢だとはさすがに知っているデュークが、予想外とばかり目を丸くしている。
『どうぞ、使って』
『…あたぁわしにってん、づすか?』
自分を指しながらそう言うので、意味を察したシャロンは「もちろん」と頷いた。
デュークは貴族令嬢の微笑みをこれほど間近で見た事などない。彼女が近付いた時にふわりと漂った良い香りも、日焼けや荒れのない美しい肌も「世界の違うひと」といった雰囲気で、つい受け取りもせずぱちぱちと瞬きした。
シャロンが改めて促すようにハンカチを持った手の位置を上げ、デュークはようやっと「ども」と頭を下げて受け取った。少しも汚れのない高そうなハンカチだが、使って良いと言うのだから良いのだろう。遠慮なく鼻を押さえた。
貴族はただの布まで良い香りがするらしいと学んだ。
三人が視線を向けた先で、騎士が気絶したままの男を拘束している。
『休日まで何を暴れてるのさ。デューク』
揶揄うように言って、学園の制服を着た少女がスカートを翻して三人の方へ歩いてきた。
青みがかったグレーの前髪をぱっつりと切り揃え、後ろ髪は肩につく程度まで伸びている。青い瞳に四角い眼鏡。両耳に幾つもピアスをつけ、口元を楽しそうに緩ませた彼女はダリア・スペンサー。
王国騎士団四番隊副隊長、スペンサー伯爵の娘だ。
『んでおめがんだ、づっかけぇ阿呆』
『あれ?デューク上級で一緒だろ。仲良くねぇのか?』
『ハッ!このなと仲えぃやつぁんていわけねでらが!』
『ていうかシャロン様じゃないですか。こんにちは~』
ダリアは男二人の会話を無視してヒラヒラと気さくに手を振った。
シャロンが薄く微笑みを返すと、ダリアは騎士と話しているホワイトを見やる。そしてニヤリと笑った口元に手を添え、わざとらしい小声で言った。
『もしかしてホワイト先生とデートです?』
『いいえ。』
『ダリア!おめくっだあえいこづうんだらおんにげれや!』
『んひひ、大声出すなようるさいなぁ。いつ街を散歩しようがぼくの勝手だろ。冗談で言ってる事くらいわかるだろうし。』
『おぉ…』
ダリアの態度にレオが目を丸くして困惑の声を漏らす。
挑発的な彼女の視線を真っ向から受け、シャロンは落ち着いた声で返した。
『わかるけれど、楽しい冗談ではないわね。』
『あははっ、は――…』
ケラケラと笑いかけたダリアが目を見開いて固まる。
野次馬の間をするすると抜け、薄手のローブを着た少年がこちらへ歩いてきていた。シャロン達が視線を追う頃にはもう彼は近くにいて、フードの下に少し癖のある黒髪とぎらりと光る金色の瞳が見える。
『ぼく通りかかっただけなんで消えまーす。』
アベル第二王子殿下は機嫌が悪い。
そう見てとった瞬間、ダリアはサッと目をそらしてこの場を去った。そちらに用は無かったのか、アベルが止める事もない。シャロン達の前へ立ち、彼は低い声で言った。
『端的に。何があったの』
『あ、っと…』
『私が先生と話している所に、あの方を追っていたアルドリッジさんが鉢合わせました。』
レオは要約が苦手でデュークは喋りが独特だ。
シャロンが普段より早い口調で答えると、アベルは視線でレオとデュークに離れろと指示した。二人が数歩離れて顔を見合わせる間、軽く握った拳で口元を隠してシャロンに問いかける。
『ウィルがいない。心当たりはないか』
『――…っ!』
目を見開いたシャロンはこくりと唾を飲み込んだ。
オペラハウスで起きた襲撃事件からまだ一月も経っていない。アベルが探しているという事は、今ウィルフレッドはサディアスも、護衛騎士のヴィクターさえ連れずに街へ出たという事になる。
シャロンは胸元で両手を握り、焦る心を落ち着かせながら懸命に記憶を辿った。
『さ、サディアスが本屋に行くと言ったからそこは避けるかも。確か雑貨店に行きたがっていたわ、ユーリヤ商会の子供達がやっているところ。噴水広場を落ち着いて見たいとも言っていたし、後は…レストランオールポート、文具店アグニュー、貴方が使う武器屋道具屋があれば、そこも候補と考えて良いと思うわ。』
『……?僕が使っ』
『ヴィクターさんが探しそうな場所は避けているはず。私…夕方まで噴水広場を見ておきましょうか?』
『…頼んでいいか。』
『えぇ』
小声の会話が終わると、アベルは野次馬に顔を見られないようフードの端を引っ張りながらレオとデュークに指で合図した。事情がわかっていない二人が戻って来る。
『デューク、詰所での調書を終えたら広場で彼女に合流してくれる。護衛を頼みたい』
『うん?』
『職場に言伝はしておく。日給の倍額、戦闘があれば五倍でどうかな』
『…わしぁ構やせんが、素手んならぁすよ』
『詰所から借りて良い。これを見せろ』
ローブの下からパチンと音がして、アベルは野次馬の視線から隠すように革製のナイフケースをデュークへ渡した。端の刻印を見てシャロンが目を見開く。
星が二つ、ツイーディアの花が一輪、背景に時計の文字盤。恐らくアベルの印璽だ。
デューク・アルドリッジは、一時的にでもそんな物を預けて良い相手だと思われているということ。
事の重大さがわかっているのかいないのか、それをポケットに突っ込んだデュークは眉を顰め、ぎこちなく左右片方ずつ歯を剥き出すようにしてから頭を振った。
『……なら、承知。お任せを。』
『うぉ…デュークが普通に喋ってら』
レオが驚いた様子で呟く。
シャロンは自分にそこまでの護衛は不要と思ったが、口を出す事はなかった。急ぐだろうアベルにこれ以上時間を取らせるべきではない。
そこにホワイトと話し中の騎士がいるのに言付けないなら、理由はすぐ立ち去りたいか王子がいると知られたくないか、騎士団にもできるだけウィルフレッドの不在を隠したいか。そのいずれかだろうから。
『レオ、彼女から目を離さないように。』
『おう!了解です。』
『……お気を付けて。』
私は小さな子供じゃないのだけど、という言葉を飲み込んで、シャロンはそう声をかけた。
アベルは一瞥して頷いただけで踵を返し、雑踏の中に消える。
『ん……』
デュークは軽く鼻の下を擦ってもう血が出ない事を確認すると、汚れたくしゃくしゃのハンカチを見下ろしてからシャロンを見やった。洗って返そうにも、水と石鹸で頑張った程度で元通りになるのだろうか。
シャロンは大丈夫と言うように微笑みかけた。
『差し上げるわ。好きにしてください』
『そうか…ありがとう、姫様。』
『はっ?』
予想外の呼び方にレオがつい声を漏らす。
彼は女子生徒を姫と呼ぶようなタイプではないはずだった。シャロンも心当たりがないのか不思議そうに首を傾げている。
『私の事はご存知あんでしょうが、デューク・アルドリッジです。デュークと呼んでくれますか。孤児院の神父が何か長ぇのくっつけましたが、あんま自分の事って気ぁしゃ…気がしないので。』
『わかりました、尊重します。私はシャロン・アーチャー、ですが…』
『何で姫って呼んでんだ?お前そんな感じだったっけ。』
『アベル様が、貴女を守れと言ったんで。』
『………。』
他に言葉が続くかと待ってみたシャロンだが、デュークはぴったりと唇を閉じたまま真摯に彼女を見返していた。
理由はそれだけらしい。
二度瞬いて、シャロンは眉尻を下げ小さく頷いた。
『そう、なのね。えぇと、流石に…』
『おまえ達まだ話してたのか。もう行くぞ』
結局「姫様と呼ぶのはよしてほしい」と言えないまま、デュークは連れて行かれてしまった。
ホワイトも騎士団詰所へ付き添うらしく、シャロンは小声で「御馳走様でした」とアイスの礼を言うに留まる。
ウィルフレッドを探すべく広場へ急ぐ彼女の横で、レオが険しい表情で呟いた。
『…もしかして、俺も姫って呼んだ方がいいのか?』
『絶対にやめて。』




