363.姫様令嬢シャロン・アーチャー
※翻訳は読んでも読まなくても大丈夫です。
思わず目を見開いて「まぁ」と呟く間に、ダンが私を椅子ごと抱え上げて落下地点から離れる。
屋根を僅かに掠り、男性は私達のテーブルにガシャンと叩きつけられた。卓が斜めになってティーカップやソーサーが滑り落ち、クロスに染みを作って割れる。
男性は気絶したのかぴくりとも動かない。
「――…大丈夫ですか、お嬢様。」
「えぇ、ありがとう。」
緊迫した面持ちのダンに頷いてみせた。
椅子を床に下ろしてもらい、ホワイト先生は大丈夫かしらと視線を戻す。
先生は脇に読みかけの本を抱え、両手にそれぞれアイスの器を持って立っていた。周囲から上がる悲鳴を無視し、私にアイスを差し出してぱちりと瞬く。
「スプーンが無いな。」
「…それどころではない、かと。」
苦笑して受け取ったアイスを近くのテーブルに置き、私も立ち上がった。あとちょっとで食べ終わるけれど仕方ないわね。スプーンは二つとも床に落ちてしまっている。
飛び出してきた店員は目の前の惨状に凍り付いていた。
道の向かい側の建物を見上げると、屋根から誰かが飛び降りる。店先にズダン、と着地したのは見覚えのある少年だった。
ぱさついた茶髪は不揃いに切られ、同じ色の瞳を抱く三白眼はダンに比べればまだ幼さが残る。私と同級生ながら身長は百七十センチ近く、肩幅も広くて見るからに力強い。
着古したシャツとズボンはところどころに土汚れがあり、何があったのか鼻から血が出ていた。
彼は気絶した男性へと歩きかけ、ホワイト先生に気付いて足を止める。
「ん゛……こあっつれい、んせがるった…」
「…デューク・アルドリッジか。何してる」
「りゆあしゃんのすが、そんとがきにわしをんぐぃあって。」
「……そうか。」
自然、首が少しだけ傾いた。
アルドリッジさんは…何と言っているのかしら?
デイジー様が「もはや外国語です」と言い切った姿が思い出される。
ホワイト先生はアイスの器を傾けて残った二口分ほどを喉に流し込み、濡れた唇を舐めて空っぽの器を店員に押し付けた。
そしてそれまで完全に無視していたはずの存在――床で伸びている男性に近付くと、片手で胸倉を掴んでテラス席から引きずり出す。先生が無言で手振りすると、野次馬の輪が一斉に後退した。騎士が駆けてくる。
「こらわしぁ払んとけれぇんか…?」
アルドリッジさんは苦い顔でズビッと鼻を啜り、渋面で腕組みをしていた。視線は倒れたテーブルや割れたティーカップ、汚れたクロスだ。
私が近付いてハンカチを差し出すと、彼は目を丸くした。
「こんにちは。どうぞ、使って」
「…あたぁわしにってん、づすか?」
自分を指しながらそう言うので、意味を察して「もちろん」と頷く。
ぱちぱち瞬く彼の鼻からはまだ血が流れていて、改めて促すとようやく「ども」と軽く頭を下げて受け取ってくれた。ハンカチで鼻を押さえる彼の向こう、騎士が気絶したままの男性を拘束する。
「うわ、超派手にやったねぇ。」
揶揄うような女の子の声に振り返ると、学園の制服を着た少女がスカートを翻してこちらへ歩いてきた。
青みがかったグレーの前髪をぱっつりと切り揃え、後ろ髪は肩につく程度まで伸びている。青い瞳に四角い眼鏡。両耳に幾つもピアスをつけ、口元を楽しそうに緩ませた彼女はダリア・スペンサー。
王国騎士団四番隊副隊長、スペンサー伯爵の娘だ。
「店の物壊しちゃってさ。デューク、きみ良い剣買うために貯金してんじゃなかったの?」
「んでおめがんだ、づっかけぇ阿呆」
「ていうかシャロン様じゃないですか。こんにちは~」
「えぇ、こんにちは。ダリアさん」
ヒラヒラと気さくに手を振る彼女へ微笑みを返す。
ダリアさんは騎士と話す先生を見やって口元に手を添え、私達にしか聞こえない程度に声を落とした。
「もしかしてホワイト先生とデートです?」
「いいえ。」
「ダリア!おめくっだあえいこづうんだらおんにげれや!」
「んひひ、大声出すなようるさいなぁ。いつ街を散歩しようがぼくの勝手だろ。冗談で言ってる事くらいわかるだろうし。」
「わかるけれど、楽しい冗談ではないわね。」
「あはは!」
ダリアさんはケラケラと笑い、そんな彼女を見てアルドリッジさんは舌打ちした。
二人はウィルやアベルと同じ《剣術》上級クラスを受ける強者、なのだけど……ここの仲はあまりよくないみたいね。
少しピリピリしているダンを見やって、ダリアさんは口角を上げた。
「そうそう、この前はすみませんね。キレーなお顔蹴っちゃって。」
「はあ…?」
アルドリッジさんが目を瞠って私とダリアさんを交互に見る。
私は小さなため息を漏らした。
「おん――蹴ったっづがあらぁ!?」
「思っちゃったんですよねぇ、今そこ蹴ったらどうなるんだろって。」
「あまり良い好奇心ではないわね。……次はお止めできませんから、試合の範疇でお願いしたいわ。」
少しだけ眉根を寄せて言う。
示すのは不快感ではなく懸念だ。彼女の強さを知っている分、万一にもそれが悪い方向へ行ってほしくなかった。それに…
次が起きたらきっと、ウィルはもう許さない。
「大丈夫ですよ、二度としませんって。ぼくこれでも…」
「ッたいまだら!せぇがわりんなだっづ知っでえろそんま腐っでぁら――」
「あぁもううるさいな!」
ハンカチごと拳を握りしめて怒鳴るアルドリッジさんに、ダリアさんもとうとう顔を顰めて叫び返した。
不機嫌に口元を歪めて彼を指差す。
「デュークさぁ、そのコーフンするといつも以上に雑に喋るの迷惑だって。何言ってるかぜーんぜんわかんないし、第一ぼくが話してるのはシャロン様であってきみじゃないんッ」
ごす。
本の表紙で軽く叩かれ、ダリアさんは振り返りながら素早く数歩分飛び退った。さすがの身のこなしだわ。
ホワイト先生はその動きにも驚く事なく、私達をちらりと見回して言う。
「おまえ達、道で騒ぐな。」
「…っホワイト先生、気配消した上に生徒叩くとか…ぼく女の子なんですけど。」
「消したつもりはない。アルドリッジ、騎士について詰所まで行け」
「わありぁした。……しごっばにごどって頼んあっかね。」
「…流石にマトモな発音したらどうなんだよ。」
ダリアさんがよそを見ながら呟いた。
アルドリッジさんが眉を顰め、ぎこちなく左右片方ずつ歯を剥き出すようにしてガチ、ガチと噛み合わせる。そして軽く頭を振ってから口を開いた。
「わぁし…わた、しは仕事中らったもんで、ん゛んっ!……詰所行くんなら仕事場に言伝頼いたいんすけど、騎士の方にお願いできあすか。」
「わかった。今伝えておく」
「ありがとうございます。」
……本当に普通に喋っていらっしゃるわね……。
レベッカが「一応普通に喋れる」と言っていたけれど、確かに発音の節々で喋りにくそうにはしている。彼としては普段の方が断然楽なのでしょう。
ダリアさんがにやりと口角を上げた。
「んひ、仕事中にケンカおっ始めたんだ。怖いねぇ~」
「親方の行っつこぉてんげら構あしゃねぇ」
「おい。ぼくにも丁寧に喋れよ…」
アルドリッジさんは軽く鼻の下を指で擦り、もう血が出てない事を確認する。
そして手のひらの汚れたくしゃくしゃのハンカチを見てから、こちらへ視線を移した。あれは私のイニシャルがあるわけでもない、ありふれたデザインの小さな刺繍を入れただけの物だ。
心配しなくて大丈夫だと伝わるよう微笑みかける。
「差し上げるわ。好きにしてください」
「そうか…ありがとう、姫様。」
ぱちりと瞬いた。
ひめさま?
「私の事はご存知あんでしょうが、デューク・アルドリッジです。よろしく」
「…シャロン・アーチャーです。アルドリッジさん、なぜ私を姫と……?」
「ウィル様が、貴女はこの国の姫のようなモンだと言ってたので。私ぁ勝手にそう呼んでました」
ウィル……一体どういう話の流れでそんな事を言ったのかしら。
確かに今のツイーディア王国に王女様はいなくて、家系図を遡ると我が家は初代様以外も幾度か王家の血が入っているし、上から数えれば私が近いと言えば近い、けれど……。
ダンが笑いを堪えてプルプル震えているわね。
幸いにもホワイト先生が野次馬を遠ざけた後だし、アルドリッジさんも大声では言わなかったので恐らく周囲の人には聞こえていない。
「そう、なのね。えぇと、流石に…」
「私ん事はデュークと呼んでくれますか。孤児院の神父が何か長ぇのくっつけましたが、あんま自分の事って気ぁしゃ…気がしないので。」
「尊重します。ただあの…」
「おまえ達まだ話してたのか。もう行くぞ」
結局「姫様と呼ぶのはよしてほしい」と言えないまま、彼は連れて行かれてしまった。
ホワイト先生も騎士団詰所へ付き添うらしく、小声で「御馳走様でした」とお礼を言うに留まる。傷薬をもう一度作るという約束はまた今度ね…。
野次馬の方々も散り始め、ダリアさんはぐっと伸びをしてから立ち去ろうとした。
「貴女はいつから二人を追っていたの?」
雑踏の中、声はきちんと届いたらしい。
足を止めて私を振り返るダリアさんは楽しそうに笑みを浮かべた。
「あの男、なんか苛立ってたから後つけたんですよ。腹いせに何かしそうって感じすごかったし。」
「では全て見ていたのね…。」
ついため息混じりになって眉尻が下がる。
ダリアさんなら、デュークさんが怪我をする前に止められたのではないかしら。彼女は悪びれずに頷いた。
「まさかデュークに一発入れてずらかろうとするなんて、さすがに予想外でしたけど。あ、一応言っとくと、あいつ仕事の荷物持ってたから下手に避けらんなかったんですよ。んひひ。あっちもまさかその一発で屋根の上まで追われるとは、思ってなかったでしょーね。」
「助けに入らなかったのは、彼なら大丈夫だと思ってのこと?」
「そ。殿下に毎日ぶっ飛ばされても平気な頑丈野郎ですし、ぼくが急いで割り込んでまで助けてやる義理もないので。面白そうだから見には来ましたけど」
悪戯っぽく笑って小首を傾げ、ダリアさんは大袈裟な仕草で私に敬礼した。
眼鏡の奥、青色の瞳がこちらを観察している。
「んじゃ、さようならシャロン様。良い休日を」




