345.猫だよ
喫茶《都忘れ》の二階――絡繰り個室。
予約した時間に訪れたシャロンは、ローテーブルを挟んで向かい合わせに置かれた二人掛けソファの片方に腰かけていた。
薄紫の長髪は後ろの低い位置でゆるく結い、身体の前側へ流している。最近は気温も上がってきたので、着ている制服のブラウスやスカートの生地は薄手のものだ。バルコニーへ出る扉の横にはダンが控えている。
トントン、トントン。
二連続のノックを二回。
シャロンは立ち上がりながらダンに目配せし、ダンは頷いて開錠すると、バルコニーの扉を開けた。柔らかな風が吹き込む。
そこには誰もいなかった。
「なん…――っ!?」
眉を顰めたダンが文句を言う前に、扉がひとりでに閉まる。
バタンと音がすると同時、黒髪の男が部屋の中に姿を現した。ダンは反射的に手が動きかけたが、シャロンに聞いていた見た目と一致していると気付いて止まる。
後ろで一部を団子に結った長い髪に銀の簪。白いシャツに濃紺のズボン、黒のブーツまでは普通だが、顔の上半分を覆う猫面がかなり不気味だ。何せ目の部分に穴があるのにその奥が見えない。
シャロンは相手の外見に戸惑う様子もなく、丁寧に淑女の礼をして顔を上げた。
「こんにちは。アロイスさん」
「やぁ、シャロン。それと君は、ダン・ラドフォードだね。」
「…初めてお目にかかります。」
ダンは警戒心も露わに形式的な礼をし、扉に鍵をかける。
アロイスはシャロンの向かいのソファに座り、ダンが絡繰りを通じてそれぞれの飲み物を注文した。
――いや、不審者が過ぎるだろ!こんな奴を夜中に見かけてホイホイ話しかけてんじゃねぇよ!!
心の中で怒鳴りつけながら、ダンはしかめっ面でシャロンが座るソファの横に立つ。
ガントレットをあらかじめ装着するのは礼儀としてできなかったが、本音を言えば今すぐつけた上でシャロンとの間に割り込み十二分に距離を取らせたかった。怪し過ぎる。
ついでに言えば――この男は確実に、二人よりも強い。
「飲み物の代金はこちらでお支払いします。お呼び立てしたのは私ですので」
「おや、いいのかい?それではお言葉に甘えて。」
「どのようにいらっしゃるのかしらと思いましたが、魔法を使われたのですね。」
「私は歩くだけで視線を集めてしまうからね。」
「普段この辺りにはよく来られるのですか?」
「道はよく知っているとも。住み始めてから大体は見て回ったんだ。」
二人は微笑みを浮かべて和やかに話している。
アロイスは一見して何も武器の類を持っていないらしいが、シャロンが帯剣している事も、ダンが腰の左右にケースを下げている事も、気にした様子はない。
「でも学園の中だけはさすがにね。」
「ご身分を明かせば、ドレーク公爵家は相応の対応をなさると思いますが…」
「大事にはしたくないからいいのさ。私は君影の代表としてここにいるわけではないし。」
「……これは私の個人的な興味なのですが、君影国にもアンジェリカ様のご活躍は伝わっているのですか?」
「うん?――…あぁ、彼女ね。」
ソファの背もたれにぽんと身を預け、アロイスは腹の前で軽く手を組んだ。
軽く首を傾げれば簪についた君影草の花飾りがしゃらんと揺れる。
「君影を《国》として認めたのはツイーディアだ。それは彼女が残した結果の一つだと思うよ。」
「…先日公演を終えた『嘘つきドルフ』は、ご覧になりましたか?アンジェリカ様が登場する話です。」
「観てはいないな。確か神話……女神伝説とも言うんだっけ。この国の昔話。」
「えぇ。彼女には死者の魂が見えたという逸話で、もしご覧になっていたらアロイスさんの感想を聞ければと思ったのですが」
「どうだろう。君影の人間も、全員が見えるわけではないからね。」
くすりと笑って答えたアロイスに、シャロンが僅かに目を見開く。
それは、見える者がいると答えたも同然だった。アロイスは平然と続ける。
「言っておくけれど、見えたところでできる事はロクにないのさ。」
「ですが…たとえばそれこそ、死者に犯人を問うとか……」
「会話が成立する事は少ないらしいよ?必ず魂として残るわけでも、死者が正直者とも限らないし――…アンジェは結局、君影から逃げた。」
「逃げた…?」
「戻らなかっただろう?リラに学園を作って。…あぁ、私はそれが悪いとは思わないけれど。」
違和感を覚えて、シャロンはテーブルに視線を落とした。
大昔の人間であるアンジェリカをアロイスが愛称で呼ぶのも気になるが、「戻らなかった」という言い方も引っ掛かる。君影国は、血を引く人間に対してそこまで求めるのだろうか。
聞いてみようかと口を開きかけた時、カタカタと音が聞こえて飲み物が届いた。
運搬用の絡繰りからダンが飲み物の乗ったトレイを取り出し、それぞれの前に置く。アロイスはアイスコーヒーにシロップをたっぷりとかけた。
「甘いのがお好きなのですか?」
「気分によってはね。辛いのを食べたい日もあるし、その時々だよ。」
「そうですか…。」
謎の男を相手にどうも頭を使いそうだと、シャロンも角砂糖を一つ紅茶に落とし込む。くるりとかき混ぜながら、毎度必ず砂糖を入れる第二王子の顔を思い浮かべた。
視線を上げると、アロイスは甘々になっただろう味に舌鼓を打っている。
「私に、彼を助けたいかと聞かれましたね。」
「聞いたね。君がいかにも彼を気にしてそうだったから。」
予想外の言葉にシャロンはつい、ぱちりと瞬いた。
助けが必要だと「何か」知っていた上での質問かと、聞いてみる予定だったのに。そんな流れだったろうかと急いで記憶を辿る。
『第二王子殿下にお伝えするのは構いませんか?』
『――……彼か。謎の男という職業に対して天敵過ぎるから、駄目だね。』
『職業だったのですか、謎の男……』
『ヒメユリと彼が会った事も知っているし、もちろん良くない人物だと思っているわけでもないよ。けれど私が会うのはまだ早い。……お嬢さんは、彼を助けたいかな?』
「せめて彼には知らせたい、という感じだっただろう?助けになりたいんだろうなぁと思ったのさ。」
「……そう、でしたか。まだ早い、とは?」
「君達はあと何年かリラにいるんだから、まだ後で良くないかい?さっきも言ったけれど、私は大事にしたくないんだ。ヒメユリが飛んできてしまうからね。」
なんだか気が抜けて、けれどそれを表には出さずにシャロンは内心で安堵の息を吐いた。
もしやアベルに何か危機が迫っていて、それをアロイスは知っているかもしれないと考えていたのだが、いらぬ心配だったようだ。
「私の他には誰にも見つかっていませんか?」
「それが見つかったんだよ、ははは。」
アロイスは困る様子もなくからからと笑っている。
その程度ならアベルに報せたって良かったのではなかろうかと思いながら、シャロンは少し首を傾げて「どなたにでしょうか」と続きを促した。察しはついていたけれど。
「君の友達だよ。カレン・フルードとレオ・モーリス。後はロズリーヌ王女と従者のラウル・デカルト。」
――多いわね!?
シャロンは呆気に取られて目を丸くした。
ゲームシナリオではカレン一人だけのはずだが、一体どういう事か。シャロンがアロイスに会ってしまったせいで何かが変わったのかもしれない。
「えぇと……なぜそんなにも?」
「うっかり寝てしまってね。カレンとレオに見つかって、王女様がそこに割り込んできた流れかな。一応私の事は内緒にと頼んだけれど……レオは警戒していたから、誰かには言っているかもしれない。」
「…それは先週の話でしょうか?」
黙って聞いていたダンが僅かに眉を顰めて聞くと、アロイスは「そうだよ」と答えた。
シャロンと目を合わせ、ダンは小さく頷く。
「カレンが夜に街へ行くところに出くわしたので、俺がレオについていくよう言いました。ちょうど一緒にいたので。」
「そうだったの……。」
ダンはゲームには登場しなかった人物だ。
ロズリーヌが連れているラウル・デカルトも然り。彼らの存在がゲームとは状況を変えたのだろう。シャロンは視線を戻した。
「アロイスさん?結構大事になっていると思うのですが。」
「あっはっは、困るよね。」
笑いながら軽く膝を叩く様子を見るに、全然困っていない。
シャロンは、彼との会話はアベルやサディアスが好まないものだと今更ながらに思った。ウィルフレッドなら少し面白がるかもしれないが、サディアスは特にこういう輩に対しては苛立つだろう。
――謎の男を自称すると言った時、アベルも「なんだそれは」と呆れていたものね。アロイスさんに謎を明かす気がない以上は、会うと厄介な事になりそうではあるけれど……。
「レオ以外……王女殿下も、貴方の事は秘密にすると仰ったのですか?」
「うん、あの子は割と素直だった。わかりやすいって言うのかな。」
けろりとしているアロイスの話を聞きながら、シャロンは紅茶をくいと傾けた。
ロズリーヌはゲームと違い――ちょっと空回り気味なところもあるが――「良い人」だ。素直だったという言葉には共感を覚える。
ソーサーにカップを戻して、薄紫の瞳を前へ向けた。
「レオに警戒されてしまったなら、どうして私の名を出さなかったのですか。」
「ふふ、だってそれはズルイだろう?君に口止めをお願いしておいて、『彼女は私の事を黙ってくれたよ』、なんてさ。」
人差し指をぴんと立て、アロイスは小首を傾げる。
それはつまり、シャロンの名を出してまで警戒を解くほど、アロイスにとってレオは脅威になりえないという事でもあった。
「人を呼ばれたら、もうあの辺りは――…」
散歩できなかったかもしれませんよ、と。
そう言おうとしたシャロンは、アロイスが姿を消してここまで来た事を思い出す。ゲームでは幾度となく、カレン達の前から姿を消した事も。自分と会った夜、闇に溶けるように消えた事も。
もちろん、それを長時間維持するにはかなりの魔力が必要になるが、少し行くだけなら可能だろう。アロイスの目的がはっきりしないから、何とも言えないけれど。
「…アロイスさんは、《闇》が最適ですか?」
「どうかな。ご存知の通り私はツイーディアの人間じゃないから、鑑定石だっけ?あれに触った事はないんだ。君影ではやらないからね。シャロンは……そうだな、《水》とか?」
「よくわかりますね。その通りです」
「――薬学の先生は優秀だと聞くけど、君ももう薬を作ったりするのかな。」
「えぇ、あくまで簡単な物であれば。」
「そう」
アロイスがグラスを持ち、中に入っていた氷が音を立てた。
トン、とコースターの上に戻して、アロイスは闇の中からシャロンを見据える。
「本題は終わってる?」
「……いいえ。再来週に、オペラハウスへ王子殿下一行が来るという話はご存知ですか?」
「あれだけ大きな旗が立っていればね。」
「もしそこで困った事が起きたら助けてくれませんかと、お願いするつもりでした。」
片頬に手をあて、シャロンは考えるように視線を横へ流した。
よからぬ事を企んだ者達はもう捕えたと、既にウィルフレッドから仔細は聞いている。もう襲撃事件が起きる事はないのかもしれなかった。
「過去形という事は、もういいのかな。」
「…可能なら少し、気にかけて頂ければと思います。」
「うん、控えめで結構。警備は騎士団も固めるんだろう?さほど心配ないと思うよ」
「そうですね…。」
「じゃあ私はそろそろ行こうかな。コーヒーありがとうね」
にこりと笑って立ち上がったアロイスに、シャロンが思わずといった様子で腰を浮かせた。
「あの、一つ気になったのですが」
「うん?」
「頂いたお返事にあった三角形は……何でしょうか?」
「三角形?」
「右下の隅に書いてあったものです。」
シャロンがそこまで言うと、アロイスはようやく合点がいったようで「ああ!」と頷いた。黒髪をさらりと揺らして笑いかける。
「嫌だな、シャロン。あれは猫だよ。」
「ねこ」
「私の面は猫の形なんだ、気付いてなかったのかい?」
「それは……気付いておりましたが…」
「つまりそういう事だ。では、またね。」
「あっ、はい……」
シャロンは目をぱちくりさせながら辛うじて返事を返した。
バルコニーの扉横へ移動していたダンが鍵を開け、扉が開き始める時にはアロイスの姿は掻き消えている。宣言は聞こえなかったのに。
「……ねこ……」
後に残されたシャロンは呆然と繰り返した。




