334.不変の末路
新生ロズリーヌことわたくしが学園に降り立って、早くもまるっと三ヶ月。
七月になったという事は、カレンちゃんの教科書が破かれるイベントが――起きませんとも、えぇ、えぇ!
今日もわたくしはラウルを連れて堂々のしのしと廊下を歩きます。いずれはもっと軽やかな足取りを披露してみせますわ。
「で、今日もここですか。」
声を潜めたラウルを見上げ、わたくしはもっちりと頷きます。
ここは第三自習室の個室ブース。
それも、扉をちょっと開けておけば自習室への出入りが見える位置取りです。別の個室ブースでは、カレンちゃんがレベッカちゃんやレオと共にお勉強中。平民の必修授業である生活算術の授業で近々テストがあるようで、直前の三日間は放課後集まろうと話していたのを耳にしました。
教科書が破られるイベントは、「自習室に置き忘れた教科書を取りに戻った」時に起きるのです。
三人の約束を知れたのは本当に僥倖でした。
昨日と一昨日は何も起きなかった、今日が最終日です。何もなければわたくしの見守りはひとまず終了します。そしてもう一つ大事なのは、謎の男アロイスとカレンちゃんが出会うのは、イベントの翌週という事。
もしカレンちゃんが教科書を置き忘れたなら、それは来週だと確定するでしょう。
「ハァ…ハァ……コセンソウ…何でしたか、古銭?丸くて穴が開いてるとか?」
「穴はないです。棘があって服につくやつですよ。教科書のこっちに載ってる…」
「あぁ!引っ付き虫!」
「虫……?」
「何でもありませんわ、あれね…。」
せっかく自習室にいるので、わたくし達も頑張ってお勉強です。
頭から湯気が出そう。カレンちゃん達がいる個室からも、時々レベッカちゃんやレオの苦悶の声が聞こえていますわ。あの子達も大層勉強が苦手ですからね。
「植物学、法学よりは記憶がしっかりしてるかと思ったんですが。苦手ですか?」
「どうしても……ホワイト先生のお顔を見てしまうんですの……」
通りすがりで眺めて許される人じゃありませんからね。
じっくり、えぇ、ついついじっくりと。そしてサディアス様の形の良い後頭部もたんまりと。んふふふふ。許されるなら前世のように祭壇を作り上げて崇め奉りたいですわ~!この世界に写真というものが、カメラという物さえあれば!そして王女という立場さえなければ!密かにグッズ化を!
などと考えていたら、ラウルが呆れたようにため息をつきました。ま~わたくしの従者は色気があること。
「面食いもそこまでいくと重症ですね。」
「今更ですわ。貴方をひょいと拾う王女ですのよ?」
「それは割と感謝してますけど……殿下、書き間違えてます。」
「え?あら本当。」
せっせと直しながらも足音が聞こえたら自習室の入り口を見やって、カレンちゃんが出て行く時を探ります。あの三人組には釘をサクッと刺しましたが、わたくし抜きでやらかす可能性が無きにしも非ず。
カレンちゃんの教科書を守りつつ、イベントが起きるか否かチェックですわ。
「ラウル、その後ダン・ラドフォードはどうなんですの?」
「あれからは普通に話せてますよ、剣術で相手してくれるぐらいには。」
「まぁ、大丈夫なの?あの方結構ガタイが良いでしょう。」
「全然かないませんね。先生も、そのうち中級いける腕だと言ってましたし」
ゲームにはいなかった従者。
シャロン様の隣に見知らぬ男がいて最初は警戒しましたが、前世で言う「ヤンキー」系の強面ながら意外にも真面目な様子です。キチッとした姿勢でシャロン様に付き従う姿はわたくしもすっかり見慣れました。
考えてみれば、彼の事はわたくしより先にウィルフレッド殿下やアベル殿下が知っているのです。それでなおシャロン様の横にいる事を許されているのですから、最初から信じてよかったのでしょう。
ちなみにわたくし、剣術の時間は中級クラスを見学しています。
剣を振るうサディたんという神々しさの前に真顔。もう、真顔です。流れる汗の一粒一粒が反射する太陽光にはこの世の不浄を消し去る力があり、ぐっと真剣に顰められた眉は不機嫌な時とは別種の良さがあります。
残念ながら見学席からは距離が遠い事が多いのですが、眼鏡の奥に確かに存在する美しい水色、あれこそは聖なる輝き。水色といってもフェリシア様より濃く深みがあって、わたくしの薄青色より清廉な、ついずっと見ていたくなる穢れなき瞳。
どれほど黒い噂が付き纏おうと、よろしくない輩と繋がりがあろうと、サディアス様のお心には確かな誇りが――っと、語っていては日が暮れ夜も更け朝がきてしまいますわね。
なんと、時にはチェスター様と試合をする姿を見られるのでわたくしは大変驚きました。
心なしか双子の王子だけでなく、お二人もゲームよりは険悪ではない気がするのです。チェスター様の妹や両親が無事である分、心に余裕があるのでしょうか。詳しくは不明ですが。
そしてこれまた驚くのがシャロン様の強さ。
本当にどうしたのでしょう、軽やかに避けたと思えばレオがよろめく程の強力な打ち込み。さすがにまだチェスター様やサディアス様には勝てないようですが、お二人を焦らせる時も間違いなくあるのです。
話すようになって聞いてみたのですが、彼女がふと思い立って鍛え始めたのはなんと去年というではありませんか。なんという成長の早さ。
推しが頑張る姿を見て自分も頑張る。
これですわ。わたくしも皆様の勇姿を糧に、カレンちゃんをこっそり盗み見ながら、息切れと目に入る汗と戦いつつ護身術を頑張っています。気のせいなのか、先生にその視線を遮られる事が多いのですが…。
「殿下、彼女達出て行きましたけど。」
「はい!?い、いつの間にっ!?」
「今です。」
「なんてこと、様子を見に行きますわよ!」
うっかり意識がふわふわ回想に飛んでおりました、小声でラウルに指示して共に立ち上がります。さっさと片付けてカレンちゃん達がいたブースへ。
あった。
「殿下、俺が取りま」
カレンちゃんの教科書ですわーっ!!たぶん。
わたくし思わず、机の下に落ちたそれを拾い上げようとして頭を強打致しました。痛いっ!
「俺が取ります。」
「ぐぅうう……なんという痛み……!」
涙を堪えて震えるわたくしに、ラウルが生活算術の教科書を持たせてくれます。要は算数ですわね。ぶつけた所を見てもらいましたが、幸いにも赤くなったりこぶができたりはしなかった様子。
「長引くようなら医務室行きますか。」
「そうですわね。まずは取りに来るだろうカレンちゃんにこれを――」
わたくし、意気揚々と自習室の入り口へ足を向けました。
痛みはあれど上機嫌だったのです、間違いなく無事な教科書を渡せると思って。来週がアロイスの登場イベントですわと確定して。何曜日かはわかりませんが……。
ガッ、と音がしたのです。
床に障害物なんて何にもないのに、わたくしが躓いた音。手を離れた教科書を見てそれはもう慌てます。落ち着いて考えてみれば、水場でもあるまいしただポンと床に落ちるだけとわかったはずなのですが。
とにかくわたくしは慌てました、焦りました、むにゅうと顔を歪めて必死になりました。
体勢を立て直そうと無意識に踏み出した足で床を蹴り、教科書に向けて跳んだのです。
宙を舞ってぱらりと開いた教科書の、柔らかいページを握り締めました。
「殿下!」
「ぶぎゅう!」
受け身とは何ぞや。
学んだものの咄嗟に頭が思い出す事も身体が動く事もなく、うつ伏せに倒れ込んでしまいました。痛いっ!ものすごく!痛いっ!!
スカートが長いので淑女の秘密はそこまで心配しておりませんが、あちこち内出血したかもしれません。
「い、いたた……」
「すみません、間に合いませんでした」
「いいんですのよ、わたくしが…」
前に跳ばなければきっと、ラウルの手は届いたのです。
必死な声とすぐに助け起こしてくれる腕に、むしろこちらが申し訳なさを感じてしまいます。ぱちぱちと瞬いて、手元を見やれば。
「あ……あぁっ!?」
かかかカレンちゃんの教科書が!見るも無残な姿に!
一体誰がこれを、と思うまでもなく、ビリィと破けたページはわたくしの拳が握っておりました。つい辺りを見回せば、一部始終見ていたであろう自習室の生徒達がサッと目をそらします。
「な、なんてこと……」
「どこが痛いですか?肘と膝は。」
手を借りて立ち上がったわたくしのスカートをラウルが軽くはらって、ああどうしましょう。
「痛いです、けれど…き、教科書が」
「弁償すればいいでしょう。ともかく医務室へ――」
「ロズリーヌ殿下?」
自習室の入り口から聞こえた声に、反射的にそちらを見ました。
従者を連れたシャロン様が、目を丸くしてわたくしを、この手にあるボロボロの教科書を。
「あれ、シャロン…様、どうしたの?」
「あ…っ」
とたた、と聞こえた足音にシャロン様がはっとして声を漏らします。
そのまま顔を覗かせたカレンちゃんは不思議そうにわたくしを見て、ぎょっとして固まりました。
血の気が引くとは、まさにこのこと。
わたくし、悪役を担う事から逃れられないんですの?
心を入れ替えてもこうやって駄目になって、あえなく牢屋行き?決まった未来なのかしら。
いじめるつもりなんて、嫌がらせをするつもりなんて、なかったのに……理由を話したいのに、違うと言いたいのに、喉がきゅっと締まったようで、唇が震えて、恐怖が邪魔をして、上手く声にならな…
「申し訳ありません。」
聞き慣れた声がして、わたくしの一歩前に出たラウルが頭を下げました。
わたくしは破けた教科書を握り締めたまま。
「忘れ物に気付いて、届けて差し上げようと話していたのですが……ご存知の通り殿下は運動神経が悪く、転んだはずみでこのような事に。明朝には新しい物をお渡しします。」
「えぇっ!す、すみません!私が忘れたばっかりに」
赤い瞳を丸くしたカレンちゃんが、大丈夫ですかと心配そうに駆け寄ってきます。わたくし、鈍くさくて、貴女の教科書を破いてしまったのに。
カレンちゃんは破けた教科書を引き取るとばかり手を差し出して、もちろんラウルが「新品で返します」と断りますわ。当たり前です。
すると床に散ったページの欠片を拾おうと屈んでしまうものだから、まだ声の出ないわたくしも慌てて屈もうとして、それを白い手がそっと留めました。
「殿下、痛みませんか?」
気遣わしげな薄紫の瞳をわたくしに向けて、シャロン様は……わたくしを咎めて追い返す役であるシャロン様は、わかっているとばかり頷いてくださいます。彼女の従者はカレンちゃんと一緒に散らばったページを拾って、ラウルに渡していました。
「ご無理なさらず、医務室で診て頂いてください。何が起きたかと驚きましたが、事情はわかりましたから」
「し…信じてくださるんですの?わたくしが、わざとじゃないと……」
ぶるぶる震えながら聞くと、シャロン様は愛らしい目をキョトリと見開いて。
「もちろん信じております。殿下は、カレンや私のために怒ってくださったではありませんか。」
花が咲いたように優しく、微笑んでくれたのでした。
涙腺ダムが決壊したわたくしは泣きながらカレンちゃんに謝り、彼女は恐縮しきりで首を横に振り、わたくしラウルに引きずられるようにして退場致します。さようなら皆様っ!
「ふぐぅうう……!ラウル、あり、ありがどうごだいばすわ……!あなっ貴方が、いなかったらわだぐし、わだぐじは~っ!」
「大丈夫ですから、黙って顔拭いててください。俺がいなくたって、あの子達はちゃんと話を聞いてくれましたよ。たぶん」
「ううぅぅうう……か、カレンちゃんに最高級の教科書を…」
「何ですか最高級の教科書って。一種類しかないでしょ」
「ぞうでじだわ……」
ぐずぐずと止まらない涙を拭いて鼻をすすりながら、わたくし、思っていた以上に本当は不安だったのだと知りました。
ラウルは破れた教科書を片手に持っていて、信じてもらえたのにまだ心臓がちくちくと刺されるように痛くて、怖くて、それを見やったのです。
わたくしに破かれるという末路から逃れられなかった、哀れな本を。




