321.初めての重さ ◆
『ですから、ここの解は……』
『なるほど…すみません、やっとわかりました。』
放課後の職員室を訪れていた私は、頭を悩ませていた答えがわかってほっとした。
《生活算術》の担当であるスワン先生が優しく微笑んでくれる。
先生は私と同じように髪を二つの三つ編みにしているけど、長さは胸の下まであるし色は綺麗な金色で、身体の前側に流してあるのがちょっとオトナだ。レベッカは「そうかあ?」って言ってたけど。
二十代前半と先生方の中では若くて、身に付けてるのは白いカチューシャや落ち着いた色合いの長いシフォンスカート。アーモンド形の目と茶色の瞳は、いつもちょっぴり自信なさげだ。
『フルードさんなら、落ち着いて解けば大丈夫ですよ。』
『そう、でしょうか…ありがとうございます。』
スワン先生にお礼を言って職員室を出る。
先生は魔法学の初級も担当していて、貴族の子供達なんかは「平民に教わりたくない」と反発してる人もいるみたい。そんな事したって担当の先生は変わらないから、真面目にやらなければそれだけ自分の成績が下がるだけなのに。
隣国の王女様がしょっちゅうスワン先生の授業を邪魔するのも、一年生の貴族の態度が悪い理由の一つだと思う。
名前もわからない子がヒソヒソ言うのを聞いちゃったけど、「王女様も大概だけど、あの女がビクビクするのは見てて楽しいわ」なんて。優しいスワン先生が宥める声より、王女様の怒鳴り声の方が大きいってだけなのに。
一度完全に授業が止まった時はシャロンが立ち上がって、「恐れながら」と王女様に注意……苦言を呈した、って言うのかな?
シンと静まり返った教室で、王女様のよくわからない勝手な言い分と、シャロンが静かに言い返す声だけが響いていた。植物学の時みたいに王女様は怒って出ていって、それからは、相変わらずうるさいけど授業を止めるまでにはなってない。
シャロンは、「言い方や仕草で受け取られ方が変わる」と言っていた。
自分の主張は宥めようとしたスワン先生と一緒で、だけど目線とか姿勢とか声、口調、そういうのが違っただけだって。確かに、シャロンが立ち上がって目を合わせただけで王女様は怯んでた。私にはそういう事ができない。
時々、シャロンやレオがいないのを見計らったみたいに王女様達に絡まれた。
「何で平民が殿下達と」、「邪魔」、「みっともない色」、「気持ち悪い」……例を挙げるとキリがないくらい色々言ってくる。
ウィルフレッド様達と仲良くなりたいなら、礼儀正しくただ普通に話しかければいいのに。
『ふぅ……。』
職員室に行ったのは初めてだったから、なんだか緊張しちゃった。
一階に降りてからつい、ほっと息を吐く。手に持ったままでいたノートや教科書を鞄に入れて、せっかくだから寮に戻る前にどこか寄ろうかと考えた。憂鬱な気持ちを忘れたい。
そういえばウィルフレッド様が、調べ物をしないとってお昼に言ってた。図書室にいるかもしれない。
サディアス様も一緒かな、彼は放課後には時々自習室にいるみたいだけど。アベル様は剣術のイメージがある、訓練場で会えるかも。
どうしようかな。
さっき中庭でチェスターさんを見かけたし、温室に行ってじっくり薬草の見分けを復習するのも良いかもしれない。
【 どこへ行こう? 】
私は――…訓練場に来てみた。
金属と金属がぶつかり合う音が響いて、放課後なのにちょっとした人だかりができている。女の子達がキャーキャー声を上げて、男の子達もうおおお!なんて叫んでいた。
着ていたローブのフードをかぶって、ひょっこり覗いてみると。
レイクス先生とアベル様が剣をぶつけ合っていた。
きっと事前の約束じゃなくて急に始まったんだろう、アベル様は運動着に着替えてすらいない。二人共上着を脱いでて、それはベンチの背もたれにかけてある。先生から距離を取ったアベル様が片手でネクタイを緩めると、女の子達から悲鳴が上がった。
二人の距離が近付くと全然目が追い付かない、耳に響く音と飛び散る火花ですごい戦いだって事だけはわかる。
見学の人達がこんなにうるさいのに全然気にしないで、お互いに集中してるみたいだった。
『きゃあああ!レイクス先生―!!』
声の高さがすごい。
『アベル殿下ぁあ!こっち見てぇえ!』
たぶん、絶対に見ない。
『さすが第二王子、レイクス先生相手によくやるよ…』
『うわっ!何で今の防げるんだ?』
『あれでバランス崩さない意味がわからん。』
『二人共モテ過ぎだろ。滅しろ…』
男子は大体がちゃんと試合として見てるみたい。なんか違うのも混ざってた気がするけど。
――…改めて見ると、あんなに真剣なアベル様あんまり見ないかも。
彼はいつも余裕があって冷静で、そんなところがすごいと思ってた。私はいつも、余裕がなくて落ち着かないから。
力強くぶつかり合う剣が太陽の光で輝くのを、アベル様が汗を流して戦う姿を、いつの間にか固唾を飲んで見守っていた。
かっこいい、素直にそう思う。
あんなに速く動いて、重たい剣を振り下ろして、薙ぎ払って、たとえ避けられたってまるでわかってたみたいに踏み込んで、時には先生の腕を蹴りつけたり、危ないのに上手く剣の平たい部分を殴ったり――ど、どうやってるのそれ!?
ぽかんと口を開けて見ている内に試合は終わって、解散の気配に私は慌てて隅っこの木に隠れた。
見学してた人達に気付かれたくなかったからだけど、皆一斉に二人に話しかけに行っていて私には気付きそうにない。
取り越し苦労だったかな……あぁ、アベル様に話しかけた人達が蜘蛛の子を散らすように逃げていく。たぶん睨まれたか怒られたかどっちかだ。
レイクス先生は離れたところで皆と話してあげている。
快活に笑ってるけど、ちょっと息が乱れてるみたい。なんとなくローブの袖を口元にあててじっと先生を見る。剣術の上級クラスと格闘術を受け持つ先生を、あんなに疲れさせちゃうなんて――…
『何してるの。』
『――~~~ッ!!?』
し、心臓が口から飛び出るかと思った!
私いま、地面からピョンッて飛んじゃったかな?それも見られたのかと思うと顔が真っ赤になる。いつ、いつからそこにアベル様がいたの?
『い…いつから』
『今だけど。ここで何を?』
『ごめんなさい、あの、見てました。』
『…何で謝るのかな』
ため息混じりに言って、アベル様は上着を手に取った。
そっか、私アベル様と先生が上着を置いたベンチのすぐ傍の木に隠れちゃってたんだ。
汗ばんで少し息を切らしたアベル様なんてまずお目にかかれない。
珍しい姿をつい見ていると、風が吹いて彼の黒髪がさらさらと揺れた。
暑いのか上着は腕にかけたまま、長い指が髪を掻き上げてどきりと心臓が鳴る。そのまま飛び出ないようにぐっと唇を閉じた。長い睫毛が金色の瞳に影を作っている。
なんて、きれ…
『何。』
『ひっ!』
袖で口元を押さえてるとはいえ、思わず悲鳴を上げちゃってますます手に力を込める。
肩はびくんと跳ねて心臓は早鐘のように鳴ってるのに、その原因であるアベル様は落ち着いた様子で自分の顎に手を添えた。
『君は本当に毎回驚くね。』
『ご、ごめんね!見てすみません!』
『見るなとは言ってないでしょ。僕に用があるの?』
『用があるってわけじゃなく……つい見ちゃったというか。』
『ふぅん?』
こっ、これじゃ見惚れてましたって言ってるようなものじゃないかな!?
違うんです、その。なんて声が勝手に漏れてしまう。えっと、えっと。
どうしよう、いっそ開き直って「かっこよかった」って白状するべきなのかな。
それとも「剣術に興味があるの」とか?
【 アベル様になんて言おう? 】
『試合を見てたらね、私も…剣術に興味が出てきたっていうか。だからつい、アベル様はすごいなーって……』
苦しい!苦し過ぎるよ私!!
護身術とかだって取ってないのにいきなり剣術なんて!顔赤くなってるだろうし、私が剣術なんてできるわけない。信じてもらえるわけ…
『そう。じゃあこっち来なよ』
『え?』
俯けていた顔を上げると、すたすたと歩いていくアベル様の背中が見えた。
レイクス先生に挨拶とかしなくていいのかな?と振り返ったけど、先生はまだ生徒に囲まれて離れられなさそう。私は慌ててアベル様の後を追った。
校舎の外周にある寮や教会、裏庭、温室、訓練場といった施設は木立で仕切られてる。
アベル様は訓練場から木立を突っ切ってコロシアムの外側に来て、他に人がいないのを確認するみたいに辺りを見回した。さすがに放課後のこんな場所に人がいるとは思えない。
どうするんだろうと目を泳がせていたら、アベル様は持っていた剣を差し出してきた。
刃が潰された剣。確か訓練場の備品だ。
『持ってみて』
『は、はい――っ重い!』
アベル様が手を離した途端にズシッときて、刃先が地面に落ちてしまった。
確かに重そうだとは思ってたけど、こんな物を振り回してたの?片手で振ってる時もあったのに。私は両手で柄を握り、プルプル震えながら持ち上げた。…重いよ!
『頑張っても、一回振り下ろすくらいが限界かも……』
『手の位置が端過ぎる。これくらい』
すらりと真剣を抜いたアベル様がお手本を見せてくれて、私は一度刃先を地面につけてから真似して握った。確かにさっきよりは持ちやすい。まだまだ重いけど。
アベル様の剣は構えたままピタリと空中に止まってるけど、私のはカタカタ震えてる。下ろして良いと言われてすぐに従った。刃は潰してあるとはいえ、地面には跡がつく。アベル様は綺麗な動きで剣を鞘に納めた。
『君が剣術に興味を持つのは悪くない。今後もウィル達と付き合いたいなら、自分でも身を守れた方がいいからね。』
びっくりしてアベル様を見つめた。
自分で身を守れた方がいいとか、剣術に興味を持つのは悪くないとか……本気で言ってるのかな。
『何?』
『わ…私なんかに、できるのかな……』
どうしてか、そんな事を聞いていた。
目をそらして俯いて、私には無理だと思いますって言おうとしたはずなのに。
なのに私はアベル様の、真っ直ぐに私を見てくれる金色の瞳をじっと見て、情けない声で聞いてしまって。
『馬鹿だな』
ふんと鼻で笑って、彼は私の手から剣を取り上げる。
目がそらせなかった。だって、
『不安がる前にやってみせなよ。カレン・フルード』
挑発するような言葉なのに、声も、少し細めた目も、薄く笑う表情も全部優しくて。
きっとできるよって言われるよりずっと心に沁みた気がした。
私が「やらない」と決めたらその先に可能性があるはずもなくて、
私が「やろう」と決めたら、可能性があるのは当たり前なんだ。
そんな簡単な事に気付いて、そして知ってしまった。
アベル様が、優しい人だって事を。
『――…、やって、みます。』
『……何で泣き出すんだ。』
『ご、ごめんね』
『怒ってはない。理由がわからないだけ』
『大丈夫です…』
ぎゅっと眉を顰めちゃったアベル様に、私は服の袖で涙を拭って笑いかけた。
バツが悪そうな顔をしてるから、アベル様のせいじゃない事だけは一生懸命伝えておく。
『……知ってるだろうけど、女性でも騎士はいる。』
泣き顔を見られたくないだろうと思ったのか、アベル様は私から思いきり目をそらしてくれている。あっ、もはや背中を向けられちゃった。
『職務は多岐に渡り、花形とされるのは王妃殿下の近衛だ。』
『王妃様の…』
『実力があってよほど信頼できる者でなければ任せられない。入団後の成績と、その時の王妃本人からの信用がいる。目指せとは言わないけど、知ってても損はないんじゃない。』
『……うん。ありがとう、アベル様』
まだまだ初心者どころか素人で、もし騎士になれたって、私にそんな仕事が務まるとは……まだ、思えないけど。
卒業するまでまだ三年半以上ある。
長い時間だ。少なくとも今の私より成長できるって事くらいは信じられた。
『がんばってみようかな』
ぽつりと呟いたら、「好きにすれば」なんて素っ気ない声が聞こえる。
そのまま歩き出しちゃったアベル様が、さっきみたいにちょっぴり笑っててくれたらいいなって――…そう、思った。
ハピなし、150万字を突破しました。
読了目安によると読むのに丸二日ちょっとかかるそうで、びっくりです。長い…
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