309.欠陥王子 ◆
アベルが三歳の時だった。
自身を取り巻く環境がまだわかっておらず、ウィルフレッドと常に一緒にいた頃だ。同じベッドで起きて、一緒に食事をとり、共に遊び、学び、湯を浴びて、笑い合って、時に喧嘩して、それでも寄り添って眠る。
すやすやと無防備に眠っていた夜中、それは突然起きた。
『――ッ、ぁ………!!』
叫べなかった。
身体がビクリと跳ね、隣で寝ていたウィルフレッドが驚いて目を覚ます。
ナイフを右の首筋から体内へ、心臓へ向かって無理やり突き込まれたかのような衝撃だった。
絶叫して気が狂ってもおかしくないほどの痛みが幼い身体を襲い、急激に全身の体温が下がっていく。あまりの事にアベルは息ができず、だからこそ叫べなかった。大人が知る事もなかった。
本能的に生を求めた彼の身に何が起きたのか、知る者はいない。
『アベル……アベル?どうしたの、アベル』
――いきができない、いたい、いきができない、いたい、だれかがなにかをしている、わからない、いたい、いきができない、くるしい!!
小さな手で首筋を押さえてもがく弟の姿に、ウィルフレッドはその苦痛を察して涙を流した。大人を呼ぶという発想もまだできず、暴れる弟をただ必死に抱きしめる。
『だいじょうぶ、アベル、』
『……ッう、あ』
『ぼく、ぼくがいるから』
『は、……はぁ、う、う゛ぅうう』
ウィルフレッドが抱きしめてくれる温もりだけが、自分と変わらない小さな腕だけが、泣きながら自分を呼ぶ声だけが、その時アベルに頼れた全てだった。
必死に縋ったせいでいつの間にかウィルフレッドの腕を握り、その骨を折っていた。アベルがそれを知るのは後の事だ。
『らい、じょうぶだからっ……アベル、』
『ふっ……ぐ、ぅう……はぁっ、はあ』
『ぼくがいるから、だいじょうぶ……!』
激痛と身体を駆け巡る何かに意識を飛ばされそうになりながら、寒さにガクガクと震えながら、アベルは呪文のようにウィルフレッドの言葉を繰り返した。
――だい、じょうぶ。だいじょうぶ、だいじょうぶ。ウィルが、ウィルがいるからぼくは、だいじょうぶ。ウィルがいるから、だから、だからぼくは、だいじょうぶ――……
徐々に、ほんの少しずつ呼吸ができて、明滅する視界の中でだらだらと冷や汗を流しながら。
ようやく顔を上げ、自分より泣いているウィルフレッドを見て、辛うじて名を呼んだ。
『…ウィ、ル……』
『うん、ぼく、ぼくここにいるよ。』
『い、たい……いたい、いたいよ…』
『だいじょうぶだよ、アベル。だいじょうぶ』
『くるし……はぁっ…たすけて……!』
『たすけるよ。ぜったい、ぜったいにたすけるから――…!』
光が見えたと、証言がある。
扉の隙間から廊下へ漏れた微かな光を、警備の騎士は見間違いかあるいは女神の囁きだと言った。
万一侵入者ならばと部屋の扉を開けてみると、双子の王子は互いを抱きしめるようにして眠っている――否、気絶していた。
明らかに暴れたのだろう証拠に布団はぐしゃぐしゃになり、ぐっしょりと汗を掻いているのに第二王子は氷のように冷たくピクリとも動かない。第一王子は片腕が折れ真っ青になって呻いていた。
城は大騒ぎになりすぐに上級医師が呼ばれ治療が行われた。
ウィルフレッドの腕は柔らかい骨に後遺症が残らぬよう丁寧に丁寧に治され、原因不明の低体温に陥ったアベルはとにかく温められた。
『何があったのですか?』
『……?わからない。どうしたの、みんなあわてて。』
骨折の痛みのせいか幼さのせいか、目覚めたウィルフレッドは何も覚えていない。はっきりと手の跡が残っていた事から、信じがたくともアベルが兄の腕を折った事は確かだった。
『昨夜の事を覚えていませんか、アベル殿下』
『どうして兄君の腕を』
『何か喋ってください。聞こえていますか?』
『なぜ黙るのです。』
『…そもそもどうやって手掴みで折った?恐ろしい子だ…』
『首を振るだけではわかりませんよ』
見えない何かが、首から胸まで深く突き刺さったまま。
痛みの代わりに圧迫感と重苦しさが常にあり、アベルは自分が死なないよう呼吸するだけで精一杯だった。喋る気力などあるわけもなく、「喋れない」と伝えたくて首を横に振っても理解されない。
白衣を着た中で彼を責めなかったのは一人だけだった。
『……室長、呼吸が浅過ぎる。何か――』
『黙っていろネルソン!俺が診たんだ、第二王子殿下の身体には何も異常が無い。』
『俺にはそう見えない。せめてナイトリー先生を呼び戻して診せるべきだ』
『あの女より俺が劣るとでも!?体温も戻った、異常もない、この子は健康だ!黙っているのは子供の我儘だ。』
『しかし…』
ネルソンと呼ばれた男は他の医師達に強引に追い出され、城内で見る事は二度となかった。
ウィルフレッドとアベルは寝室を分けられ別々に寝るようになり、アベルは一時期まったく喋らなかったが、僅かずつ話せるようになる。
息苦しさと圧迫感、時折訪れる痛みなどを訴えその度に国王夫妻は心配したが、医師の診断は常に「健康」だった。
『……仮病が使えるのは今の内ですよ、殿下。』
『陛下達の気を引きたいのでしょうが…問題なしと書きますから。』
『ふう……我々にも仕事がありまして。苦しいとおっしゃいますが、嘘ですよね?』
数回でアベルは諦めた。
医師達の目つき、表情、声色、仕草、全てがアベルを信じていないと言っている。
悲しい顔で「今日はどうですか」と聞いてくる母に、「もんだいありません」と返すようになった。どれだけ息が苦しくても。「本当に?」と撫でてくる母に、「はい」と答えて。
『アベル、さむいの?』
自室を訪ねてきたウィルフレッドに、アベルは布団にくるまったまま頷いた。
そうすると兄は勝手にベッドの中へ滑り込んで、遠慮する弟を強引に抱きしめる。
『だいじょうぶだよ、アベル』
『……うん』
『わぁ、つめたい。でもへいき、ぼくがいるからね。すぐあったかくなるよ』
『うん……』
大丈夫だと、その言葉を心の中で繰り返す度に、寒気が遠のく気がした。
苦しさが和らぐ気がした。
『…ウィル。いきがね、ちょっとくるしいんだ。』
『せなかさする?よしよし。』
ウィルフレッドは、アベルを嘘つきだとは言わない。仮病だとは言わない。
白衣を着た嫌な医師達を呼びつけたりはしない。
『ぼく……どうして、こんななんだろ……』
『だいじょうぶ、なかないで。ぼくがついてるから。だいじょうぶ。』
『ごめんね、ウィル……ごめんね…』
『なにをあやまるの。ぼくはアベルがいるからだいじょうぶだし、アベルはぼくがいるからだいじょうぶなんだ。ね?』
『うん……ありがとう……』
少しずつ、少しずつ。
アベルは本当に、まるで何もないように振舞えるようになった。息苦しさのせいで時折、咳は出たけれど。
『アベル、さいきんげんきだ。ぼくはうれしい!』
『ウィルのおかげだよ。』
苦しみも不安も飲み込んで、何もないように見せられるようになった。
『きみみたいになるには、どうしたらいいだろう。』
『俺ですか?』
アイザック・ブラックリーと出会い、息苦しさを減らす事にも成功した。咳も出なくなった。
根本は何も変わらない。
『……僕は、何なんだろう。』
圧迫感に慣れ、苦しさを正しく殺気と認識し、逃れられないと理解した。
『欠陥品だ』
せめて、ウィルフレッドのために。
嫌われても厭われても構わない、誰に恐れられても構わない、人殺しと言われようがどうでもいい。
兄の治世を脅かす可能性がある輩を一人でも多く炙り出し、消さなくては。
『アベル、俺は王になるよ。』
自分が壊れる前に、いなくなる前に、できるだけの事を。
『他ならぬお前が信じてくれるのだから、きっと立派な王になってみせる。』
よりよい組織を、人間を、次代を――兄を支える者を。
王妃となる者を。
◇ ◇ ◇
長い夢を見ていたような、意識を後ろに引きずられる感覚で、アベルは目を開けた。
柔らかな香りに包まれている。
上品な甘さのある、記憶に強く残っている彼女の香り。
薄暗い部屋の中で腕に頭を乗せ、目に入った光景をぼんやりと眺めていた。
仄かな灯りに照らされた彼女。
薄紫色の艶やかな髪、肌は白くなめらかで、それを指の背でなぞる感触をアベルは知っている。細い眉の下、長い睫毛に縁どられた目は真剣に本を見つめ、薄紫の瞳は火の明かりを受け、ゆらゆらと湖面のように輝いていた。
もし彼女がこちらを見たら、きっと微笑むだろう事を知っている。
花の蕾がそっとほころび咲き誇るように、自分のような欠陥品を相手に、とうに血濡れた恐ろしい王子に――まるで大事なものを見るように優しく、彼女は笑うのだ。
アベルは無意識に微笑んでいた。少しだけ、困ったような顔で。
――夢にまで出てくるとは、ご苦労な事だ。
「シャロン」
名前を呼ぶと、彼女はぱちりと瞬いた。
今までの真剣な顔はどこへやら、アベルを見てふわりと微笑む。
それは想像していたより、さらに――…
「アベル、起き…」
「ちょっと待て。」
「え?」
目が合った瞬間にギッと眉を顰められ、シャロンが聞き返す。アベルはほとんど睨みつけるような目で呟いた。
「本物か?」
「……えぇ。ジャッキーではないわ。」
シャロンが答えると、アベルは彼女に向けていた顔を俯けて深いため息を吐く。かなりの疲労を吐き出すような様子に、シャロンはちょうど読み終えていた本を閉じて彼に向き直った。
「大丈夫?」
「……俺は今何を考えていた……?」
「…さすがに、知らないわね……。」
「当たり前だ…。」
「まぁ。」
さては寝ぼけているのねと、シャロンは密かに笑う。
けれど「ふふ」と音が漏れていて、もちろん第二王子殿下にはじろりと睨まれてしまった。
「何でここにいるんだ。」
「偶然、ふと本を探しに来たのよ。そうしたら貴方がいて。」
身を起こしたアベルは自分にかけられていたローブに気付く。するりと外して有無を言わさずシャロンの身に纏わせると、身体が近付いたせいか彼女の香りが鼻を掠めた。
少しだけ視線を泳がせる彼女の頬が色づいて見えるのは、ランプの明かりのせいだろう。
「ありがとう…貴方は寒くない?」
「平気だ。……いつ来た?」
「さっき…えぇと、何分くらいかしら。」
曖昧な事を呟くシャロンの声を聞きながら、アベルはベストのポケットから懐中時計を取り出した。十時まで仮眠をとるつもりが、今は十時半だ。
「三十分…」
「まさにそれくらいだわ。よくわかったわね……もしかして、来た時に一度起こしてしまっていた?」
「……はぁ。」
どこが「さっき」なんだと言いたい気持ちを飲み込み、アベルは黒髪をくしゃりと掻き上げる。なぜかきちりと畳んでおかれているネクタイを取り、慣れた手つきで軽く締めた。
「こんな時間に一人でうろつくな。不用心だ」
「そのままお返しできるんじゃないかしら。」
「俺は誰か来たら気付く。」
「気付かなかったじゃない、三十分も。」
「………。」
正論でしかない。
アベルは苦虫を嚙み潰したような顔で腕を組んだ。
「隣に座っても、ローブをかけても、撫でても起きなかったわ。」
「何だと?」
聞き捨てならない台詞に眉を顰めると、シャロンは「あっ」と口元に手をあて目を丸くする。どうやら本当に撫でたらしいと察して、アベルはなぜ今この時が夢ではないのかと真剣に考えた。夢で然るべきだ。
――触れられてなお起きなかったのか、俺は。
完全に失態だ。
シャロンは少し照れたように笑っている。今にも「クリスによくやっていたの」とでも言いそうな顔で。
「ごめんなさい。眠る貴方がなんだか可愛らしかったから、つい。」
予想を超えてくる女、それがシャロン・アーチャーだった。こんな所で超えなくていいとアベルは心底思う。
言っている意味が理解できずに、しばし彼女を見つめた。正気かと。
「そんなに「わからない」って顔をしなくてもいいのに。」
「…わかってたまるか。」
「そう?ふふ、では次からきちんとベッドで眠る事ね。」
薄紫の中に黒色が写り、シャロンはころころと笑っている。さっさと話題を変えるべきだと判断し、アベルは口を開いた。
「チェスターから例の件を聞いた。」




