286.本当に幸せでした ◆
サディアスが目覚めた時、両の手首には枷が嵌っていた。
『っ、う……』
ひどく痛む頭を抱え、直前まで見ていた悪夢の恐ろしさに彼は身を震わせる。
全身にぐっしょりと汗をかいていた。
朧げな視界の中、ベッド脇に置かれた眼鏡を取る。蝋燭の明かりらしきものに照らされ、ここが檻の中だという事はわかっていた。それにしてはひどい匂いもせずベッドも固くないので、良い待遇を受けてはいるようだ。
手がカタカタと揺れて上手くいかなかったが、なんとか眼鏡をかける。瞬いて、鮮明になった周囲を見回す。
自分が騎士団の牢の中にいると気付いた時、悪夢は現実の出来事だと確信した。
――どうやって死のう。
真っ先に考えたのはそれだった。
魔力の高い囚人を捕えるため、手だけでなく足にも嵌められた枷は豪勢に黒水晶が使われている。魔法を使う気など僅かたりとも起きないのに。さらには舌を噛み切る事ができないよう、柔らかい素材の猿轡も噛まされていた。
あの時――全て蜃気楼に包まれたような朧げな視界は、幻影と呼ぶに相応しい悪夢だった。
もういないはずの《彼》がいた。
こちらへ手を伸ばし近付こうとする、《彼》が。
サディアスは絶叫し、その存在ごと拒んだ。
幻影を消し去るべく、最も得意な攻撃魔法を放った。
しかしありえない発動の仕方をしたそれに気を取られ、瞬いて――気絶する前の一瞬。その光景だけ、全てが鮮明で。
《彼》の幻だと思ったのは背格好も色合いも違うはずのウィルフレッドで、彼を庇って炎を受けたのはアベルだった。
生涯の主と決めた相手が血を吐く姿を、
致命傷を負う姿を、
見た。
『極刑に。』
自殺しないよう監視されながら、猿轡を外されたサディアスの希望はそれだけだ。
檻越しに自分を見つめる騎士団長と、目を合わせる事もなく。
『如何なる苦痛も受け入れます。』
『貴方が望んでやった事ではないのに?』
『あの方を失った損害の大きさが……わからない貴方ではないでしょう。ウィルフレッド様には…チェスターを従者として――』
『彼なら死にましたよ。』
『…え……?』
一瞬、何を言われたかわからなかった。
初めて顔を上げたサディアスは、クロムウェルの顔を見てそれが事実だと悟る。
『オークス公爵邸で、遺体となった叔父と妹、身元不明の男と共に発見されました。』
『……馬鹿な…』
『法務大臣閣下や第一王子殿下は、貴方の助命を陛下に願い出ています。ニクソン家にダメージ無しとはいきませんが、貴方は被害者として早めに爵位を――』
『止めさせてください……』
考えるより早く、サディアスは掠れた声で呟いていた。被害者ぶってのうのうと生きろと言ったのだ、この男は。
困り眉を僅かに顰め、クロムウェルは首を横に振る。
『私にそんな権限ありませんよ。アーチャー公爵令嬢も、目撃者として貴方に罪は無いと訴えています。……十中八九、無理矢理生かされるでしょう。さっさとそれを覚悟するべきです。』
『私は』
『枷を。話は終わった』
『待ってください!私はッ――』
サディアスの抵抗も虚しく、クロムウェルは牢部屋を出て行ってしまった。
急に自由を得るよりも、先に生きる覚悟を決めておけと。
誰もいなくなって再びの静けさに、サディアスはぼんやりと天井を見つめた。
――助命?
猿轡に邪魔され、乾いた笑いは微かな音を立てるだけだ。
父親は家のイメージのためにも、サディアスが戻れるならそのまま使おうという算段だろう。ウィルフレッドとシャロンは、お優しい彼ららしい話だ。本当にサディアスを被害者としか思っていない。
幻覚に惑わされたのも、恐怖に屈して消そうとしたのも、サディアス自身の弱さなのに。
――やめてくれ。やめてくれ、そんな事は。
死ではなく生きて正しく役に立ち償えと、まるでそれが救いでも罰でもあるかのように人は言う。
違う。
心に決めた主君を殺した以上、苦しみの末に死んで詫びねばならないのだ。生かされるなら拷問や過剰労働のためでなくてはならない。全てが罰でなければ。
そうでないなら死ぬべきだ、生きる事が許される存在ではないのだから。
アベル・クラーク・レヴァインを殺した罪はそれほどまでに重い。
――誰よりも何よりも私自身が、私が生きている事を許さない。
騎士団が、国が、ウィルフレッドが、殺さないならば。
自分で死ななければ。
それからはずっと、時間の経過も計らずに死ぬ方法だけを考え続けて。
ウィルフレッドやシャロンも面会に来たが、サディアスは決して二人の手を取ろうとはしなかった。
牢部屋の扉が開く重厚な音がして、誰かが檻の向こうにやって来る。
燭台の炎が揺れた。
サディアスは枷をつけられたまま、寝台で仰向けになり天井を眺め続けている。ろくに食事を取らず身体は痩せ細り、目の下にはくっきりと隈ができていた。
飢えで死ぬのも一つかと考えるけれど、その前に医師の手で無理やり食事を流されるだろう。
なにせ罪状は王族殺しだ。
きっと騎士団は、正式な刑罰以外で見殺しにはしてくれない。
――今日は誰が来たのだか。何を言われても私の心は変わらないのに…
『サディアス』
冷徹とも言える落ち着いた声に目を見開き、サディアスは久方ぶりに自分から起き上がろうとする。力が足りず肘を寝台について上半身を起こし、ややあって水色の瞳を向けると、来訪者は牢の鍵を開けて中へ入ってきた。
闇に溶けるような漆黒の長髪。
黒布で顔の下半分を覆い、前髪を留める金色のヘアピンは部屋の灯りを反射した。
リビー・エッカート。
視界はぼやけていようと、特徴と身のこなしでその名前が浮かぶ。
リビーはサディアスに駆け寄ると、迷わず猿轡を外した。動揺した様子の彼に眼鏡をかけてやり、水の入ったコップを差し出す。
『飲め。ここ最近はずっと黙っていると聞いた。声が出ないだろう。』
『っ……ぁ、りが…』
礼を言おうとして掠れた声を出し、サディアスは大人しく水を飲んだ。
背中に添えられた細くも頼もしい手に、はっきりと見えた彼女の姿に、自然と涙が零れる。声にならない嗚咽が漏れ、しゃくりあげて肩が揺れた。
『リビー…っ私は、私は……!』
『遅くなってすまない。色々と時間がかかってしまった』
サディアスは黙って首を横に振る。
リビーが騎士服ではなく動きやすい私服で来た理由も、腰にいつも通り二振りの愛剣を携えている意味も、理解していた。
『こんな事になるのなら、私は早く…早く、殺しておくべきでした……!』
『相手が相手だ、誰も軽率には動けなかった。お前のせいではない』
『知っていれば……ッ私は、何をおいても……アベル様を…』
『サディアス』
涙を拭ったサディアスが顔を上げるのを待って、リビーは静かに剣の柄へ手をかける。
茶色の瞳には怒りも憎しみもなかった。
穏やかで悲しい、哀悼の目だ。
『お前は私が断罪する。だから安心して死ね』
『…嬉しい、言葉です。リビー……本当に、ありがとうございます。』
予想通りだった彼女の言葉に、サディアスは再び涙を流した。
貴族でも騎士でもなく、ただ一人の人間として深く頭を下げる。理解者がいてくれた喜びを、感謝を、示す手立てが他になかった。
『死は恐ろしくありません。しかし、貴女が罰されてしまうなら自分で――』
『アベル様のいない世に未練などあるものか。』
サディアスの手を掴んで顔を上げさせ、リビーは澱みなくきっぱりと言い切った。
そして力を緩め、ゆらりと光る優しい瞳でサディアスを見つめる。
『共にあの方のもとへ行こう。』
幼い姉弟が寄り添うように互いを抱きしめ、二人は静かに涙を流した。
剣は二振り。
できるだけ長い苦しみをと、一つが突き立てられ捻じ込まれる。
引き抜いて、もう一度。死ぬまで、断罪が終わるまで。服がその色に染まっても、歯を食いしばる彼自身の満足を願って。引き抜いて、もう一度。耐えるうめき声すら消えるまで。引き抜いて、もう一度。ぴくりとすら動かなくなるまで、涙がどれだけ血に混じっても。引き抜いて、もう一度。
果てはあの方のもとへ、たどり着けるように。
『アベル様』
もし見ていたら、すごく怒っているだろう主君へ。
口元を隠していた黒布を外して、リビーは鉄の香りがする空気を吸い込んだ。
『申し訳ありません――今、サディアスと共に参ります。』
もしこの先があるのなら、どうかまた名を呼んでほしいと願う。
それが叶うならどれだけ叱責されても構わなかった。もう一度彼の傍へ行けるのならば。
どんなに望まれていなくても。
『私は…貴方にお仕えできて、本当に幸せでした。』
まだ綺麗な白刃を輝かせ、リビーは微笑んだ。
赤い血溜まりはゆっくりと広がっていく。
長い苦しみからようやく解き放たれたような、安堵の表情を浮かべた二人を中心に。
『……リビー』
檻の前で一人、背の高い男が呟いた。
普段絶えず浮かべている笑みはどこにも見当たらず、声も幾分か低まっている。
『貴女はやっぱり、私を連れて行きませんでしたね。フフ』
自嘲と疲れの滲む吐息は、形だけ無理に笑ったように聞こえた。
彼が黙るとすぐ、牢部屋は死の静けさに満たされていく。
『……この世に生きる事も、選ばなかった。』
たった一人の主君を失ったリビーは、他の主を持つ事も、別の誰かと生きる事も、望まなかった。
お前も共に行こうと、ロイに声をかける事もなく。
『…アベル様、お許しを。』
胸に拳をあて、聞く者も返事もないと知っていてロイは深く頭を下げた。
守れなかった事も、止められなかった事も、これから起きる事も、その全てに対して。
自分の選択をアベルは許さないだろうとわかっていて、ただ自分の気持ちは変わらないと告げるためだけに、許しを請う言葉を吐いた。
アベルが死んだ。
ロイとリビーの主は死んだのだ。
ツイーディア国王にすると決めた兄を、守るために。
ならば、それは正しくなければならない。
誰がどう見ても正しいと断じる程に、正しくなければ。
ウィルフレッドが王になってよかったと、
彼を守りきったアベルは名誉ある死だったと、
誰もが認めなければ。
そうでなければ到底、納得できない。
ロイは騎士団の上着を脱ぎ、旅立った二人の身体へそっと掛けた。もう必要ない物だ。
『――どうか証明してください。ウィルフレッド様』
これより先、どのような試練があろうとも。
彼は全てを乗り越え、世に知らしめるべきである。
『貴方を王にしたアベル様は、正しかったのだと。』
その夜を境に、ロイ・ダルトンは姿を消した。




