264.捨てるべきだった ◆
もう日をまたいだ深夜、カーテンを閉め切った執務室で一人、男は机に向かっていた。
瑠璃色の長髪を低い位置で結い、明るいグリーンの瞳を持つ彼は今年で二十七になる歳だ。
凛々しく端正な顔立ちを燭台の灯りが照らしている。騎士隊長の証である金刺繍の上着は今は脱いでおり、来週に控えた国王夫妻の他国訪問に向け、何十枚にも重なった書類を確認していた。
ノックの音が聞こえ、顔を上げる。
『遅くに失礼、クロムウェルです。』
『入れ。』
真剣そのものだった目を幾分か和らげ、そう返した。
扉が開き、隊長服に身を包んだ男が入室してくる。右側で二つに結った水色の短髪に同じ色の瞳、困ったような下がり眉。十番隊の隊長、ティム・クロムウェルだ。
男は「どうした」と笑いかけようとしたが、ティムの表情を見てやめた。静かに立ち上がる。
『お前が笑っていないとは、どういう事態だ?』
『レイクス隊長、私と共に来て頂けますか。東第四尖塔の地下倉庫です。』
『用件は。』
レイクスは聞きながら上着を手に取った。ティムは唇を開いたが、声を発するまでほんの僅かな間があった。言い淀むように。
『第二王子殿下がお呼びです。』
当時――ツイーディア王国の双子の王子殿下は、六歳だった。
深夜の散歩を許すほど、近衛である一番隊は甘くない。第二王子アベルがそんな場所で待っていると聞き、レイクスは異常事態だという事を強く認識する。
『うちの副隊長を共に待たせてます。あぁ、一番隊の皆様は無事かと。殿下は攫われたのではなく、抜け出したようです。』
『抜け出した?どうやってだ。』
『そこは何とも。それより殿下が見つけた人物が問題でして……オークス団長より先に、貴方に報せるべきかと。』
地下倉庫へ続く階段に着いた時、漂ってきたのは血の匂いだった。
ティムの口ぶりからアベルは無事だろうとわかってはいたが、レイクスは早足に駆け降りる。
兄が死んでいた。
城の文官として勤めていた兄が、血を流してこと切れている。
隅で見知らぬ男が一人、縄で縛られ猿轡を噛まされてガタガタと震えていた。赤髪の十番隊副隊長レナルド・ベインズが、眼帯のない左目でレイクスに目礼する。
倉庫の木箱には、小さな少年が座っていた。
少し癖のある黒髪に、蝋燭の光を受けて輝く金色の瞳。
白く細い首筋から外着の長ズボンまで、誰かの返り血が赤く飛び散っている。顔だけは拭いたのだろう、血のついたハンカチが横に置かれ、小さな手には抜き身の短剣を弄び――
ぞっとするほど冷たい眼差しで、アベルはレイクスを見上げていた。
『これ、は……』
『レイクス。君の兄は人さらいに情報を売っていた』
『兄上が、まさか…』
『次のターゲットはウィルだったそうだ。よって僕が殺した。文句はあるかな。』
『――…、』
幼い声で淡々と告げられた言葉を、レイクスはティムとレナルドの表情から真実だと察する。目の前の子供が嘘を言っているようにも見えない。
ただ死んだ以上、レイクスが兄自身の言葉で聞く事はできなかった。
――なぜ、殺した。いや、その時殿下が一人だったのなら、致し方のない事だ。わかっている。俺の兄はしてはならない事をしたのだ。王家が重罪人を処しただけのこと。
ぐっと歯を食いしばり、レイクスはアベルの前に跪いた。
深く頭を下げて首を晒す。
『ありません。』
『僕はウィルを狙うやつは許さない。…怒っているんだ、とても。』
『一番隊の長を任されながら、親族がこのような罪を犯すなどあってはならない事。……如何様にも刑をお受け致します。』
『わかった。そのまま動くな』
『殿下?』
短剣を握り直したアベルに、レナルドが僅かに目を見開いて声をかけた。
アベルは木箱の上に立ち、片足でレイクスの肩を踏みつけ彼の首へ手を伸ばす。
斬りやすいよう後ろ髪が持ち上げられても、レイクスは微動だにしなかった。
ザクッ。
瑠璃色がパラパラと散る。
一つに結われていた髪束をばさりと木箱の上に放り、アベルは床に着地した。レイクスは閉じていた目を開き、ゆっくりと顔を上げる。小さな背中が目に映った。
『さらった人間をどこへ連れ込んでいるか、残念ながら情報はなかった。僕は明日、自分がさらわれる事で行ってみようと思う。』
『なっ――』
『君に何か言う権利は無い。協力は十番隊に仰いでる』
ティムとレナルドが黙って礼をする。
アベルは短剣を鞘に納め、レイクスを見る事なく呟いた。
『ざんねんだ。……君はもっと早く、家族を捨てるべきだった。』
傲慢で怠惰な伯爵も、長男を溺愛するヒステリックな母親も、気の良い割に浪費家だった兄も、幼少期に親が決めた妻も。
綺麗にいなくなった。
父は「金は持っていく、家はお前に継がせてやるからありがたく思え」と喚き散らし、次男に継がせた上で自分は縁を切るという書状を残した。このままでは一家全員縛り首だという、誰かが流した噂を信じたらしい。
兄が死んだ事で母は抜け殻のように大人しくなっていて、ただ黙って父の後について行った。
何年も離婚を協議していた妻は、爵位を剥奪されると聞いてあっさり受け入れ、宝飾品をかき集めて出て行った。子供まで作った、お気に入りの愛人の所へと。
面倒な両親を持ったと、思わなかったわけではない。
兄がもう少し金にしっかりしてくれればと、妻がもっと貞淑であったならと、思わなかったわけではない。
ただ若くして騎士団で昇進を続けるレイクスに全員がしがみついてきたし、忙しい彼に吠え続ける家族を宥めすかす余裕はなかった。変わってくれという説得は随分前からしていて、届かない事を理解していた。犯罪さえ起こさずにいてくれるならいいと割り切っていた。
領地は信頼できる人間に任せてレイクスが報告を受け、父が出るはずの議会はレイクスに代理出席依頼が届き、兄に金を貸したという人間がレイクスに催促し、夫婦揃って出席するべきパーティーに妻は現れない。
すべて、もう対応に慣れきっていた。
『とんだ計算違いです。』
陽光の下。
引き払った屋敷を最後に眺めていると、後ろから声がかかった。
トランクを手に持ったまま、レイクスは振り返る。もう騎士団を辞したので、恰好はただの旅人だ。
目立つ髪色と団服を長いローブで隠し、ティムがこちらを見つめている。
『俺は貴方が次の団長になると思ってました。お優しい団長殿の下には腹黒い二番目が必要かと考えたりしてたんですよ、レイクス先輩。そうすればレナルドを少し解放してやれたのに』
『…それは悪かったな。』
『ご家族と別れて自由になった。小隊長に落とされたからってやる気を無くすタマじゃないでしょう。何で辞めたんです。』
『――あぁ、なるほど。はは、父上に与太話を流したのはお前か。』
らしいやり方だと笑い、レイクスは三つ下の後輩を見返した。
自分が王立学園の四年だった頃、ティムは色々と目立つ新入生だった。
『俺自身が犯したわけではなくとも、俺の甘さが招いた事だ。騎士団は陛下に仕え、国を守る者。その資格がない。』
『陛下は降格を選ばれたのに?貴方は残るべきだと望まれたんです。』
『とても光栄に思う。陛下とは直接話をして、どうにか承諾を頂けた。』
『……これからどこへ?最低限連絡がとれるようにして頂かないと、国にもしもがあった時、使える人材を遊ばせておく気はないのですが。』
『リラだ。閣下に顔を出すよう言われていてな……その後は決めていないが、落ち着いたら知らせると約束しよう。』
快活に笑うレイクスの表情に影はなかった。
辞めた事への後悔が見られない様子に、ティムは小さくため息を吐いて頷く。
『わかりました。ではさようなら、レイクス先輩。』
『あぁ。殿下を自由にさせるのも程々にな。』
『それは約束しかねますね。あの方が玉座を継がなかった時は、どんな手を使っても入団頂きたいので。』
青空のように爽やかな笑みを残し、ティムは《ゲート》を作り出して姿を消した。誰もいない場所を数秒眺めてから、レイクスは屋敷を振り返らずに歩き出す。
あの翌日、第二王子は本当に自ら攫われた。
現れた人攫いに案内させ、根城に突入して誘拐された者達を救い出す。たった六歳の子供がだ。騎士が到着した頃には既に、敵の全てが地に伏していたという。
レイクスが聞かされたところでは、兄は飲み仲間である九番隊の騎士から貴族の警備情報を得ていたらしい。ラファティ侯爵令嬢やホーキンズ伯爵令息など、数人の子供が攫われていた。その騎士もこれから裁判にかけられ、処分を受けるだろう。
『閣下、これは…』
王立学園の学園長室。
シビル・ドレーク公爵が差し出したのは、白を基調とした正装だった。
『街の仕立て屋からプレゼントだ。覚えてるかい、学生時代にあんたが助けてやった女だ。今じゃ売れっ子でね。』
『…ありがとうございます。このような上等な品……今後の俺に着る機会があるかはわかりませんが、後で礼を』
『仕事着にしな。格闘術のジジイが今年までなんだよ。』
シビルの言葉にレイクスが笑みを消した。完全に予想外の誘いだった。
『剣術の上級もあと二、三年で空く。』
『……俺は犯罪者の身内です。』
『うちに通う奴には犯罪者の子もいるし、卒業生の犯罪者も数えきれんだろうね。まぁ、その辺りはどうでもいいのさ。』
シビルは執務机の引き出しを開け、封筒の束を取り出す。まとめていた紐を解いてばらりと並べた。
封蝋は見慣れた金色と青色に始まり、銀色や水色、灰色……レイクスが知っているものばかりだった。
初めて見る印璽は二つ。
両親と同じ色だろう青色と金色――模様に星とツイーディアの花が使われている事で、差出人を察した。
『それぞれ言い方は違うが、まぁ大体私と同じ意見だよ。だからここへ呼んだのさ』
『……なぜ、殿下達まで……』
『お前は強くて優しくて格好良いから、良い先生になるんだと。第一王子殿下のお墨付きだ。嫌がるなら自分の家庭教師にするとか言ってるけど、お前、城には戻りたくないんだろう?』
レイクスは苦い気持ちでウィルフレッド第一王子からの封筒を手に取り、表に書かれた幼くも丁寧な宛名を見つめた。
信頼していた騎士の兄が自分を売ろうとしていた事など、まだ幼い王子には伝えられていないだろう。ただ世話になった相手が親族の不祥事で辞める事になったと、そう思っているはずだ。
『第二王子の方は……ありゃ何だい?ちと早熟が過ぎるよ。六歳が書く文じゃない。』
『…俺の部下をかいくぐって、一人で抜け出すような方ですから。』
『おやおや……七年後が楽しみだね。』
『殿下は何と?』
ウィルフレッドの手紙を机に戻し、けれど隣の封筒を取る事はできずにレイクスが聞いた。
『他と同じさ。ただ、あるいはリラの警備に組み込めとか…放置すれば辺境領主が声をかけるだろうが、現状お前ほどの戦力を必要とする場所はないはずだとか……あと、自分が手紙を出した事を言うなって話かねぇ。』
『…言っているではありませんか。』
レイクスが思わず少し笑って指摘すると、シビルはわざとらしく肩をすくめた。
ご意向承知とは返したが、黙っておきますと約束した覚えはない。
『それで?人員不足の出身校を助ける気はあるのかい。お前と同級生だったグレンもいるけど。』
『グレン…司祭になるのではなかったのですか?神殿都市に行ったと思っていましたが……』
『そこから魔塔行って、今じゃうちで神話学と魔法学やってるよ。』
『なんと自由な。……あいつらしいですが。』
『自由過ぎてたまに困るんだ。お前、同い歳のよしみでちと絞めておくれよ。』
『雇ったのは閣下でしょう。』
呆れ笑いしながら、レイクスは自分が既にここで働く事を選んだと感じた。
背筋を伸ばし、片手を胸にあてて騎士の礼をする。深く。
『俺でよければ、謹んでお受け致します。』
『よろしい。こちらとしても助かるよ。』
顔を上げる途中、金色の封蝋が目に入った。
ツイーディアの花が一輪に、星が二つ。
背景には時計の文字盤が刻まれている。
レイクスはどうしてかそれを――命の終わりのようだと思った。




