206.黒き肉塊の向こう
「僕の名はアベル。アベル・クラーク・レヴァイン…この国の第二王子だ。」
ようやくソファに座って向かい合い、アベルは二人に向けて名乗った。
エリはアベルを見やり、眉を顰めてローテーブルに目を落とす。
「…君影の者は全ては名乗らぬ。わらわはエリじゃ。」
「わかった。そちらは?」
「ヴェンと申します。」
黒い霧の向こうに見えるアベルの瞳と目を合わせ、ヴェンも答えた。
アベルは瞬いて承知を伝え、エリに視線を戻す。ちらちらと蜂蜜色の瞳をアベルに向けてはいるが、まったく目が合わない。その表情には明らかに怯えがあった。
「そなた……自分がどういう状況か、少しでも見えておるのか?」
「何も見えない。ただ昔から、僕に対する殺気は感じてる。」
「昔?…貴方は、一体いつからそれに憑かれているのですか。」
「物心ついた時には、いたと思うけど。」
「では、十年近く耐えているというのか?」
エリが信じられないとばかり目を見開いてアベルを、否、アベルに纏わりつく何かを凝視する。そして緩く首を横に振った。
「あり得ぬ。恐らくそれを五等分にした程度ですら、憑かれた者は一月もたぬぞ。子供ならなおの事。精神が未熟であればあるほど、耐えられる時間は短いものじゃ。」
「そう言われてもね……あぁ、でも昔はもっと小さかったんじゃないかな。殺気は年々強くなってるから。」
「成長していると?それこそ聞いた事が……いや待て、古き書物にあったような…確かそれは…」
小さな顎に指をあて、エリは思い返すように首を捻る。
ヴェンは思い当たる事がないようで、エリの言葉を待っている様子だ。アベルは数秒待ってから口を開いた。
「君影国の者は死者に通じる…この国で噂されている話だ。君達には僕に何が見えてる?」
「魂じゃ。」
エリがきっぱりと答える。
「国の者全員が《見える》わけではないがのう。わらわは長の血筋でも特に目が良い。見え過ぎて…むしろ、そなたの顔は全く見えておらぬ。ツイーディアの王子よ。」
「長の血というと、君はまさか…」
「姫である。おぬし先程から《キミ》呼ばわりしておるが、わらわの方が年上じゃからな。十六歳じゃぞ」
アベルは瞬いた。
有力者の娘とは想定していたので姫だった事にさほど驚きはないが、年齢は別だ。言動や体型を総合的に見て、自分より年下だと確信していた。同年代の女子、シャロン・アーチャーや少し小柄なカレン・フルードよりも、一つ年下のジェニー・オークスよりも、幼く見えていたのである。
しかしそれを顔に出すアベルではない。
「…失礼した、姫。」
「うむ、それでよい。」
「自分はエリ様ほどハッキリとは見えないため、煤煙を通すようにして、お顔も辛うじて見えております。」
アベルと目を合わせる事でそれを証明し、ヴェンは話を続けた。
「我々の国では基本的に、黒い魂は悪しきモノ、白い魂は悲しきモノとされています。」
「白い方は生前の姿をしている事もあれば、時に喋れる者もおる。しかし自身の未練や感情に呑まれると黒く染まり……生者の身体を奪おうとするのじゃ。憎しみのうちに殺された者などは、最初から黒い事も多いと聞く。」
「僕にはそれが憑いていると?」
アベルの問いに、エリ達は小さく頷いた。
だいぶ見た目に慣れてはきたのか、少しずつではあるが顔色もマシになってきている。
「よいか、物事には順序がある。足下の影に纏わりついておる頃はまだ平気じゃ。それが上を目指し、腕や肩にへばりつくようでは宿主……おぬしのように憑かれた者をそう言うが、そちらへ影響が出る。疲れやすい、肩が重い、気分が暗くなる…人によって、症状は自覚のあるなしも含めて異なるがの。」
そこまで言うとエリは一度言葉を切り、テーブルに置かれていた水差しを見やった。
ヴェンがコップへ注いで差し出す。それをくぴくぴと飲んでから、エリは大きく息を吐いた。
「いよいよとなれば黒き魂は宿主に喰らいつく。上半身を覆い隠すような時、まさに今のおぬしじゃが……この段階で殺してやる事が、宿主となった者への手向け。」
決して目が合わないエリは、それでもアベルを見据えていた。
これまで幾度も見送ってきた者の目だ。覚悟を持って、見届けた者の目。
「完全に身体に入り込むと――あるいは入りかけの時から、黒き魂は周りに害を及ぼす。ほとんどは意味のない声を発しながら暴れるだけじゃが、特に意思の強い魂は、感情に呑まれながらも思考能力を失わぬ。忌まわしい事に、宿主のフリをする事さえあるのじゃ。」
「…だから君達は昨日、僕を襲ってきたと。」
「申し訳ありませんでした。まさかそれだけ大きなモノに食らいつかれ、宿主自身がまだ正気とは……」
「いい。君達にとっては当然の判断だろう。」
ヴェンは黙って深く頭を下げた。
目の前の少年はなぜ今もなお、自分を保っているのか。これだけ冷静で在れるのか。不思議でならなかった。
「……アベルと言ったな。黒き魂は身体を奪うため、宿主の精神を削る。おぬしは殺気を感じるとの事だったが、物心ついた時からそれで、よく今まで耐えてきたのう。常人ではあり得ぬ。」
「慣れかもしれないね。」
「殺気にか?」
「四六時中の事だし、先程言ったように昔は弱かった。これとそうでない者の殺気を感じ分けられるくらいには、もう慣れてる。」
「ふむ…」
エリは僅かに憐れむような目をしたが、すぐに隠した。
手振りでアベルに立ち上がるよう促すと、自分はテーブルに頬がつきそうなほど下から彼を見上げる。顔が見えないと言っていた事から、黒き魂とやらを避けて見ているのだろう。
身体を起こして元のように座ると、エリはアベルも座り直したのを見てから静かに聞いた。
「おぬし、首は大丈夫か?右側じゃ。」
アベルが僅かに目を見開く。
その反応で、ヴェンはエリが何か言い当てたのだと悟った。
「杭か、爪のようなものが突き立てられておる。おぬしは何かに守られているが、そこだけは突き破ったようじゃな。あるいは、守られる前に攻撃を受けたのがそこだったか。」
「……悍ましい気配が、一番する場所だ。」
「うむ。そんな有様で何もなければ、それこそおかしいからのう。しかしなるほど、覗いてよくわかった。おぬしを守る壁のようなものがあるから、それはおぬしを奪えないのじゃ」
エリは小さな拳を作ると、もう片方の手を上からかぶせる途中で止める。まるで見えない壁に阻まれているかのように。それが、今のアベルの姿だと。
「理由が見えてようやく安心という所、しかしその壁が何なのか、いつまであるのか……何より一手打たれている以上は、おぬしの精神が揺らげば《お終い》じゃ。」
「……いつか、自分が壊れるとは思ってた。」
ぽつりと、アベルは口にする。
ずっと昔から自覚していた事を、誰にも言わなかった事を。
「僕はあとどれぐらいもつんだ?」
視線を感じながら、エリはアベルの方を見つめた。
音もなく滴り落ちては消えていく、涎のような黒い雫。肉塊に牙や爪だけ付け足したような見るも悍ましい姿。下から覗かなければ「まだ」とはわからなかった、頭から吞まれかけている少年の身体。
「はっきりとはわからぬ。その守りが消える事はあるのか、黒き魂の成長度合いは如何なるものか、そして何よりも、おぬしの精神じゃ。」
「…冷静であれという事かな。」
「有り体に言えばそうなりますが、宿主が持ち堪えればそれだけ、気を付けるべきは周りの人間になります。」
「周り?」
アベルが眉を顰める。この身体を狙っているのであれば、自分だけの問題ではないのか。
そこからエリが告げた言葉は、アベルにとって予想外のことだった。
「身体を奪う事が難しい場合、黒き魂は周囲の人間に災いを呼ぶと言われておる。なぜか?宿主の精神が揺らげば、容易く身体を奪えるからじゃ。大事な者ほど死にやすい。黒き魂が強力なモノならそれだけ、引き寄せる災いも大きくなると聞く。ただでは死ねぬ……ゆえにアベル」
黒い肉塊の向こうにいるだろう少年の顔を見つめ、エリは告げる。
どうしようもない事実を。
「おぬしに愛された者は、必ず非業の死を遂げるじゃろう。」
その心を折るために。
絆を断つために。
壊すために。
「……いつ…その影響が出る?」
「これだけ長くもった例も無いじゃろうから、わからぬが…通常ならば、先に宿主自身を狙う。ひどい頭痛や身体の痺れ、短時間の気絶などは覚えがあるか?」
「…ない。」
「それらが出始めてもなお、おぬしが持ち堪えたのであれば。やがては周りに順番が来るかもしれぬな。」
アベルの顔からは血の気が失せていた。
それはエリには見えず、ヴェンからもひどく見えにくい。ただ声色から動揺はよく伝わっていた。
「僕が、他の人間に近付かなければいいのか?」
「物理的な話ではないのじゃ。関わらないようにしたところで、さほど意味はなかろう。誰かを大事に思う気持ちというのは、抑える事などできぬからな。嘘を吐いて黒き魂に通じるとも思えぬ。」
「……わかった。」
エリの言う症状が出たら、それによるものと思ったなら、その時こそ死ねばいい。
アベルは、二人と話す機会を設けてよかったと安堵した。
《彼女》の望む未来などやはり無かったけれど、得る物はあったのだ。
「おぬしには、双子の兄がおるであろう。」
「…あぁ。」
「わらわ達の国には、未来を告げる者が時折現れる。この国に双子の王子が生まれる事は、昔からわかっておったのじゃ。」
「エリ様、それは」
「よい。……公爵家、だったか。君影の血を引く一族にも、当時文を出したと聞いておる。」
内容を知って、国王に告げるか否かは任せると。
その手紙がどうなったのか、今の国王が知っているのか、君影国の者にはわからない。
「双子の星が生まれる時、女神は長き旅路を終える。片割れは死を振り撒く凶星となるだろう。ならば片割れは、死に追われる凶星となるだろう。近付くな、近付くな。凶星の双子には決して近付くな。その命を失いたくないのなら。」
「……凶星…」
「何をもって死を振り撒くなどと言うのか、わからなかった。おぬしを見るまではな。」
アベルに纏わりつく黒き魂を見つめ、エリが言う。
これだけ強力なモノならば確かに、周囲に死を振り撒くだろう。宿主の身体を奪って、あるいは宿主の抵抗に遭い、災いを呼ぶ事で。
そしてもっともその影響を受けるのは当然、双子の兄弟。
第一王子ウィルフレッドは、死に追われる凶星となる。
「女神が旅を終えるというのは、どういう意味かな。」
「当然わからぬ。ただ、この国には《女神》がおるのじゃろう?旅を終える…女神が守っていた何かが終わる事で、おぬしにそれが憑いた、とかではないのか。知らぬが。」
自分に憑いているという黒き魂のこと。
君影国に伝わる凶星の話。
多くの情報を知り、受け入れて、アベルは小さく息を吐いた。




