156.正しい処罰
後方から扉の開く音が聞こえて、彼女は音もなく息を吐いた。待ちわびていたのだ。
豪奢な椅子に座ったまま、小さなサイドテーブルを挟んで置かれたもう一つの椅子を見やる。誰もいなかったそこへ足音が近付き、今ようやく、待ち人が着席した。
仄かな灯りが照らし出すのは、少し癖のある黒髪に、全てを見透かすような金色の瞳。
シャツやベストに入った皺からは、その少年が引き締まった身体をしている事が見て取れる。こんな場所でも変わらず帯剣したまま、第二王子アベルは優雅に脚を組んだ。
「わたくしを待たせるなんて、と言いたいところですね?アンソニー様。」
「許せ。クローディア」
主と定めた相手に名を呼ばれ、クローディアは満足げに微笑んだ。
背中まであるストレートの黒髪をさらりと流し、猫目の中にある黒い瞳がアベルを見つめる。
オペラハウスのボックス席、下を覗けば舞台では主人公がヒロインと出会うシーンだというのに、二人共そちらを見る様子はない。
「ふふ…冗談です。帝国の皇子殿下はいかがでしたか?」
「予想よりは筋の通った男だ。」
二人の後方で、クローディアの従者が静かにアベルから預かったコートと帽子をコートハンガーにかけている。第二王子が従者や護衛を連れていないのはいつもの事だ。
「代替わりは近い未来の話で、ツイーディアにとって悪くはない。ただ、もし戦になるなら、今の皇帝の方が楽な相手だったはずだ。」
「まぁ…それは、それは。」
「巷ではどうなっている?そろそろ噂も出回っただろう。」
舞踏会に参加した貴族達は、参加できなかった人々に様子を話したくて仕方ない。街を案内される来賓にたまたま出くわした者達は、幸運を自慢したくて仕方ない。何も知らない者は、知る者の話を聞きたくてたまらない。
その欲のためか、ホーキンズ家が二日連続で開いた茶会には多くの出席者が集まった。クローディアの耳には様々な話が届いている。
「帝国の皇子殿下は、何か取り憑いているかのように凶悪な目つきで、獣のように歯が鋭く、狂ったように笑い続けるのだとか。」
「……あながち間違いではないが、ふざけるのは後にしてくれ。」
「えぇ、仰せのままに。」
くすりと微笑み、クローディアは従者に目配せした。
彼が差し出した一冊のノートを受け取り、白く細い指で該当のページを開いてアベルへ渡す。手に入れた情報をまとめた物だ。金色の瞳が文字を辿る様子を、整った横顔に浮かぶ真剣な表情を、じっと観察する。
――可愛い弟が貴方様の側へ控えていれば、ここはなんと完璧な空間なのでしょう。
シミオン・ホーキンズはクローディアの五つ下の弟で、人攫いに遭ったところをアベルに救われた過去がある。今は王立学園に行っており、月に一度手紙を送ってくる程度だ。
来年アベルが入学する際にはクローディアも王都を離れ、学園の傍で暮らす事にしている。家屋も家具も既に購入し、スキルを活かして占いの店を開く予定だった。
全ては、必要とされた時すぐ応えられるように。
「…わたくしの《先読み》は、外れましたか?」
「いや。」
静かに問いかけたクローディアの言葉を、アベルはノートへ目を落としたまま否定した。
「女神祭の期間中に起こる危険なこと」を対象にクローディアがスキルを使ったところ、見えたのは逃げ惑う七、八人の男を相手に一人の少年が剣を振り回している姿だった。顔はよく見えなかったが、笑ったままの口元と、返り血に染まっていく朱色の髪ははっきり見えていた。草の生えた薄暗い場所、恐らく野外で、時間は日没から夜にかけて。
開いているページの最後まで読み終え、アベルが金色の瞳をクローディアへ向ける。
「お前が見たのは恐らく、俺と共に襲撃を受け、その相手をしている最中の姿だ。」
「まぁ…そうでしたか。」
顔に出ないよう気を付けながら、クローディアは安堵した。当たり外れがある事が前提のスキルとはいえ、外れてばかりでは役に立てない。
《先読み》の中でもクローディアは視覚情報を得るタイプであるため、必ず《見えていない景色》も存在する。今回、共に戦っていたアベルの姿が見えなかったように。
特定の人物に関する事であれば、顔と名前を頭に浮かべる事ができれば確率は上がるものの、ジークハルトの顔を知らなかったため、曖昧な条件付けでやらざるをえなかったのだ。
より正確に見るため、クローディアはアベルが街を案内する際に彼と対面させてほしいと申し出たが、許可は下りなかった。
アベルの指がページをめくり、彼は再び報告を読み始める。
「お怪我などは?」
「ない。」
「…愚問でしたね。」
クローディアはうっそりと微笑み、陶酔するように主の横顔を眺めた。
答えの分かりきった問い。
短く否定する声を聞きたいがための、主の強さを確認するための問い。
「わたくしはお役に立てましたか?」
「当たり前だ。」
「ふふ…これからも、何かあればお申し付けを。」
「あぁ。」
「存分に頼ってくださいませ。ね?殿下。」
「……どうした。今日は随分言葉を欲しがるな。」
ノートから目を離し、アベルは少しだけ困ったように笑って肘掛に頬杖をつき、クローディアを見た。
まるで仕事の邪魔をする飼い猫をなだめるような、構ってほしいとぐずる幼子を撫でるような、そんな目だった。クローディアの桜色の唇が弧を描く。
――この貴いひとが、気高い人が、優しいあなたさまが、強い貴方様が、わたくしを必要としてくださっている。わざわざ時間をとって、会いに来てくださる。お役に立てる。その輝きをすぐ側で目に映す光栄に預かり、言葉を交わす事を許されている。貴方様に跪く大勢の中……特に近しい、可愛い部下であれたなら。
それはクローディアにとって誇りであり、己の価値を強く自覚できることだった。
サディアス・ニクソン、フェリシア・ラファティ、シミオン・ホーキンズ、ノーラ・コールリッジ。かつてアベルに救われた彼らと共に、騎士とも違う私兵組織として彼の役に立つ。
唯一として崇める人が自分を認めて頼ってくれたなら、それだけで幸せなのだから。
「少し妬けてしまった、とでも言っておきましょうか?ふふ。シャロン・アーチャー様と仲良くされていたと、中々に噂が出ておりました。」
「…らしいな。呆れた話だ」
アベルは鼻で笑ってノートを指で一度叩いた。
既にシャロンとの噂が書かれたページは読み終えていたらしい。彼の表情に焦りも照れもない事を確認し、クローディアはゆったりと瞬く。最初からわかっていたとでも言うように。
「ご自分の妃にされるつもりでないのなら、気を付けねばなりませんよ。」
「粗雑に扱えと?それはそれで文句が出るだろう。」
「貴方様にとって特別な方だと思われる事が、噂を呼ぶのです。普段、ダンスでお相手とどれくらい話をされますか?踊り終えて別れた後で、階段のエスコートをした事はありますか?」
「……ないが…彼女は、公爵家だ。」
「ジェニー・オークス様が参加されていて、同じ扱いであれば。皆様納得されたのでしょう。」
しかし実際には、ジェニーは不参加。
シャロンが狩猟の日にアベルを選んだ事も、知っている者は知っている。それに、シャロンだけがアベルを見つめていたのならまだしも、話をちゃんと聞いてあげていたのか、アベルも彼女を見ていたという。噂されても仕方ないだろう。
「ふふ。わかりますよ、殿下。彼女は今や貴方様のご友人であり、他の方々と違って、王子としての肩書を求めているわけでもありません。普通の対応をされただけ、なのですね。」
妃の座を狙う令嬢に対して、アベルは基本的に冷ややかだ。
最低限の会話と冷めた目、必要以上の接触はしない。だからこそシャロンへの対応が目立ってしまったのだ。クローディアやノーラ、フェリシア達が参加していればまた違っていただろう。
「…そうだな。」
「ただ、このままでは噂が広まるばかりですし……万一、彼女に好意を向けられたらどうなさるのです?」
「それはありえない。」
「――まぁ。」
てっきりアベルは困るか苦い顔をすると想像していたため、クローディアは目を見開いた。即答で否定されるとは思いもしなかった。
「狩猟で選ばれていらっしゃいましたが…」
「あれは、俺の剣技を見たかったらしい。ベインズの指導を受けてる事はお前も知っているだろう。……あいつが俺をそういう目で見る事は無い。」
淡々と話すアベルからは、何の感情も読み取れない。彼にとってシャロンはただの友人であり、本当に何とも思っていないのだろう。シャロンにとってどうであるかは、アベルの意見を鵜呑みにするわけにもいかないが。
クローディアは目を細め、視線を遠くへ投げた。
「そうですか…。」
「…むしろ、弟扱いし始めたからな…。」
アベルが何か呟いたような気がしたが、ちょうど舞台で衝撃的なシーンがあったらしく、大きく鳴り響いた効果音で掻き消されてしまった。恐らく主人公が冤罪で死刑宣告を受けたところだろう。
クローディアがほんの僅かに首を傾げて見つめても、アベルはノートの文字を追うばかりだ。言い直すほどの事でもないらしい。
「殿下、人の心はわからないものです。」
独り言のように呟いて、クローディアは視線を前へ向ける。
反対側のボックス席には、椅子をくっつけて寄り添い合う恋人達の姿がちらほら見えた。羨ましい、などという感情は浮かんでこない。恋人同士よりずっと貴い関係なのだから。黒い瞳には優越感すら滲み出る。
「貴方様なら大丈夫だとわかっておりますが、誰かを妄信などされませんように。」
「……誰の話をしてる。」
文字を辿っていたはずの瞳が向けられたと気付きながら、クローディアはそちらを見ない。目を合わせればたちまち、言わなくて良い事も言わされてしまうだろう。僅かな変化を見咎めて、追及し、その果てに。
――知れば、優しい貴方様は迷うでしょう。だからこそ。
「誰の話でもありませんが、あぁ、ご覧になって…」
閉じた扇子の先を舞台へ向ける。
主人公に冤罪を着せたのは、彼の親友だった。舞台の床に膝をつく主人公をあざ笑い、友だった人は立ち去っていく。絶望に打ちひしがれる姿は光の魔法で儚く照らし出され、そこへヒロインが必死に救いの手を伸ばす。
「信じていた仲間に裏切られたら、どうなさいますか?」
仲間とは騎士の事か、クローディア達の事か、あるいは。
答えのわかりきった問い。
それを告げる声を聞きたいがための、主の意志を確認するための問い。
「その時は」
アベルの声が心地よく耳を打つ。しっかり味わうために視線を送れば、鋭い金色の瞳に射抜かれた。
彼が浮かべる薄い笑みに、背筋がぞくりとする。
「俺が殺してやるから、安心しろ。」
クローディアは微笑んだ。
何もかも差し出して水中へ身を浸すような、全て曝け出して溶けてゆくような心地だった。
部下を守る言葉であり、他に手段がなかった者への手向けであり、そう在ってほしいと願っていた通りの正しい回答。
――それでこそ。えぇ、それでこそ、わたくし達の貴方様。
「ふふ…安心して仕えさせて頂きます、殿下。」
「あぁ。頼りにしている」
欲しかった言葉を与えられ、クローディアは満足げに目を細めた。
何も、気にする事はない。
シャロンとの噂を聞いてアベルの将来に影響が出るのではと懸念し、二人の未来を《先読み》した。結果見えたものは現状からは想像もつかないものだったが、言わない方が良い。
逆なら、何を差し置いても伝えたけれど。
――貴方様がシャロン様を殺すなら、それは正しい処罰のかたち。
きっと、彼女が裏切る《可能性》の果てにその未来があるのだろう。
成長していようと見間違えようのない、アベルの後ろ姿。
真正面から剣で貫かれたシャロンは血を吐きながら、彼を睨みつけていたのだから。




