120.たとえ私が死んだとしても ◆
「きっともう、帝国の方も到着されている頃ね。」
庭の芝生を歩きながら、私はぼんやりと王城を見やった。
パレードに参加されるお父様の身支度に、明日王妃殿下主催のお茶会に参加するお母様の支度、手配と我が家は大忙し。家庭教師の先生方にもお休みを取って頂いて、私も公爵家の女主人としてのお母様の仕事ぶりを拝見した。
将来どこかへ嫁いで女主人となるにも、その前に次期公爵であるクリスのサポートをするにも、知っておいた方が良い事が沢山あるからだ。
…本当は、ちょっとでも抜け出せたなら、ウィル達の晴れ姿を観に行きたかったのだけれど。
「そうですね。今年もつつがなく終わると良いのですが。」
メリルが頬に手を添え、少し心配そうに呟く。
仕事が一区切りついて休憩がてら出てきたので、不安に思ってしまうのは疲れのせいもあるのだろう。帝国との会談には、お父様が国王陛下の補佐として必ず同席しているはずだ。
「大丈夫、きっと何も無いわ。」
今回の定期訪問に関しては、ゲームのシナリオ…いえ、設定のまま、休戦協定は続いていくだろう。ジークハルト殿下が皇帝としてこの国に牙を剥くのは、ウィルが王となった後――アベルがいない未来の話だ。
目当ての場所について、私はスカートを膝裏へ折って屈みこむ。
花壇には長い楕円形の葉っぱが、重ならないよう互い違いにぺたりと広がっている。そっと手を伸ばし、葉っぱについた細かな毛をふわふわと撫でた。まだ葉が少なく広がりが小さめのものや、順調に育っているものといくつかあって、花が咲くのは全然先の事とはいえ、ちょこちょこ様子を見に来ている。
「シャロン様、今夜お出かけになるのは…旦那様のお許しがある以上、よいのですが、気を付けましょうね。もし帝国の皇子殿下と出くわすような事があれば……」
「あるかしら?」
「その時はすぐに逃げますよ!気付かれる前に!」
「いきなり襲われる事はないと思うけれど…。」
何せ、休戦協定中だ。
それにジークハルト殿下は、騎士団の見張りもなしに出歩かせてはもらえないと思う。チェスターによると、案内役はアベルが担当するそうだし。
「最終日の舞踏会も、可能な限り接触は最低限にしてくださいね。嫌ですよ私は…シャロン様が皇子殿下に気に入られ、そのまま帝国に嫁ぐなど……」
「そ、それはないから大丈夫よ。」
早めに否定しておいた。
私だって下手な動きはしたくない。会ってすぐ切られるとは思っていないけれど、積極的にお話しましょうというつもりも全くない。そして強者的な意味で気に入られる予定なのはアベルだ。
ゲームシナリオにおいて、殆どのルートでのラスボスはアベル皇帝陛下だけど、そのアベルが死んでしまった後であるウィルのルートでは、ジークハルト皇帝陛下が立ち塞がる。彼は強力な闇の魔法を使うから、ウィルの最適である《光》とは互いに天敵同士だ。
そしてアベルのルートでは、革命軍の戦士イドナ。
彼だけは今世でまだ名前を聞く事すらない。銀色の瞳にレナルド先生そっくりの赤髪だけれど、聞いてみたら先生は一人っ子だと言うし、名前に聞き覚えもないと言うし…。
皇帝となったアベルと張り合うほどなのに、ジークハルト殿下同様に他のルートでは出てこない。
「そんなに見つめても、まだお花は咲きませんよ。」
微笑ましそうに言われてハッとする。
早く咲かないかな、と思って見ていたわけではないのだけれど。私は立ち上がり、特に汚れてもいないスカートを軽く掃った。メリルがくすりと笑う声が聞こえる。
「お祭りの事を考えていたの。クリスに広場の女神像を見せてあげたいけれど、人がすごいものね。」
花や魔法で飾り付けられた女神像はとても素敵で、祈りを捧げに来る人もただ眺めに来る人も、演奏に合わせて周囲で歌い踊る人々もいる。あまり混雑しているとはぐれた時に大変だし、クリスは背が低いので、見せてあげるのは難しいかもしれない。
メリルは顎に人差し指をあて、「そうですね」と視線を空中へ投げた。
「魔法で上空から見るのは禁止ですし……もしよろしければ、ダンに肩車をさせましょうか。」
「それは名案だわ!はぐれる心配もないわね。」
「は~?マジで言ってんのかよ、だっりぃ…」
ぱん、と両手を合わせて喜んでいたら、上から嫌そうな声が降ってきた。
屋敷を見上げると、二階の廊下の窓枠にダンが頬杖をついている。いつから話を聞いていたのかしら。メリルが両手を腰にあてる。
「盗み聞きとは行儀が悪いですよ。」
「そっちが勝手に来て喋り出したんだろうが。」
「紳士なら黙って立ち去るべきです!」
「ハッ、紳士じゃなくて悪うございました。」
灰色の髪をがしがし掻いて、ダンはひらりと手を振って引っ込んでしまった。メリルの方が先輩で立場が上で、おまけに彼より十歳近く年上のはずだけれど、相変わらず遠慮がない。
「まったく、ガラの悪さは変わりませんね。」
「でも、オークションハウスでは私のことお嬢様って呼んでくれたのよ。」
「…あら、そうなのですか?」
メリルが意外そうに瞬きするものだから、つい笑みが零れる。ダンの事だから、自分からは報告しないだろうと思っていたわ。
そして内緒だけれど、時々ダンと時間を示し合わせて開錠のやり方を教わっている。
お陰ですごく単純な鍵なら開けられるようになったものの、宿題として渡された錠前にはてこずっている。なかなか難しいと言うとダンは楽しそうにニヤニヤするので、こちらのやる気も出るというもの。
「付き合ってくれてありがとう、メリル。戻りましょうか。」
「はい、シャロン様。軽食も用意できた頃でしょうから、クリス様とご一緒にお召し上がりください。」
「……お祭り、お母様達も一緒に行ければよかったのだけれど。」
ついぽろりと零れた呟きを、メリルは黙って聞き流してくれた。
私が出席するのは最終日の舞踏会だけでも、お父様とお母様はそうじゃない。公爵として公爵夫人としてあちこちに出席するため、とても忙しいのだ。子供連れで街の露店を見に行く暇なんてない。
当たり前の事なのだから、私も悲しいとも寂しいとも思わない。叶ったら素敵だとは思うけれど、叶う事はないと納得している。
声に出てしまったのは、前世で親と夏祭りに行った記憶があるからかもしれない。
今世の私は、お父様よりお母様より、メリルと一緒に過ごした時間の方が長い。
「いつもありがとう、メリル。」
「こちらこそ、お仕えできて幸せですよ。」
優しく目を細めてそう言ってくれる彼女に、私は何が返せるかしら。
「…メリルが結婚する時は、盛大にお祝いするわね。」
「ふふっ、私が結婚ですか?そうですね、可愛いお嬢様が素敵な殿方と落ち着いてくだされば、もしかしたら、ですね。」
「まぁ…私を待っていたら何年も経ってしまうわ。」
「そうでしょうか?ご婚約して頂くだけでも、だいぶ安心致しますよ。……て、帝国だけは無しです!」
慌てて付け足された一言を笑って否定しながら、私は屋敷の中へ戻った。
――…私が死んだ後、アーチャー公爵家はどうなったのだろう。
アベル皇帝陛下の時も、お父様は特務大臣として彼の傍にいたのかしら。主人公目線では出てこなかったけれど。
私がシナリオ終盤に嫁ぐのはお父様の計らいという設定だから、生きているのは間違いない。嫁ぐ道中で殺されてしまうので、きっとすごく悲しませただろう。
でもお父様がいてクリスがいるのだから、私がいなくても大丈夫だったはず。
もしこれから先、私が自分の死を回避できなかったとしても、きっと…
◇ ◇ ◇
『よかった、来てくれたのね。』
真夜中。
俺を呼びつけた女は、長い薄紫の髪を風になびかせて笑っていた。
『ふふ』
『…何が可笑しい』
『だって、名無しの走り書きで貴方を呼びつけられる人なんて、そうはいないでしょう?』
花がほころぶような笑顔も、俺を恐れる様子がまったくないことも、昔から変わらない。今この一瞬だけあの頃に戻れたかのような錯覚を覚え、自分の甘さに眉を顰めた。
『お前の筆跡くらい覚えている。』
『そうね。…来てくれてありがとう。アベル』
その笑顔を見つめ、久しく聞いていなかった声で名を呼ばれると、なぜか疲労感がどっと押し寄せる。疲れたと零して座り込んでしまいたくなる。少しばかり寄りかからせてほしいと、わけのわからない感覚を覚える。目の前の女は、俺より遥かに弱い存在であるはずなのに。
彼女には敵わない――兄がよく言っていた事を思い出した。
『……この国にいれば、俺が…』
つい口を突いて出そうになった言葉を飲み込んだ。
何を馬鹿な事を。今やカレン達すら俺を敵と見定めているのに、そんな言葉を吐く資格はない。懸命に仕えてくれていた彼女を離職させ、城に近付くなと突き放したのも俺だ。今の自分を見られたくないという勝手な理由を、告げる事すらなく。
シャロンは隣国に嫁ぐ。
公爵が決め彼女が受け入れた事だ、結論が変わる事はない。しかし。
『…お前は、それでいいのか。』
『え……?』
『これまで結婚しなかったのは、まだウィルを想っているからだろう。』
彼女は驚いたように息を呑んで俺を見つめている。当然だ。俺は二人が結婚の約束をした事を知っているが、それを言った事はない。
貴族令嬢の役目は婚姻にある――そんな考えの輩が無遠慮に彼女を責めないよう、舞踏会では必ず最初に手を取った。
俺がそうしていれば、彼女はウィルを想って静かに暮らしていられると思っていた。
『…アベル…』
どうしてか、眉を下げたシャロンはぼろぼろと涙を零した。
泣き顔を見るのは何年振りだ?……やめろ、そんな顔をするのは。
『…泣くな。』
顔を歪めて手を伸ばしかけたが、今の俺が触れていいものではない気がした。軽く拳を握り締め、手を下ろす。
彼女はハンカチを目元に押し当て、顔をあげて笑った。
『もう、決めた事よ。貴方だってつらいでしょう。…カレンが、相手なのだから。』
『今更だ。あいつらから見て今の俺が悪だという事はわかってる。……片が付けば、報いは受ける。』
『――…アベル?』
瞬いた彼女は、真剣な目で俺を見上げた。
『あの子達に、貴方の命を奪う気はないわ。』
そうだな。
『貴方が大事に思ってくれる人は皆、誰一人として。貴方にいなくなってほしいなんて思っていないの。』
わかっている。
『……加減が、できなくなっているのでしょう?あの子には薬を持たせておくわ。致命傷でない限り治せる物を。』
『…そうか。』
『ね。大丈夫よ、アベル』
俺の怯えを見抜いているかのように、安心してほしいとばかり、彼女は目を細めて笑う。
『貴方は《守る人》だから。いつかきっと、安らぎは訪れる。』
もう――どれだけ殺したか、わからないのにか?
かつてお前が言ってくれたその言葉を、俺はとうに違えたはずだ。
『祈っているわ、ずっと。向こうへ行っても……貴方の、ことを。』
胸元に手をあて、彼女は涙ぐんだ瞳で俺を見つめていた。
そして
【シャロン・アーチャー含む複数名の遺体発見、襲撃と見られる。なお、重傷のクリス・アーチャーを保護。遺体は損傷が激しいため現地にて埋葬する。同封の品は彼女が最期まで――】
この時なぜ自分が笑ったのか、今でもわからない。




