110.頭の痛い話
「顔を上げなよ。」
声をかけられ、ナディア・ワイラー子爵令嬢は父親と共にびくりと肩を震わせた。
ドレスの裾を摘まみ頭を下げた姿勢のまま、もう何も見ずにいたかったけれど、そうはいかない。ごくりと生唾を飲みこみ、血の気が引くのを感じながら顔を上げる。
応接室のソファに腰かけたアベル第二王子が、冷え切った目でこちらを見ていた。
普段であればうっとりしてしまうような彼の完璧な美貌も、今はただ恐怖を増長させるものでしかない。
「弁明はある?」
父に言いつけられた通り「ありません」と言おうとしたのか、それとも「だって怖かったんだから仕方ないじゃない」と言おうとしたのか、ナディア自身にもわからない。はくりと動いた口は何の音も発さなかった。
騎士を無視して逃げ出し、止めようとしたシャロン・アーチャー公爵令嬢の手を振り払って走った結果、ナディアは崖に落ちそうになった。
それを助けたシャロンが身代わりとなって落ち、彼女を救うために第二王子は怪我を負ったのだという。
当然、既に治っているから彼はこうして目の前で怖い顔をしているのだが、子爵家の娘ごときが公爵令嬢と王子を危険に晒したのだ。何の罰もなく許されるものではない。
「も…し訳、ありませ……」
絞り出せたのはただの謝罪だった。
アベルがオオカミを切り伏せていく、恐ろしい姿を思い出す。第二王子が強いという噂は聞いていたが、剣術の試合程度しか想像していなかった。
元々本人に興味があったというよりは、父親が第二王子の方へ行けというからそうしただけだ。血を見る事になるなんて思わなかった。
「緊急時には騎士の指示に従えと、兄が注意事項として話していたよね。」
たった一言「はい」と返す事ができず、ナディアは押し黙る。
注意を聞いていなかったわけでも、軽んじていたわけでもない。ただ、当時は混乱して騎士からも逃げなくてはならないと思ってしまったのだ。
「君はそれを破り、現場を混乱させ不要な手間をかけた。自覚は?」
「…ゎ、私……その……。」
「申し訳ありません!!この馬鹿娘が、とんだご迷惑を…!」
ワイラー子爵がナディアの頭をぐいと押し下げ、自分も深く腰を折る。
「娘は反省しており、私も父親として教育が不十分だった責任を痛感しております。処分は如何様にもお受け致しますのでどうか、どうか命だけはご容赦を賜れますよう!」
命だけは。
父親の一言にナディアは喉を締め付けられた。そこまでの事態とは思っていなかったのだ。
――だって、もう治ったじゃない。誰か死んだわけでもない。私、殺されるほどの事なんてしてないわ。シャロン様だって、身代わりになってほしいなんて頼んでない。彼女が勝手にやったのよ。それを助けたのも王子殿下が勝手にした事でしょ。なのに全部私のせいなの?
アベルが短いため息を吐く。
それだけで頭に置かれたままの父親の手が震えた事に、ナディアはひどく惨めな気持ちになった。
第二王子が恐ろしい事は理解した、王家の方が子爵家より偉いのは百も承知の上だ、それでも。
――元はと言えば、狩猟場がちゃんと安全か確認できてなかった王家が悪いんじゃない。こっちは招待されて行ってやったのに、気遣いも何もないあんたの歩みにも頑張ってついてってやったのに!公爵家だからってシャロン様ばかり構って、私だけどうして頭を下げなきゃいけないのよ!!
煮え滾る怒りに歯を食いしばり、自分の手を握り締める。
そんなナディアの姿を見て、アベルは反省の色なしと判断した。元より殺すつもりなどないが、今後ワイラー子爵家が王家と関わる機会はないだろう。
どうしても対面で謝罪させてほしいと言うから会ってみたものの、子爵はもう少し娘に主旨を理解させてから来るべきだった。
最後の機会を与えるつもりで口を開く。
「ナディア嬢。君は、何か言う事はないの。」
名を呼んだ途端、ナディアがびくりと震えた。怒りを感じていてもアベルの事は怖いらしい。
彼女は父親の手が離れてもなお頭を下げたまま、ゆっくりと言葉を吐き出した。
「……この度は、誠に…申し訳、ありませんでした。」
感情の籠らないただの音声。
台詞を読み上げた彼女から目を外し、アベルは立ち上がって部屋の扉へと歩き出す。
「処分は追って通達されるだろう。僕はこれで失礼する。」
振り返りもせずにそう言われ、追いすがろうとした子爵が壁際に控えていた騎士によって阻まれた。もう一人別の騎士が部屋の扉を開け、アベルは出て行ってしまう。
「お待ち下さい!殿下、どうかお慈悲を!殿下!!」
みっともなく叫ぶ父親の背中を見つめながら、ナディアは親指の爪を噛みちぎった。
「いいんですか、別に命とりゃしねぇって言わなくて。」
アベルの斜め後ろについて歩きながら、一番隊のクリフトン・タリスが声をかける。
筋骨隆々の大男である彼は黄土色の髪を短く刈り上げ、同じ色の瞳で第二王子を見下ろしていた。鍛錬で日に焼けた肌は浅黒く、大きな口はにやりと弧を描いている。酒と飯と鍛錬が大好きな三十代独身だ。
狩猟ではアベルと共に前線で戦い、シャロンとの仲を口笛で冷やかしてアベルに睨まれ、木々をなぎ倒すほどの突風を食らったにも関わらずケロリと戻って来たタフガイである。
「わざわざ伝えてやる事もないでしょ。」
「ははは、それまで怯えとけってやつですか。」
「おい、口が悪いぞ。タリス。」
応接室の扉を閉め、後から追いついたのはマイケル・モーベス。
背は百七十半ばほどで、よく見れば筋肉質ではあるが団服によって着やせしている。肩につかない長さの群青色の髪は視界の邪魔にならぬよう耳にかけており、濃紺の瞳を抱く目は鋭いが、妻子思いの良き父だ。
狩猟の時にはアベルのためを思って血止めの処理は自分がと申し出て「口を挟むな」と言われ、シャロンやナディアをオオカミから守り、アベルが落ちたと叫びながらタリスの元へ駆け戻ったのも彼だった。
階段を降り、シャンデリアの蝋燭が照らす深紅の絨毯の上を歩きながら、アベルはちらりと振り返る。
「…お前達、なぜ僕についてくる?面会は終わった、もう戻って構わない。」
「第一王子殿下が、怪我したばっかだから目を離すなとご命令を。」
「不要だ。」
「まぁ、そうおっしゃらずに。」
モーベスが宥めるように言うと、アベルは不服そうにしながらもそれ以上は拒否しない。後でウィルフレッドに小言を言われるのが嫌なのだろう。騎士二人は背後でそっと視線を交わした。
――殿下、やっぱ機嫌悪ぃよな?
――そりゃそうだろ。あの視線によく耐えてる方だと思うぜ。
あの視線というのは勿論、狩猟の日から変わってしまった、城に仕える者達の目である。
長らく第二王子に対しては恐々と遠巻きにするような者が多く、ウィルフレッドと和解してからは少し和らいだものの、それでも今のような生暖かい眼差しを向けられた事はまずなかった。
『第二王子殿下が令嬢を庇ってお怪我をされたとは本当か?』
『あのアベル殿下が?まさか。』
『ご令嬢はアーチャー公爵家の長女で、それはそれは愛らしい方だったわ。』
『お召し換えの間もずっと第二王子殿下を心配されていたのよ。』
『驚いた事に、令嬢に手を握られてもそのままだったとか。』
『なんだ、好きな子の前じゃ殿下も微笑ましいもんだな。』
噂が回るのは早い。
アベルが治療される前の心配で泣きそうになっているシャロンも、治療の後でアベルの無事を確認し、純白のドレスを着て麗しく微笑んでいたシャロンも、多くの使用人や騎士が目撃していた。
結果、それまで「人殺し」だの「冷徹」だのと影で囁かれ、恐ろしい存在だったはずの第二王子が、「丸くなった」「令嬢と良い感じらしい」などと生暖かい眼差しを向けられるようになってしまったのだ。
アベルには頭の痛い話である。
他の令嬢ならまだしも、ウィルフレッドの婚約者となる予定であり、つまりは未来の王妃に確定しているシャロンが自分と噂になるなど、できる限り避けなければならなかった。
それでも単に公爵令嬢だから手厚く保護して城へ送ったと言えたはずが、まさか彼女があんなドレスに着替えさせられるとはまるきり想定外だった。
そもそも、ウィルフレッドがいい加減シャロンとの仲を公表してくれればよいのだが、それは学園を卒業してからのつもりだと言っていた。まだ時間がかかる。
そして第二王子は恐ろしい人物だと、これまで抱かれてきたイメージがあっさりと崩れ去りそうな事に呆れと苛立ちを感じていた。兄を狙った者や城に入り込んだネズミなど、何人の首を飛ばしたかわからないというのに、人間というのは根も葉もない恋愛の噂一つでそこまで忘却できるものなのか。
否、シャロンのような令嬢をセットで想像されてしまったせいだろう。
――まぁ、いい。そのうちまた怯えるようになる。
ちらほらと注がれる生温い好奇の眼差しを無視し、アベルは馬に乗って騎士団本部へ向かった。城の敷地と隣接しているとはいえ、広すぎて徒歩で行くには遠い。
幾度かシャロンを乗せてやった事があったなと思い出し、こちらへ手を伸ばす彼女の姿が頭に浮かんだ。アベルがその手を取ると信じて疑わない、薄紫の瞳が。重ねた手の温かさが。再会を約束する時の笑顔が。
『陛下のお言葉を覚えていますね、アベル。』
『お前達の代ではシャロン・アーチャーを王妃にするといい』
『彼女は素晴らしい人です。』
シャロンはウィルフレッドの妻になる。
それは五年前、二人がアーチャー家の庭で結婚の約束をした時からの決定事項だ。アベルがその約束を知っているという事をウィルフレッドはまだ知らないが、シャロンは約束を果たすと言っていた。
薄々わかってはいたが、国王も彼女を王妃にするべきとの考えを明言した。
――問題はない。何も。
後ろでタリスとモーベスがくだらないやり取りをするのを聞き流しながら、アベルは馬を走らせる。
一つ誤算だったのは、シャロンが思いのほかアベルに懐いた事だ。強くなりたいと願う者に憧れを持たれる事には慣れているが、まさか彼女がそうなるとは思いもしなかった。
未来の国母たる彼女は心根が優しく、まだ義弟でもないアベルに「いなくならないで」と言う。いずれ国で一番の騎士になる人だと、貴方は騎士団長になるのだと言う。
しかし、それを叶えてやる事はきっとできない。
「これは殿下…直接お越しくださったのですか。」
入口で他の騎士と話していた副団長レナルド・ベインズが、緑色の瞳を丸くする。
アベルはひらりと馬から降り、一斉に跪く騎士達に不要だと手振りで示した。
「ネズミはどこまで吐いた?」
「だんまりですが、手法を変えたのでもう時間の問題かと。スザンナ嬢は心労のためかまだ気絶中です。」
「そう。」
足を止めないまま、アベルは短く返す。
スザンナは説得に応じてネズミを誘き出す餌となった。実際には傷一つ負わなかったものの、騎士達が彼女を守るために身を潜めていなければ、そのまま殺されていただろう。
――さて、何が出てくるか。
地下に作られた特別室からは、押し殺すような呻き声が聞こえている。




