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ラヴ・アンダーグラウンド(LOVE UИDERGЯOUND)  作者: 囘囘靑
第5章:おわりの街・サンクトヨアシェ(Санкт-Иоас)
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49_ただ『愛している』と言ってください(Просто сказать:Я люблю тебя)

 “竜”のはらわたを覆う触手は、すべてが人間の手の形をしていた。クニカを引きずり下ろそうとする手もあれば、クニカを引き上げようとする手もあった。


 がむしゃらにもがきながら、それでもクニカは、着実に前へと進んでいった。疲れと、痛みとで、クニカの身体は限界を迎えていた。“竜”の心臓から響く鼓動だけが、クニカを前に進ませる原動力だった。


「リン!」


 無数の“手”をかいくぐって、クニカは心臓を支える腱の上に倒れ込んだ。張りつめた腱の先では、ぶら下がっている心臓が、不規則に脈打っていた。


「リン!」


 力と声とを振り絞しぼって、クニカはリンに近づいた。リンはさかさまになったまま、“竜”の心臓にへばりついていた。


「リン、聞こえる?!」


 リンの耳元で、クニカは呼びかける。しかし、見開かれたリンの瞳孔には、なんの光も宿っていなかった。


「リンってば!」


 リンの身体を抱きよせようとして、クニカは気づいてしまった。リンの背中が“竜”の心臓に張り付いているわけではない。リンの背中がやぶれ、肥大化し、それが“竜”の心臓を形作っていた。


「そんな……」


 これでは、リンを引きはがすことなどできない。リンをはがしたら、“竜”は死ぬだろう。そのとき、リンもまた命を落とすだろう。


 祈れば助かるのだろうか? しかし、いったい何を祈れば良いというのだろう? 「リンの身体がはがれますように」とでも、祈ればよいのだろうか?


 違う、とクニカは思った。クニカはリンに、そんなことを言いに来たのではない。


 自分が何をしたいのかを、クニカは悟る。クニカはここに、祈るために来ているわけではないのだ。リンに伝えたいことを、どうしても伝えたいことを、クニカは言いに来たのだ。


「リン、」


 クニカは、リンの名前を呼んだ。


 リンからの返事はない。銀のロケットをたぐり寄せると、クニカはそれを、リンの手のひらに乗せ、上から自分の手をかぶせた。


「リン、その……ごめんなさい」


 重ね合わせた手のひらに、クニカは自然と力を込めた。


「あのさ、リン。わたし、リンのこと怒ってたよ? でも、でもね……」


 クニカは大きく息を吸ってから、


「でもね、リン……あなたのこと、愛してる」


 と言った。


 うつろに見開かれたリンの瞳を、外からの陽射しが照らした。


 リンはクニカの内側に、リヨウの影を見ていた。もしかしたら、リヨウこそが光であって、クニカはずっと影だったのかもしれない。


 それが、クニカには苦しかった。自分の居場所が無いように、クニカには感じられた。リヨウはクニカよりも頭が良いし、リヨウはクニカよりも気が利くし、リヨウはクニカよりも希望に満ち、前を向いていた。クニカがどれだけ努力をしても、リヨウにはなれないだろう。


 しかしそれは、当たり前のことなのだ。クニカはリヨウにはなれない。ちょうどリヨウが、クニカになれないのと同じように。クニカはヤンヴォイの街で、リンと同じ悲しみを悲しみ、べスピンの街で、リンと同じ恐怖を恐れた。ウルノワでは、リンが踏んだ影をクニカも踏み、このサンクトヨアシェでは、まさにリヨウの死を二人して死んでいる。そうした経験のすべては、みな、クニカでなければできないことなのだ。


 クニカだって、リヨウと同じくらい、そしてリヨウとは違ったやり方で、リンのことを愛している。


 リンを「愛している」と言える!


「リン」


 リンの手を、クニカは握りしめる。


「ウルトラまで行こうよ。約束したじゃん……!」


 うるさいくらいだった“竜”の鼓動が、穏やかになっていく。


「ウルトラに行ったら、いとこに会わせてくれるんでしょ? 約束したじゃん!」


 遠くで聞こえていた“竜”の咆哮も、いつしか聞こえなくなる。


「ナイフの研ぎ方教えてくれるんでしょ?! ねぇリン……! 約束したじゃない――!」


 クニカが叫んだそのとき、“竜”の全身がぴたりと動かなくなった。まるで一瞬のうちに、氷漬けにでもされてしまったかのようだった。


 しかし、クニカはそのことに、すぐには気づかなかった。


 リンがクニカの手を、強く握り返してきたからだ。


「リン……!」

「クニカ……」


 リンは泣いていた。


「なんでここにいるんだよ……ウルトラまで行けって言っただろ……ばかじゃないのか……」

「リンだって……リンだってそうじゃん……」


 さかさまになったままのリンの身体を、クニカは抱きしめた。腕越しに伝わってくるリンの身体の重みが、次第に増していった。いびつに膨れ上がった心臓が溶け出して、リンの身体は解き放たれつつあった。


 抜け殻と化した“竜”の身体が、急速に朽ち果てていく。穴だらけだった“竜”の翼は、木々の上に覆いかぶさると、そのままオブラートのように溶けだし、消えてしまった。頭部はみずからの重さに耐えられなくなり、首ごともげて、川の中へところげ落ちる。はらわたの触手は硬直し、石灰と化し、クニカの目の前でこぼれ落ちていった。


「リン、行こう」


 足取りのおぼつかないリンを支えつつ、崩壊しつつある“竜”の身体から、クニカは抜け出そうとする。


 しかし、二人の歩みよりも、“竜”の身体が腐っていく方が早い。すでに肉全体がゼリーのように柔らかく、太い骨も木切れのように砕けつつあった。


「リン、飛ぼう」


 クニカはリンに言った。このままでは崩壊に巻き込まれ、クニカもリンも“竜”の腐った身体に押しつぶされてしまう。


「え?」

「飛ぼうよ、リン。どうしたの?」

「オレは――」


 リンは目を伏せる。クニカも、リンが怯えていることに気づいた。列車で飛び立つことに失敗し、妹を喪った記憶が、いまだにリンを(さいな)んでいるのだ。


 ロケットを首から外すと、クニカはそれを、リンの手のひらに置いた。


「クニカ?」

「ひとりじゃないよ。一緒に飛ぶんだよ。リン、そうでしょ?」


 ロケットの上からもう一度手を重ねると、クニカはリンの手を強く握りしめた。


 リンの唇が、かたく引きむすばれる。


「わかった」

「リン、手を離さないで」

「お前もな。行くぞ!」


 二人は同時に、ぽっかりと空いた竜のはらわたから、空へと一歩を踏み出した。“(ソーカル)”は、空を()べる狩人(かりうど)。リンはみずからの翼をはためかせ、クニカはつないだ手を通じて、リンに魔力を送り込む。


 “竜”の全身が、森の奥で崩れ落ちる。クニカたちの背後で、地鳴りのような大きな音がした。


 しかし、二人はもう、後ろをふり向いたりなどはしなかった。二人の心は、前を向いていたからだ。二人の心はすこやかで、たえまなく流動し、重力の制約を免れていた。二人の心を結び付けているのは、愛の死んだ世界ラヴ・アンダーグラウンドではないからだ。



   ◇◇◇



 降りそそぐ太陽の光を全身に浴びながら、クニカとリンの二人は、そろってオミ川に着水した。水中から顔を出した二人を、チャイハネとシュムがそれぞれ筏に引っ張り上げる。


「リン、久しぶりだな!」


 チャイハネが、わざとらしく声を張り上げた。


「しばらく見てないから、死んじまったかと思ったんだけどな?! 調子はどうだい?」

「最高だよ、チャイ。『天にも昇れるくらい』さ」

「そうか? やったな! ハッハッハ――」


 取り出したタバコを、箱ごとくしゃくしゃに丸めると、チャイハネはそれを川へぶん投げた。チャイハネは気分が高揚していて、自分でも何をやっているのかよく分かっていないようだった。


「クニカ……無事でよかったです」


 クニカの右手を、シュムがいとおしげに撫でる。


「ありがとう、シュム。……シュムは平気?」

「ええ。ちょっと太ももにかすり傷ができてしまったんですが、これは後でクニカになめてもらえばきっと――」

「あ、ダメです」

「おーい! クニカー!」


 欲求不満げなシュムをさえぎって、カイが割り込んできた。


「カイ! 無事だったんだ!」

「ん。カイ、あのくらいへっちゃらだゾ。――それと、ほら!」


 焼き魚の串を、カイはクニカに手渡した。


「ありがとう、カイ!」

「ん。リンも食べるゾ。ほら!」

「え……オレも?」


 カイから受け取った焼き魚を、リンはほおばった。


「ん……おいしい」

「アハハ!」


 リンの言葉を受けて、カイが朗らかに笑う。


 何気なく川岸に目を向けたクニカは、そこで誰かが、自分に向かって手を振っていることに気づいた。


「ニコル!」


 クニカは歓声をあげる。手を振っていたのは、ニコルだった。クニカが手を振りかえすと、ニコルは満足げな笑みを浮かべ、馬たちと一緒に森の中へと引き返していった。どこか良い場所を見つけ、ニコルは馬たちと一緒に暮らしていくのだろう。ニコルならば、きっとうまくやっていけるにちがいない――と、クニカはそう思った。


「クニカー?」

「何でもないよ、カイ」


 五人を乗せた筏は、順調に川の上を滑っていった。

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