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ラヴ・アンダーグラウンド(LOVE UИDERGЯOUND)  作者: 囘囘靑
第5章:おわりの街・サンクトヨアシェ(Санкт-Иоас)
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38_なぜ止まったのか(Почему она остановилась)

こうして、火と、硫黄と、(れき)(せい)とが、彼らの上に投じられたのである。(『アダムの黙示録』、第23章)

 熱風を肌に感じ、リンは目を覚ました。全身に痛みが走り、耳には轟音がこびりついている。


「あ……」


 リンが搾り出した声は、たちどころにしてかき消えてしまった。周囲を悲鳴が覆い尽くしていた。列車は炎の(かたまり)となって、土手に転がっている。リンの周りには、人々の欠片(かけら)が飛び散っていた。ついさっきまで列車の中でしかめっ面をしていただろう人たちが、今は無残に引きちぎられ、ぴくりとも動かない。そのくせに、表情は眠るように安らかだった。生き残った人たちは、ほうほうの(てい)で逃げまどっていた。


 リンの視界を横切った男性が、死体につまずいて転んだ。転んだ男性めがけ、人影が追いすがる。先に倒れていた男性の悲鳴が、唐突に途絶えた。入れ替わりに、肉を嚙む音が聞こえてくる。


 痛みをがまんし、リンは後ずさった。男性の亡骸を抱きしめながら、コイクォイはその軟らかい喉元を食っていた。コイクォイの頭は透明で、結晶のように角ばった形をしており、奥の光景が透き通って見える。やがて男性の血が頭の中に充満すると、コイクォイの頭部は()れたトマトのようになった。


 そのときにはもう、リンは立ち上がり、逃げまどう群衆の中に駆け込んでいた。どうすればいいのかなど分からない。しかし、リンは


「リヨウ……?」


 と、何とはなしに妹の名を口にした。そしてすぐに、リンはその言葉の重みに気付いた。


 リヨウがいない。


「リヨウ――うっ?!」


 正面からやってきた男に突き飛ばされ、リンは水溜まりの中に倒れ伏した。リンの肘は砂利にまみれ、口の中に血の味が広がる。


 身を起こしたリンの前方に、ひしゃげた車両の姿があった。それを見た瞬間、リンの全身を稲妻のようなものが駆けめぐった。妹は、あの車両にいる――どういうわけかリンは、直感的にそう思った。


 いったいなぜ、列車はこんな状態になっているのか。リンにもその答えが、おぼろげながら分かってくる。


 ただ脱線するだけなら、列車はつぶれたりなどしない。リンたちを乗せた列車は、前の列車に追突したのだ。どうして追突したのか? ――前の列車が止まっていたからだ。


 なぜ止まったのか?


「うわあっ?!」


 その答えが、リンの真横から飛び出してきた。トウモロコシのような頭を持ったコイクォイが、リンに飛びかかってきたのだ。


 前を走る列車の中には、“黒い雨(ドーシチ)”を浴びた人がいたのだ。その人はコイクォイに変貌し、周囲の人々に次々と噛みついた。噛みつかれた人たちもコイクォイになり、ついに列車は止まってしまったのだ。


「くっそ……!」


 腕を伸ばすと、リンはコイクォイの頭を押し戻そうとする。コイクォイも腕をばたつかせながら、リンの喉笛を食いちぎろうと歯を打ち鳴らす。コイクォイの頭からしたたり落ちた血と膿とが、リンの白いTシャツを汚す。


 もがいた拍子に、リンのかかとが何かを蹴り飛ばした。蹴り飛ばされたものは音を立てて、中身を周囲にぶちまける。中身は、油だった。油に足をとられ、コイクォイの身体(からだ)が浮いた。


「あっ?!」


 ほんの一瞬の出来事だった。リンの突きだした右足が、バランスを崩したコイクォイの腹を突く。コイクォイは前のめりの姿勢のまま投げ出され、リンの頭上を通りぬけた。上下がさかさまになったリンの視界の真ん中で、地面にたたきつけられたコイクォイの頭が、直角に折れ曲がった。


「り、リヨウ!」


 こと切れたコイクォイには目もくれず、リンは口の中に入りこんだ油を吐き捨てる。油の中をもがきながら、リンはやっとの思いで列車にたどり着いた。


 砕け散った列車の窓から、リンは内部に侵入する。リンの手がガラスに引っかかった。親指の腹がやぶれ、こぼれた血が油に交じる。


 列車の中は煙たく、じっとしていられないほど暑かった。ショートした配電盤が、断続的に火花を散らしている。あの火花を被ろうものなら、リンはたちどころにして炎に包まれ、焼け死んでしまうだろう。


「待ってろよリヨウ……!」


 しかし、危ないのはリヨウだって同じなのだ。瓦礫(がれき)をかき分けながら、リンは奥へ進む。


「リヨウ?! 返事しろ!」


 妹からの返事はない。内部は暗く、油の臭いと血の臭いとで、息が詰まりそうだった。“鷹”の魔法が威力を発揮するのは、明るい場所でだけだ。配電盤の火花程度では、リンの目には役に立たなかった。


「リヨウ!」

「お姉ちゃん……」


 暗がりの向こうから声が響いてきた。


「リヨウ?!」

「お姉ちゃん……?」


 折り重なった座席の残骸に、リンは身体(からだ)をもぐりこませる。木切れがリンの肘にあたり、はみ出したネジがリンの肌を刺した。


 それでもリンは、少しも痛みを感じなかった。奥にうずくまっている人影に、リンはやっとの思いで手を伸ばす。


「リヨウ! よかった……」

「お姉ちゃん……」


 妹のか細い肩を抱きよせると、リンはその頬に口づけをした。


「出るぞ!」

「待って……お姉ちゃん……」


 リンの手を、リヨウは握り締める。


「足……折れちゃったかも……」

「立てないのか?」


 リンの質問に、リヨウは首を縦に振った。


「分かった。オレに(つか)まれ。ほら、」


 リュックサックを前に背負うと、リンはリヨウの腕を持ち上げ、リヨウの身体を背中に乗せた。


「ガマンしろよ」

「うん」

「手ェ絶対に放すな」

「分かった」


 リヨウを背負ったまま、リンは来た道を戻る。車内はさっきよりも暑い。金属製の手すりにつかまろうものなら、手がただれてしまいそうだった。


 ほとんど這いつくばるようにして、リンは列車の外に出る。


「――お姉ちゃん!」


 冷えた空気を全身に感じたかったリンだが、休んでいる暇などなかった。リヨウが悲鳴を上げたときにはもう、リンは反射的に前へと駆け出していた。


 脱線した場所が最悪だった。林の側ならば、木々に隠れることだってできただろう。しかし、リンたちの目の前に広がっているのは、むなしい平野に過ぎなかった。隠れることも、避けることもできない。となれば、ひたすら前に進むしかなかった。


「お姉ちゃん!」


 後ろから、リヨウの声が飛ぶ。


「何だ?!」

「あそこ! 見て!」


 リヨウの指さす方角を見て、リンは目をみはる。横転している車両のひとつが、別の車両の上に、ほとんど直角に、しかも無傷のまま乗っかっている。


 あそこに逃げこんで扉を閉めれば、もしかしたら助かるかもしれない。


 痛みをこらえ、リンは車両の入口までよじ登る。リンの背後では、コイクォイの悲鳴が渦を巻いていた。コイクォイが人を噛み、人はコイクォイとなって、また人を噛む――。無数に増えたコイクォイだったが、油のぬかるみを避けて走るだけの知恵はなかった。立ち上がることもままならず、多くのコイクォイたちは荒れ野を不規則に滑っていた。滑稽で、しかし不気味な光景だった。


「リヨウ、大丈夫か?」

「待て」


 上の車両に手をかけたそのとき、リンの頭上から、男の声が響いた。見上げたリンの眼前に、銃口が向けられている。黒い制服からして、男は列車の車掌だろう。


 男の指が、引金にかかる。それにつられ、銃の上部に取り付けられたカートリッジが回転する。“魔法銃”だ。


「噛まれてないな?」

「車掌さん、頼むよ……!」


 車掌の目は血走っており、鼻息は荒かった。背負われているリヨウが、苦痛のせいでうめき声をあげる。


 リンの眉間から照準を離すと、車掌はリヨウに向かって銃を構え直した。


 リンの全身が総毛だった。銃把を握る車掌の手は、小刻みに震えている。


「なぁ、落ち着けって……」

「俺は……俺は自分の見たものしか信じない……!」


 リンの額から汗が吹き出してくる。車掌を説得する暇はない。だからといって、引き返すわけにはいかない。


 車掌をなぎ倒してでも中に入るか? それもあり得るだろう――リンひとりだったならば。背中ごしに伝わってくるリヨウの重みが、リンの感情を抑制していた。


「せめて妹だけでも――」


 リンが口を開いたのと、リンの網膜が閃光を感じとったのとでは、いったいどちらが早かったのだろうか? リンにもその答えは分からない。しかしこれは、“鷹”の魔法がなせるわざだった。


 光を感じ取った瞬間、リンは反射的に身をよじり、入り口付近に据えてある手すりに(つか)まった。


 車掌とリンが言い争っている間にも、列車は少しずつ、ほとんど目では分からないほどの遅さで、油の中へと沈みこんでいた。押し潰された金属片が、ほんの小さな火花を立てる。たったそれだけでも、揮発した油を引火させるのには充分だった。


 沸き起こった炎は、鞭のようなしなやかさで、リンたちへ殺到した。リンが感じとった閃光は、この炎が発した光の第一波だったのだ。


 リンと車掌との違いといえば、段差の下にいるか、上にいるかということだけだった。しかし、そのわずかな違いが、二人の明暗を分けた。


 悲鳴を上げると、車掌は握っていた魔法銃を取り落した。熱波は複雑な軌跡を描き、リンたちを飛び越え、車掌の目を一突きにしたのである。


「目が……!」


 車掌が最期に言えた言葉は、たったこれだけだった。よろめいた拍子に足を踏み外し、燃え盛る油の海へと、車掌は真っ逆さまに墜落していった。


「登るぞ……!」


 噴き出した火の手は、すでにリンの足下をなめていた。足場に残された魔法銃を拾い上げると、リンはさらに上へと登る。車内へ逃げこんだところで、蒸し焼きになるのは間違いない。リンはそう考える。


 列車の屋根にたどり着くと、リンは周囲を見渡した。吹き寄せる熱風で、リンは焼け死んでしまいそうだった。周囲は炎で光り輝き、太陽の方が薄暗く見えるほどだった。


 取り残された。――その事実に気付くのに、時間はかからなかった。じきに列車は崩れ、二人は火の海に投げされてしまうだろう。しかしそれより先に、熱風に巻かれて死んでしまうかもしれない。


 どうする? 熱風の中で、リンは目を細める。そのときリンは、立ち込める煙の奥、ちらつく炎の向こう側に、青く輝くものを見た。


 リンの喉が鳴る。川だ。青々とした川面が、燃え盛る車両の向こう側に広がっている。この列車から飛び立ち、断崖を飛び降りれば、崖下を流れる川・オミ川までたどり着ける。


「飛ぶぞ、リヨウ――!」


 リンは叫んだ。声は炎の前にかき消え、リヨウの耳には届いていないようだった。しかしリンの首に回したリヨウの腕が、リンの叫びに呼応するように、リンの身体を抱き締めた。


 リンにはそれで充分だった。ありったけの声で叫ぶと、リンはみずからの魔力を解き放った。背中の翼で熱風を帆のように抱え込みながら、リンは不安定な車両の屋根を、一歩一歩前へと駆け出していく。


 爆発音とともに、リンの足元が揺らいだ。足を取られかけて、リンは一瞬その場に立ちすくんだ。


 ほんの一瞬だけ。


 しかし、なぜ止まったのか? ――そんなこと、リン自身にだってよく分かっていなかった。


 次の瞬間にはもう、リンは足場を蹴って空中へと飛び出していた。最後の、そして最大の爆発が、二人を後ろから追いかけ、その身体(からだ)を叩きつけた。


「リヨウ……?!」


 とっさに振り向いたリンだったが、爆風は容赦なくリンの身体(からだ)を弾き、川面まで吹き飛ばした。空気が熱すぎて、リンは息ができなかった。ところが今は、水のせいで息ができない――その事実に気付いたときにはもう、リンは意識を失った。

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