98.対スウェン(1)
「ほう……協力していたとはいえ、あれを倒すとは。前の町でミノタウロスを倒したという噂も、どうやら本当のようですね」
異形の猿が崩れ落ちた直後、スウェンの低く抑えた声が響く。その声音には苛立ちと、かすかな焦りが滲んでいた。予想以上に早い決着に、彼の計算が崩れたのは明らかだ。
だけど――私たちにとっては想定内。これぐらいで足止めされるほど、甘くはない。
「残ったのはお前だけだ。今すぐ武器を捨てて、大人しく投降しろ」
クロネが一歩踏み出してそう告げると、スウェンは薄く笑った。
「ふふ……魔物を一体倒したぐらいで、勝った気にならないことです。私の実力を見くびらないでいただきたい。あなたたち程度なら、ひとひねりで――」
「私たちを侮らないで」
私が鋭く割って入る。クロネは双剣を構え、鋭い視線をスウェンに突き刺す。しかし、スウェンはどこか余裕を残したまま、冷笑を浮かべていた。
「確かに、今の状況では分が悪い。二対一ではね。……ですので、こちらも二人にしましょうか」
「また猿の魔物か? 何体出そうが、同じように叩き斬るだけだ!」
クロネが叫ぶと、スウェンは軽く首を横に振った。
「いいえ、猿はもう結構。次は――あなたたちに最も効果的な敵を用意しました」
そう言って、スウェンがゆっくりと手を掲げる。すると、彼の背後に控えていた影が前に進み出た。
――ランカ。
虚ろな目をしてこちらに歩み出てくる。目の奥に宿っていた温もりは、どこにもない。
「この獣化の力を持つ獣人――今や、私の命令に忠実な戦士です」
「……ランカ……っ」
「くそっ、ランカを戦わせる気か!」
感情が堰を切ったように溢れた。ランカをこんな風に利用するなんて――許せない。
「これは大きな拾いものをしました。まさか、獣化の素養がある獣人に出会えるなんてね。万に一人、いや……十万、百万に一人の逸材。前々から優秀な手駒が欲しかったところなんですよ。だから、薬を与えて無理やり力を解放したんです」
「じゃあ、ランカを誘ったのは……手駒にするため!?」
「そうです。信仰を広めるには、時に力が必要な時がありますからね」
ランカを神官見習いに誘ったのは、ランカに眠る獣化の素質を見抜き、利用するためだった。ただの手駒として――それだけの理由で。
そこに、ランカ自身の意思や希望なんて、微塵も考慮されていなかった。
「……そんな理由で、ランカを……!」
胸の奥から怒りがせり上がってくる。ランカの優しさも、笑顔も、何もかも踏みにじって――。
「……それを聞いて、はっきりした。私は絶対に、ランカを取り戻す!」
声を震わせる暇もない。強く、真っ直ぐに言い放った。
「こんな卑劣なやり方、許せるわけがない! カリューネ教の思惑に、ランカを巻き込ませはしない!」
「絶対に、お前たちの好きにはさせない!」
決意を乗せた声が、闇を裂くように響いた。その声にスウェンが嫌そうに顔を歪める。
「これはもう、私の手駒。あなたたちには渡しません。さぁ、ランカ……力を解放するのです」
スウェンの冷酷な声に、ランカは無表情のまま頷いた。
「……分かりました」
その声には、もはや彼女らしい温もりはない。
ゆっくりと一歩前に出ると、空気がピンと張りつめた。重苦しい気圧が場を支配し、息を呑むような静寂が広がる。
ググッ……ッ!
ランカの体が前のめりになり、内側から何かが膨れ上がるような違和感が走った。全身がざわつき、皮膚の下を力が蠢いているのが目に見えるようだった。
「……うっ、あ、ああ……っ」
低くくぐもった唸り声が漏れ、肩が、背が、音を立てて隆起していく。
骨が軋む音が響き、ランカの四肢や体が変化していく。その姿はどんどん人の形から外れていった。皮膚が伸び、濃い灰色の体毛が音もなく広がり始める。
指が――爪が――獣のそれへと変貌していく。
そして――。そこに立っていたのは、かつてのランカではなかった。
今や全身を灰色の毛に覆われた、二足歩行の巨大な狼へと姿を変えていた。身の丈は優に二メートルを超え、爛々と光る瞳がこちらを睨みつける。体は引き締まり、筋肉の鎧に覆われたように逞しい。
「ランカ……」
思わず名を呼ぶ。けれど、返事はない。
「ウオォォォンッ!」
ただ、重たい唸り声が喉の奥から漏れるだけだった。
だけど、その唸り声を聞いた瞬間、私の中で気持ちが強くなった。それはただの獣の咆哮じゃない。どこか、苦しそうで、助けを求めるような響きがあった。
ランカの意識がまだ残っている。
きっと、こんな姿になるなんて、望んでいたはずがない。戦うためにスウェンについていったんじゃない。誰かを傷つけたくて、神官見習いになったんじゃない。
今も、心のどこかで抗っているはずだ。ランカを、あの優しかった彼女を――必ず、取り戻してみせる!
「行くよ、クロネ!」
「あぁ、ランカを取り戻す!」
咆哮するランカを前に私たちは立ち塞がった。
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