115.初めての気持ち(2)
布が擦れるかすかな音が耳に届き、半分沈んでいた意識がふわりと浮かび上がる。ごそごそと寝返りを打つ音が、何度も部屋の中に響いていた。
「……うーん」
寝苦しそうな唸り声まで混じっている。まだ重たい頭を働かせながら、音のする方へ寝返りを打つと――ランカのベッドがもぞもぞと揺れているのが見えた。掛け布団が波打つたびに、彼女の小さな唸り声がこぼれている。
気になって、私は布団から抜け出し、そっと体を起こして近づいた。
「ランカ、大丈夫?」
「……あ。ごめん、起こしちゃった?」
「ううん。そんなことないよ。それより、どうしたの?」
「……早く寝すぎちゃって、目が覚めただけ。ほんと、それだけだから」
かすかに笑ってみせるけれど、その表情には申し訳なさと遠慮がにじんでいた。そんな顔を見たら、とても放っておけない。
「もう少しで朝日が昇るよ。よかったら、一緒に見に行かない?」
「……朝日……うん」
「じゃあ、着替えて外に行こう」
少し間を置いて、ランカは小さく頷いた。その仕草がどこか頼りなくて、だからこそ大事にしたくなる。二人で静かに着替えを済ませ、まだ夜の名残を残す空気の中へと足を踏み出した。
◇
「まだ日が昇ってないから、ちょっと寒いね」
屋敷を抜けて庭に出ると、朝露を含んだ冷たい空気が頬をかすめた。思わず両腕をさすりながら隣を見ると、ランカはいつも通りの顔で立っている。
「ランカは平気」
「やっぱり、もふもふがあるから?」
「えっ……どうなんだろう?」
私の冗談めいた言葉に、ランカは小首を傾げる。
彼女の狼耳は大きくて柔らかそうで、しっぽは市場に並ぶ毛皮よりもずっとふさふさだ。きっとあれがあるから寒さに強いんだろう。そう思ったけど、本人はあまり自覚がないみたいだ。
「ユナはもふもふが好きだね」
「うん、大好き。だってね、ふわふわで暖かくて……抱きしめると安心するんだ。心までぽかぽかになるの。もふもふって、幸せが詰まってる感じがするよ。今もランカをもみくちゃにしたい気持ちが溢れてくるよ」
「それはちょっと困る」
冗談半分、本気半分で詰め寄ると、ランカは困ったように口元をゆるめた。その自然な笑みを見て、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「良かった。ランカが笑ってくれて。……昨日、あんまり笑ってなかったでしょ?」
「あ……うん」
「町を出たときは、あんなに楽しそうだったのにな。何か、気になってることがある?」
「それは……」
問いかけに、ランカの表情がかすかに曇る。言いたそうに唇が動くのに、声にはならない。ちらりと私をうかがう視線。そこに迷いとためらいが滲んでいた。
やっぱり、心の中に抱えているものがあるんだ。けれど、それを言葉にするには勇気が足りなくて、まだ踏み出せない。きっと不安が、ランカを縛っている。
その不安を、どうすれば取り除いてあげられるだろう。ランカを思うと胸がキュッと縮む。きっと、ランカも同じ気持ちに違いない。
早く、その気持ちから解放してあげたい。私はランカの手をギュッと握り、優しい笑顔を向けた。
「ランカ、怖がらなくてもいいんだよ。何を話してくれても、嫌いになんてならないし、突き放したりもしない。むしろ……ランカの気持ちが分からないままの方が、私にはずっと怖いの」
「……え?」
ランカは小さく息を呑んで、目を丸くした。驚きと戸惑いが混じった表情。きっと、私の気持ちがちゃんと伝わるのは初めてなんだろう。
どうやら、今までお互いの心がすれ違っていたみたいだ。だから、私の気持ちを伝えよう。
「私、ランカのこと、ずっと心配だったんだ。どうして笑わなくなっちゃったんだろうって。……もしかして、私がランカをそんな風にしちゃったのかなって、自分を責めたくらいだよ」
「そ、そんな……ユナは悪くないよ! 悪いのは、むしろランカの方で……」
「どうして、そう思うの?」
問いかけると、ランカは小さく首を横に振り、静かに俯いた。狼耳もしっぽも力なく垂れてしまい、その姿が胸に痛いほど突き刺さる。
私は息を整え、急かさないように、そっと声をかける。
するとランカは、揺れる瞳をこちらに向けて、ためらいながらも少しずつ言葉を紡ぎはじめた。
「……ヘドロスライムの時、全然役に立てなかった。二人に迷惑ばかりかけちゃったから」
「迷惑……?」
「ランカ一人で倒したかったのに、結局ユナに助けてもらった。それだけじゃなくて、めちゃくちゃに戦って自然まで壊して……あの時のランカは、二人に迷惑をかけることしかできなかった」
必死に言葉を吐き出すランカの表情は、申し訳なさでくしゃりと歪んでいた。
私にとってはほんの些細なこと。むしろ気にする必要なんてない出来事。けれど、ランカにとってはそれが大きな傷になっていた。
まさか、あの時のことが、ランカの心をこんなにも強く縛っていたなんて。
「思ったように活躍できなかったから。二人の期待に応えられなかったんじゃないかって、ずっと考えてた。あんなに大口を叩いて、胸を張って二人についてきたのに……」
言葉を途切れ途切れにしながら、ランカはぎゅっと拳を握りしめる。爪が食い込みそうなほど強く握ったその手は、小さく震えていた。
俯いたままの顔には、悔しさと情けなさが入り混じった影が落ちている。かすかに噛みしめた唇が震え、長い睫毛の下で瞳が揺れていた。
まるで、自分自身を責めるたびに胸の奥を傷つけているみたいで――その姿があまりにも切なくて、見ている私の方が苦しくなる。
「……二人に迷惑をかけるくらいなら、最初から仲間にならない方が良かったのかなって……ずっと、考えてた」
その言葉は、かすれるように小さく落ちた。
今にも消え去りそうなランカの姿に私は――手を引っ張ってその体を抱きしめた。




