第六十四話・母と折り合いが悪かったピアノの先生の話
つんぼ。聾唖を指す言葉。
今では使用禁止用語ですが、私はわざと使います。理由は、幼少時の私に対する周囲の悪口がソレだったから。
そして母の口癖が「あんたはつんぼではない。ちゃんと聞こえている普通の子だから」 だったからです。
世間がどういおうが、「つんぼ」 という言語は少なくとも私の生きている間、私の心の中で大きな位置を占めています。仮に炎上したとしても「つんぼ」 は、私の心から決して消えません。
それでは行きます。
つんぼ、つんぼ、つんぼ……( ← ← 飛び跳ねていくイメージを作ってお読みください)
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私は幼稚園年長あたりからピアノのレッスンを開始しました。最初の最初は、母が見つけてきました。近所の家からピアノの音が流れて来て、母はその家に伺って「うちの子にもお願いします」 と頼みました。内向的な母にしては冒険だったですが、その先生で正解でした。ピアノがまったく初めての私、そして私の妹Zに優しく教えていただきました。週に一度、家に来ていただく形です。一回につき三十分。
私もピアノがおもしろくて結構熱心に練習しました。一曲しあげると、楽譜の題名の横に大きな花丸をつけてもらうのが励みでした。初めての発表会は大阪のロイヤルホテル。そこで出されたケーキがおいしくて、びっくりしたのを覚えています。良い思い出です。しかし、その先生は当時はまだ学生で音大卒業と同時に教えることをやめられました。
次の先生が見つけられず、母は駅前に新しくできたピアノ教室に通う段取りをつけてくれました。私はそこに週一度、通うことにしました。一方、妹Zはピアノをやめました。練習をしなくても平気でレッスンに出たり、時に駄々をこねたりするので、先生から「お月謝をもらうのが心苦しいです」 と言われるほど。だからレッスンをやめて喜んでいました。このZ,短大卒業後に幼稚園教諭になるといって突如ピアノレッスン再開をしたときには驚きましたけど人は変わるよね。妹Zのことをわざわざ書いたのは、次の先生の話のとっかかりです。この話の目撃者がいない。
さて、話を戻します。
この二度目の先生と母が折り合いが悪かった。先生をYとします。女性です。小学校二年生ぐらいになっていたので、母のつきそいはなく、自転車で通いました。が、Yは私が教室に入ると不在がち。おとなしく座って待つ私。教室内にYがいるときは煙草を吸っている。私が入ると、煙草を消してトイレに行く。私が来るまではYの休憩時間だったのかもしれません。でも、前の先生を知っている側としては、笑顔がないこと、面倒そうに話すことで、嫌われたと子どもながらに感じていました。当時は、理由はわかりませんでした。
それからYは、レッスン中に私に聴力検査をしました。私に後ろを向かせ、この音が聞こえるかなど言わせます。
「この音はなにか」 ではなく、「この音が聞こえるか」 です。そのうちにろくにレッスンをつけなくなり、そのまま返すようになりました。つまりYは、私にやめてほしかったのです。
母は私の行動を把握する人間なので、三十分のレッスンなのに、自転車で行くにしろすぐに戻ってくる。レッスン内容はどうなっているのか、根ほり葉ほり聞きます。それで聴力検査をしたことをいうと、母は今まで私に見せたことのない怖い表情で私の手をひいてそのYのところに連れていかれました。
「あんたは医者でもないくせに、なぜ聴力検査をするのか」
Yは、とても冷静で「お嬢さんに聞こえてない音があるのではないかと思ったからです」 と説明しました。それに返答した母の言葉はなんだと思いますか。
「娘はつんぼでないのに、ひどい」 でした。
Yは、母を相手にしていないようでした。当時の私は、まだ耳鼻科受診歴なし。だから己を
① 「耳が悪いと思っていない」 。
② 「耳が悪いことがどういうことか、が、わかっていない」
一方、母は、(今だからできる考察をすると)以下の思考でした。
① 我が子の耳が悪いのを認めない。
② 我が子の耳を「母の許可なく検査した」 ⇒ ⇒ 母をバカにした。
③ ⇒ ⇒ 我が子をつんぼと同様の扱いをして許せない。 ⇒ ⇒ 母をもっとバカにした。
……私は当時の私と、当時の母を思い出すごとにため息をつきたくなります。私は即刻そのピアノ教室をやめさせられました。Yの目論見通りになったわけです。
母はYのことを根に持って怒っており、Yが当時珍しかった茶髪、濃い化粧を「水商売の女」 みたいな嫌なヤツ。と家でずっと罵っておりました。母は人を見た目で区別する人間で、目立つような格好をするだけで、差別の対象にしていました。
でも、本当におかしかったのは、母の方です。Yのやったことは、私をどう扱ってよいかわからず、やめてほしかったからでしょう。ピアノ講師として、聞こえてない音と聞こえている音を把握したかったのではないか。ぼんやりとした私を嫌ってはいたと思うけど、案外それは母に耳鼻科に行くように告げたものの、無視されたからではないか。
耳鼻科に連れて行ってくれたのは、小学校三年の終わりで私は当時の担任からひどく嫌われ、成績表にもそれが明らかにわかる書き方をされたからと感じています。それがあって母はもう隠せないと感じたのではないか。この子は難聴だよと耳鼻科医にきっぱりと言われた母は泣きそうな顔をしていました。きっと母は長い間、それを認めたくなかったのでしょう。
例の担任から私は動作が遅いことと、指示を理解できないことで皆の面前で恥をかかされ、軽蔑されていました。当時の学校には聴力検査などはなく、仮に指摘されたとしても、母の様子では「うちの子の耳は悪くない」 とそれにも無視をしていた可能性があります。
私は老いた母に聞きます。
「小学校三年生の終わりから通院が始まったけれど、本当は幼稚園児から私は耳が悪かったでしょう」
この質問に母は下を向いて無言でいました。何度聞いても無言です。だから私の推測は当たっていると思います。
それでいて、私をかわいがって育てた。私が現在生きていられるのは誰のおかげって言います。私はこれにため息をつくしかありません。私も母も愚かな人だと思いますが矯正もできません。




