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お姉さんと僕  作者: 埴輪庭
第3章

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第28話「日常㊷(御堂 聖、お姉さん、唐笠小僧)」

 ◆


 その日、僕は夢を見ていた。


 いつもの夢だ。


 見渡す限り、黄金色の稲穂が風にたなびいている。さわさわという乾いた音がどこまでも続いている。空は高く澄み渡っていて空気は少しだけ甘い匂いがした。


 そしてその中心にお姉さんが立っている。


 白いワンピースにつばの広い帽子。その姿はまるで風景画の一部みたいにこの場所に馴染んでいた。


 いつもなら僕は嬉しくなってすぐに駆け寄っていく。ここが僕にとって世界で一番安心できる場所だから。


 でもこの時は違った。


 足が動かない。なんだか、そんな気分になれなかったのだ。


 牧村さんのことがまだ頭から離れない。もし今お姉さんに会ったらきっと情けない泣き言を言ってしまいそうで。そんな自分が嫌で僕はただ立ち尽くしていた。


 そうして躊躇していると──


「聖くん」


 すぐ横で声がした。


 聞き間違えるはずもない、お姉さんの声だ。


「わっ……!」


 驚いて声を上げてしまう。いつの間にか、お姉さんが僕のすぐ隣に立っていた。相変わらず気配がないというか、神出鬼没というか。


 お姉さんは少しだけ首を傾げて僕の顔をじっと覗き込んできた。その赤い瞳が僕の心の奥底まで見透かしているようで、少しだけ居心地が悪くなる。


「あの女の人が死んでしまって悲しいのね」


 僕が黙って頷くと、お姉さんはそっと僕を抱きしめてくれた。ふわりと漂う、日向のような懐かしい匂い。その温もりに触れると、張り詰めていた心の糸が少しだけ緩む。


「そう、かわいそう」


 お姉さんが呟く。


 でもその声色には少しだけ引っかかるものがあった。なんというか、全然可哀そうだと思っていないような、そんな響き。


 僕がそんなことを考えていると、またしても心の中を読んだようにお姉さんが言った。


「ええ、私は何とも思っていないの。あの女の人のことなんてどうでもいい」


 そしてゆっくりと僕の体を離し、真っ直ぐに僕の目を見つめる。


「だって私はヒトが嫌いだから」


 その言葉に僕は息を呑んだ。


 お姉さんは怒ってもいないし、笑ってもいない。ただ事実を告げているだけ。


 だけど、「ヒトが嫌い」と言った時のお姉さんは何かものすごく怖く感じた。それは僕が知っている優しいお姉さんとは違う、もっと冷たくてもっと恐ろしい何か。


 ぞわりと背筋が寒くなる。


「もし()()()、私が出ればあの女の人は死なずに済んだかもしれないわね。でも私はそうしなかった。この先もそんな事はしないわよ」


 お姉さんの声はどこまでも平坦だ。


「聖くんがどこの誰とどんな関係になっても、それがヒトである限り、私は助けない。私が守るのは聖くんだけだから」


 僕は返す言葉がなかった。


 でも同時にこう思ったのだ。


 ──ああ、お姉さんはそういう人(?)なんだな


 不思議と、お姉さんの考え方についてどうこう思うような事はなかった。


 だってお姉さんは人間じゃない。僕とは違う存在だ。だから人間と同じような倫理観や価値観を持っているはずがない。


 お姉さんがヒトを嫌いなのはきっと何か理由があるんだろう。以前見た夢。あの巫女さんの記憶。荒れ果てた村と、憎悪に満ちた男たちの顔。もしお姉さんがあの巫女さんだったとしたらヒトを嫌いになるのも当然だ。


 僕はお姉さんの過去に何があったのか知らない。でもお姉さんが僕を守ってくれるのは本当だ。それだけは信じられる。


 それに「僕だけ」が特別だと言ってもらえるのは少しだけ嬉しい気もした。僕だけのお姉さん。その響きが僕の心の暗い部分をくすぐる。


 そう思えてしまう自分が少しだけ不思議だった。僕はやっぱり、どこかおかしいのかもしれない。


 そんな僕の様子を見てお姉さんは少しだけ目を細めた。


「でも、聖くんがしようとすることを邪魔するつもりはないわ。もし聖くんがこの先、誰かを助けたいと思うのなら──」


 お姉さんが僕の頬にそっと触れる。その指先は少しだけ冷たい。


「聖くん自身が強くなって助けなさい」


 強くなる。


 その言葉が僕の心に重く響いた。


 強さって何だろう。


 格闘技とか、銃の撃ち方とか、そういうのを学ぶべきだろうか? 


 僕がそんな事を思っていると、お姉さんは「仕方ないわね」とでも言いたげに僕の頭を優しく撫でてくすりと苦笑した。


「一つヒントをあげる」


 お姉さんが言う。


「聖くんが考えているような事も、確かに強さかもしれないけれど、強さはそれだけじゃないのよ?」


 それだけじゃない、強さ。


 僕にはよく分からなかった。


「聖くんの長所はなぁに?」


 突然の問いかけに僕は戸惑う。


 僕の長所? そんなもの、あるんだろうか。


 いや、あるのだろう。でなければお姉さんがこうして良くしてくれるわけがない。それに、茂さんや悦子さんだってとても優しい。アリスや裕だって……きっと僕に何かの長所があるから仲良くしてくれているのだろう。


 そう、()()なんだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()──


 でもその長所が僕にはわからない。霊媒体質が長所? どうなんだろう、それはただの異能の一種で、長所とは違う気がするけれど。そんな事を考えていると、お姉さんは何も言わずにただ微笑んでいて。


 ああ、だんだんと意識が薄れていく。


 稲穂の揺れる音が遠ざかり、お姉さんの姿も霞んでいく。


 夢から覚める時間だ。


 もっとお姉さんと話していたかったのに。僕の長所って何なのか、教えてほしかったのに。


 僕は名残惜しさを感じながらゆっくりと意識を手放した。


 ◆


 目が覚めると──


「ここは……ああ、そうだ」


 木目が浮き出た、古い天井。カビと埃の匂いが鼻をつく。


 そうだ、僕は昨日、あのマンションを出たんだった。


 ここは雑司ヶ谷にある遺棄された一軒家だ。紫色のドームが東京を覆ってからこういう空き家は珍しくない。鍵は開け放たれていて家の中はかなり荒れていた。家具はひっくり返り、ガラスの破片が散らばっている。誰かが物資を漁った跡だろう。でも二階の寝室だけは比較的綺麗で埃を被ってはいたけれど寝具も残っていた。


 僕はそこで一晩を過ごしたのだ。


 体を起こすと、節々が痛む。慣れない場所で寝たせいかもしれない。


 僕は深くため息をつく。


 あのマンションにはもう戻れなかった。


 牧村さんの遺体をそのままにしてきてしまった罪悪感もあるけれど、それ以上に怖いのだ。


 掲示板の書き込みを思い出す。


『この東京じゃ、死者は簡単に動き出す』


『特に無念を残して死んだ奴はな』


 もし牧村さんが死霊になってしまったら。そう思うと、とてもあのマンションにはいられなかった。死霊というのは基本的に話が通じない事がほとんどで大体が危害を加えようとしてくるらしい。


 牧村さんとあんな風に会話ができたのはもしかしたら彼女がまだ完全に死にきっていなかったからなのかもしれない。


 幽霊自体が怖いわけじゃない。怖いのは別の理由だ。もし次に会う牧村さんが僕に襲いかかってくるような存在になっていたら。僕はお姉さんや傘の子に頼んで彼女を「消して」もらうことになるんだろうか。


 それはすごく嫌で、だから僕は逃げ出した。


 僕はベッドから降りて荷物をまとめたリュックサックを背負った。


 クロが僕の足元で丸くなっている。僕はクロを抱き上げ、リュックのポケットにそっと入れた。


 さてこれからどうしよう。


 僕の目的は二人──茂さんと悦子さんと合流することだ。二人が無事なのはクロを通して分かっているけれど、早く会いたい。


 牧村さんが生きていれば、彼女が所属する救世会を通じて二人の情報を得られるはずだった。でもそのパイプは絶たれてしまった。


 僕は自力で二人を探さなければならない。


 そのためにはまず救世会の人間を探す必要がある。


 救世会の本部は新宿にあると、牧村さんは言っていた。確か岩戸町だったかな? ここから新宿までは歩いて行けない距離じゃない。2時間かからないくらいだろうか。


 危険なのは分かっている。阿弥陀羅みたいな連中もいるし、怪異だっていつ現れるか分からない。


 でも行かなきゃ。


 いつまでもこうして隠れているわけにはいかない。


 僕は黒い和傘を握りしめ、部屋を出た。


 ◆


 それにしても強さ、か。僕の長所ねえ……うーん……


 いい人とか優しい人みたいな事は言われた事がある。


 でも昔、ネットのまとめサイトで「『いい人』っていうのは『(どうでも)いい人』の略」なんて書き込みを見て一人でげんなりしたことがあったんだよなあ。


 まさか、優しい事が強さになるって……コト? 


 なぜか、頭の中で小さくて白い、よく分からない猫に似た生き物が深刻な顔で問いかけてきている気がした。いや、気のせいだ。疲れてるのかな。


「ねえ、クロ。僕って優しいかな?」


 リュックのポケットからクロを持ち上げて尋ねてみる。クロはフルフルと震えた。なんとなく、それがYESの意味であるような気がして少しだけ嬉しくなった。


 でもまあ、優しい=強いってわけじゃないだろう。


 むしろ、この東京では逆なんじゃないだろうか。


 ああ、駄目だ。またこうやってウジウジと考えてしまう。


 自分でもちょっと卑屈だなっていうのは分かっているのだ。


 分かっているけれど、止められない。


 はあ、と深いため息をつく。考えても答えが出ないことをぐるぐると考え続けてしまう。悪い癖だ。


 もっと前向きに建設的なことを考えないと。


 そう思っていたら──


 あれ? 


 ない。


 握っていたはずの傘の感触が、右手から消えていた。


 つるりとした柄の感触が、ない。


 えっ、どこかに落とした? 


 いや、忘れてきた? まさか。ちゃんと持って出た覚えはあるのに。


 血の気が引いた。


 慌てて立ち止まり、来た道を振り返る。でもどこにも見当たらない。


 どうしよう、戻って探さなきゃ。


 そうして焦っていると──


「ねえ、お兄さん……ちょっとうるさいんだけど!」


 唐突に隣から声がした。


 僕は飛び上がるほど驚いて声のした方を見た。


 いつの間にか、僕の隣を中学生くらいの子供が歩いていた。


 黒い浴衣のような服を着た、黒髪を短く切り揃えている少年だ。少し不機嫌そうに僕を見上げている。傘の子だった。


「あのさ、静かにしてくれない?」


 傘の子は僕の驚きなんて気にも留めず、ぷいっと顔を背ける。


「静かにって……僕、何も喋ってないけど」


「頭の中!」


 傘の子が僕の額をツンと指差す。


「お兄さんの考えてること、全部聞こえてるんだからね。『僕はダメだ』とか『どうせ僕なんて』とか、ウジウジウジウジと。聞いてるこっちが疲れちゃうよ」


 ──えええええ。


 僕の思考、全部筒抜けだったのか。それは恥ずかしすぎる。


「あのお姉さんも笑ってたよ。『聖くんは相変わらずね』って」


「お姉さんも!?」


 最悪だ。お姉さんにまで聞かれていたなんて。しかも笑ってた? 


 僕は恥ずかしさのあまり、顔が熱くなるのを感じた。僕のプライバシーは一体どうなっているんだろう。


「静かにして。僕、静かなのが好きなんだから」


 傘の子はそう言うと、僕の横を通り過ぎて──振り向いたらもうどこにもいなかった。


 なんだか、さっきまでのシリアスな悩みが一気に吹き飛んじゃった気がするなあ。

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