第16話「善性と悪性」
◆
がしゃん、と瓦礫が崩れる音がした。
牧村綾香はびくりと肩を震わせ息を止めた。心臓が早鐘を打ち耳鳴りがする。右の脇腹を押さえる左手はもう感覚が麻痺し始めていた。血はまだ止まっていない。
──見つかったッ
尾崎の声がすぐそこから聞こえる。粘着質でそれでいて異様な熱を帯びた声。
「いたぞ。こっちだ」
複数の足音が瓦礫を踏みしめながら近づいてくる。一歩また一歩。まるで死刑執行のカウントダウンのように確実な死が迫っていた。
牧村は歯を食いしばり最後の力を振り絞って立ち上がろうとした。逃げなければ。たとえ数メートルでもこの場から離れなければ。
だが出血と疲労で体が思うように動かない。膝ががくがくと笑い視界が霞む。
瓦礫の山の向こう側から、ぬっと人影が現れた。
尾崎だ。
骸骨を思わせる落ち窪んだ眼窩の奥で狂気を孕んだ瞳が爛々と輝いている。その口元は醜悪に歪み乾いた唇を舌で舐め回していた。
「よう、ネズミ。随分と手間をかけさせてくれたじゃねえか」
尾崎はゆっくりと近づいてくる。その一挙手一投足が牧村の恐怖を煽る。
「だが、それも終わりだ」
尾崎が手を挙げると同時に部下たちが左右から回り込んできた。逃げ道は完全に塞がれた。
牧村は壁を背にして立ち震える手でハンドガンを構えた。残弾は少ない。だがこのまま黙って捕まるつもりはなかった。
「来るなッ!」
叫び声が裏返る。
引き金を引こうとした瞬間尾崎が動いた。
驚くほど素早い動きで距離を詰め牧村の手首を掴み上げる。骨が軋むほどの力。
「あっ……!」
思わず銃を取り落とす。カシャンと乾いた音が足元に響いた。
「元気なネズミは嫌いじゃねえぜ。だが──」
尾崎の顔が間近に迫る。腐った肉のようなあるいは錆びた鉄のような臭いが鼻をついた。
「少し大人しくしてもらおうか」
尾崎が懐から拳銃を抜き放つ。躊躇はなかった。
乾いた銃声が二発夜の闇を引き裂いた。
「あぐっ……!」
短い悲鳴と共に牧村の体がくずおれる。
両の太ももに焼けるような激痛が走った。撃たれたのだ。
地面に倒れ込みもがく牧村。だが足に力が入らない。どくどくと血が溢れ出しアスファルトに黒い染みを作っていく。
「これで逃げられねえな」
尾崎が満足そうに呟き銃をしまう。
部下たちが一斉に牧村に群がった。
「離せッ! 触るな!」
牧村は必死に抵抗するが多勢に無勢だった。あっという間に両腕を後ろ手に捻り上げられ地面に押さえつけられる。
「くそっ……! 殺せ! いっそ殺せ!」
絶叫する牧村の顔の横で尾崎がゆっくりとしゃがみ込んだ。
「殺す? 馬鹿言え。お楽しみはこれからだろうが」
尾崎の手が牧村の頬を撫でる。その感触にぞわりと鳥肌が立った。
「いい女だ。久しぶりの極上だ」
尾崎は懐からナイフを取り出した。刃が街灯の光を反射して鈍く光る。
その切っ先が牧村の着ているジャケットの胸元に当てられた。
「ひっ……!」
牧村の喉から恐怖の呻きが漏れる。
ザクッと布が裂ける音がした。
尾崎は一切の躊躇なくジャケットそしてその下に着ていたシャツを切り裂いていく。
白い肌が露わになる。下着姿にされた牧村は屈辱と恐怖で体を震わせた。
寒い。だがそれ以上に尾崎の視線が熱い。まるで肌を焼かれるようだ。
「おい しっかり押さえておけよ」
尾崎が部下に命じる。男たちが牧村の手足をより強く押さえつける。
尾崎は立ち上がり牧村を見下ろした。
その股間が異様なほど大きく隆起しているのが見えた。
「まずは──」
尾崎がナイフの刃を牧村の右耳に当てる。
「てめえの右耳を切り取ってやる」
冷たい金属の感触に牧村は目を見開いた。
「そしたら一発犯す」
尾崎の声は淡々としている。まるで作業手順を確認するかのように。
「そのあとは左耳だ。それも切り取る」
ナイフが少しだけ動く。皮膚に食い込むような痛み。
「そしたらもう一発犯す」
狂っている。こいつは人間じゃない。化け物だ。
牧村は奥歯を噛み締めた。涙が溢れ出し頬を伝って地面に落ちる。
尾崎はそんな牧村の様子を見て愉悦に表情を歪めた。
すんと鼻を鳴らす。空気を吸い込む。
「ああ……いい匂いだ」
恍惚とした表情で呟く。
「恐怖の匂いだ。濃密で甘い……極上の匂いだ」
尾崎の異能は嗅覚の拡張だった。
それは決して珍しい異能ではない。五感の拡張──視覚 聴覚 嗅覚 味覚 触覚。それらのいずれかあるいは複数が常人よりも鋭敏になるというだけの地味な能力だ。ゲームや漫画に出てくるような派手な異能──炎を操ったり雷を放ったり時間を止めたりといった"力"を行使できる者はこの東京においてもそう多くはない。大半の異能者は尾崎のような"大したことのない異能"の持ち主だった。
だが尾崎は自身の力を厭うことはなかった。むしろこの力を最大限に活用していた。
匂いからは非常に多くの情報が得られる。
血の匂い汗の匂いそして──感情の匂い。
恐怖 絶望 憎悪。そういった強い感情は特定の分泌物を伴い微かな匂いとなって空中に漂う。常人には決して感知できないその匂いを尾崎は嗅ぎ分けることができた。
そして今目の前の女──牧村から漂う匂いは尾崎の欲望をこれ以上ないほどに刺激していた。
「さあ 始めようか」
尾崎がナイフを握り直す。その手が牧村の耳に伸びたその時だった。
「あ、あのっ……」
場違いなほどか細い少年の声が響いた。
◆
聖は少しだけ心配になっていた。
──何かトラブルに巻き込まれたのかもしれない
聖は少し迷った後、軽く周辺を探してみることにした。
部屋を出てマンションの階段を降りる。外は相変わらず紫色に染まった夜空が広がっていた。
聖はいつものように彼に力を貸してくれている浮遊霊たちにお願いをする。
「みんな、ちょっとお願いがあるんだけど」
聖が呼びかけると、空気の揺らぎのようなものがいくつか集まってきた。彼らは聖からあまり遠く離れて行動することはできない。でもこの周辺を探すくらいなら協力してくれるはずだ。
「隣の部屋の牧村さんっていう人を探してほしいんだ」
浮遊霊たちがざわめく。承諾してくれたようだ。
そこまで根を詰めて探すつもりはなかった。でもこれくらいはしてもいいだろうと聖は思っていた。
なぜならこれまで牧村とは多少なりとも友好的な関係を築けていたからだ。物資を分けてもらったり交換したりしたこともある。この前は叔父さんたちの情報を調べてくれるとまで言ってくれた。
そういう相手のことを心配するのは当然のことだ。それは"フェア"なことだと聖は思う。
浮遊霊たちが散らばっていく。聖は彼らの気配を辿りながらゆっくりと歩き出した。
しばらく歩くと浮遊霊の一つが戻ってきた。そして聖の周りを忙しなく飛び回る。
──こっち
言葉ではないけれどそんな意思が伝わってくる。
聖は浮遊霊に導かれるまま路地裏へと入っていった。
そしてそれを見た。
倒壊した雑居ビルの一階。瓦礫が散乱するその場所で数人の男たちが一人の女性を取り囲んでいる。
牧村綾香だった。
何か激しく男たちと言い合っているようだ。
聖は息を呑み、とっさに物陰に隠れた。
心臓がどくどくと音を立てる。怖い。あの男たちは明らかに危険だ。目つきも纏っている空気も普通じゃない。
──助けなきゃ
そう思った。でも足がすくんで動かない。自分一人でどうにかできる状況じゃない。
それに──聖は迷っていた。
もしこれが何かの糾弾のようなものだったら?
その理由や内容によっては聖は牧村を助けるべきではないのかもしれない。
なぜならそれは"フェア"ではないから。
そう、聖にはそういう部分がある。自分の基準で物事を判断してしまう癖が。
かつて聖に強く当たっていた本田という少年が異常領域に呑み込まれた時もそうだった。嫌いな相手だったけれど何も死ぬほどのことはないと捜索を続けようとした。
だから今も聖は状況を見極めようとしていた。
だがどうも事態は厄い方向へと進んでいる様に見える。
牧村は押し倒され、四肢を男たちに抑えつけられていた。
更には服を切り裂かれ──
男たちの会話が断片的に聞こえてくる。
「まずは右耳だ」
「そしたら一発犯す」
「そのあとは左耳」
その言葉を聞いて聖は理解した。
あれが一方的な暴力で、陵辱で、そして快楽のための破壊であると。
──これはちょっと違うような気がする
そう思った聖は黒い和傘を握りしめ、物陰から足を踏み出した。
◆
「あ、あのっ……」
尾崎は動きを止めゆっくりと声のした方を振り返った。
そこに立っていたのは一人の少年だった。
まだ高校生くらいだろうか。華奢な体つきでどこか頼りなさげな雰囲気を漂わせている。その右手には場違いな黒い和傘が握られていた。
「あ?」
尾崎の口から低く唸るような声が漏れた。
部下たちも一斉に少年を見る。その目には明らかな敵意が宿っていた。
「なんだ、てめぇ?」
一人が凄むとその声に少年──御堂聖はびくりと肩を震わせた。
その顔には明らかな恐怖が浮かんでいる。
だが聖は逃げようとはしなかった。
震える足で一歩前に出てそしてはっきりと言った。
「もう、十分じゃないですか?」
聖は良い言い方をすれば、善性の人間だ。
悪い言い方をすれば甘っちょろいとも言える。
尾崎の様な人間に十分などという言葉はないのだ。
だのに、聖はこの期に及んで眠くなる様な事を言っている。
お人よしにもほどがあり、こんな人間はこの魔都では早々に死ぬだろう──まあ、一般的には。
だが、聖は善性の人間だったとしても──




