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お姉さんと僕  作者: 埴輪庭
第3章

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第3話「日常㉔(御堂 聖)」

 ◆


 僕は切り落とした蜘蛛の足の肉と桃の缶詰をリュックに詰め込み、池袋の郊外にあるマンションへと戻った。

 十階建ての廃墟──まあ廃墟といってもマンションが崩れているとかそういうことはない。

 単に人がいないだけだ。

 そのマンションの七階の一室が僕が勝手に寝床にしている部屋だ。


 高層階は比較的安全なのだ。怪物が余り入り込んでこない。


 怪物──まあ怪物なんだろう、やたらと大きいゴキブリとか蠅とか。

 今や最悪の治安と化した東京には、お化けとか妖怪とか暴徒とかそういうものばかりではなくて、クリーチャーじみたモノもいる。


 代表的なのが巨大化した虫だ。


 たかが虫と侮るなかれ、平気で人に襲い掛かってきたりする。

 あのお店で出くわしたような女の蜘蛛ほど危ないわけでもないけれど、それでも危険だ。


 エレベーターは動いていないから階段を駆け上がる。

 そして自分の部屋(?)のドアをそっと開けた。


「ただいま」


 返事はない。


 その代わりべちゃりと天井から黒い塊が落ちてきた──クロだ。


「クロ、お留守番おつかれさま」


 僕の足元に落ちたクロは、ぶるりと一度大きく震えた。

 黒いゼリーのような体が波打つ。


 ──どういたしまして、って感じかな? 


 部屋の隅にはこれまで集めた中身入りのペットボトルが並んでいる。

 あとは缶詰の山。それに乾パンとか。

 全部で三週間分くらいかな。


 クロを留守番においているのは、こういう物資を奪いに来る人間がいるからだ。


「はあ、それにしても──」


 僕は窓の外から空をみあげた。

 時間的には夕方にさしかかっているはずだけれど、今の東京は朝もなければ昼もない。

 ずっとこうなのだ。


 一面に広がる紫色の空を見ていると気が滅入ってしまう。 

 本当に──世界がこうなってしまって、良いことなんて全くない。


 茂さんや悦子さんとは、"あの日"の後の大混乱の中ではぐれてしまった。

 池袋駅のホームで、人の波に呑まれて。


 最後に見た悦子さんの青いコートが、今でも瞼の裏に焼き付いている。


 アリスや裕がどうしているかも分からない。

 生きているのか、それとも──。


 基地局が死んでいるため、スマホもPCも文鎮と化してしまっている。

 ああ、でも"あのサイト"──世界中の異能者が集うという、不思議な掲示板だけは違う。インターネットとは別の何か──異能そのものが作り出したネットワークなのかもしれない。そこで拾った知識のおかげで、蜘蛛の肉が食べられることも、怪異の習性も学んだ。


 ただその掲示板を見るにせよスマホかノートパソコンが必要だから、四六時中みているわけにもいかない。

 手巻き充電器みたいなものも探したけれど、そういうものは既にほかの誰かが持って行ってしまっていた。

 手元には小さいモバイルバッテリーがあるけれど、これもあと何回使えるか。


 こんな世界、不満しかない。

 早く元に戻って欲しい──けれど、クロのことや傘の子のことが、なんとなく分かるようになったことは良い事かもしれない。


 彼らの心の動きというか、言葉じゃない何か。

 水の中を泳ぐ魚の動きを水面の波紋から読み取るような──そんな感覚が、僕の中に流れ込んでくるのだ。

 皮肉にも、こんな世界になってしまってから僕の感覚は鋭くなるばかりだった。


 ふと腕時計を見ると、午後5時を回った所だった。


 ──今日も確認しなきゃ


 僕は床に座り込み、クロを両手でそっとすくい上げた。

 そしてひんやりとしたゼリーみたいなクロを自分の額にそっと押し当て、意識を沈める。

 深い水の底に潜っていくように、ゆっくりと。


 すると──


 ()()()()()()()の視界が、僕の脳裏に流れ込んできた。


 ◆


 よかった、無事だったみたいだ。


 茂さんと悦子さんが見える。

 ぼんやりとした像。

 まるで曇りガラス越しに見ているような、あるいは水槽の向こう側を覗いているような。

 輪郭は揺らぎ、色は滲んでいる。


 声は聞こえない。

 でも、二人が動いている。

 話している。


 生きている。


 僕はあの日の事を思い出した


 ・

 ・

 ・




 "あの日"の夜。紫色の空が東京を覆った。


 まるで巨大な傘が開いたみたいに、空全体が不気味な光に染まった。

 そして──街中に怪異があふれ出した。


 マンホールから、ビルの隙間から、電車の車両から。

 街中にサイレンが鳴り響き、霊異対策本部の機動隊も出動したけれどまるで事態を収拾できない。


 街は東京から逃げ出そうとする人々でごった返していた。

 車は渋滞で動かず、電車も止まった。


 みんな歩いて、走って、這いずって。

 僕たち三人もその巨大な濁流の一部だった。


 そんな中、西武線がまだ動いているっていう情報が流れてきた。

 それが正確なのかどうかを確かめる猶予は──その時にはなかった。


 そして駅で。

 人、人、人。押し寄せる波。叫び声。子供の泣き声。

 誰かが転んで、踏みつけられて。


 僕は茂さんの手を掴もうとしたけれど届かない。

 悦子さんの青いコートが、人波の向こうに消えていく。


 その瞬間──クロが二つに分かれた。


 黒い塊がまるで細胞分裂するみたいに、ぐにゃりと伸びて、ちぎれて──片割れが悦子さんのバッグに滑り込んだ。

 それが僕が見た最後の光景だった。


 それにしても、二人は今どこにいるんだろう。

 はぐれてすぐ探し回ったけれど見つからなかったのだ。


 少し前に韓国でイベントの日に人が集まり過ぎてとある坂で将棋倒しの大事故が起きた事があったけれど、その時の中継でみたような何百何千、もしかしたら何万もの人が集まっていたと思う。


 ◆


 クロの視界から見えるのは知らない部屋の壁だった。

 白っぽい壁紙──どこかのアパートか、それとも避難所か。


 もっとはっきり視たい。二人の声を聞きたい。


 でも──


 胸が苦しい。


 長く視ようとすると、肺が縮むような感覚に襲われる。


 限界が来て、クロとの接続を切る。


 現実に引き戻された僕の額からは汗が大量に流れていた。

 心臓もドクドクと脈打っている。 


 クロにこんな力があるなんて、最初は知らなかった。


 はぐれてから数日後のことだ。

 廃アパートの隅で、僕は膝を抱えて座っていた。


 悦子さんと茂さんのことを思うと、胸が締め付けられて。涙が出そうになって。

 そんな時、クロが僕の顔の上に乗ってきて──そして二人の姿が頭の中に浮かんだのだ。


 まあ、そんな感じだ。


 ちなみに元の家には戻れない。

 少なくとも今は。


 でも、あの辺り一帯は怪異の巣になっていた。

 一体や二体ならどうにかなるかもしれないけれど、さすがに今の僕じゃあ無理だ。


 お姉さんの力があれば──


 そう思わなかったと言えば嘘になる。

 でも、お姉さんは「今は我慢なさい」と言っていた。

 きっと理由があるのだろう。


 早く二人と逢いたい。


 東京は狭いようで広い。でもこんな状況じゃ、生きている人間が集まる場所は限られている。

 水があって、食料があって、怪異から身を守れる場所。

 そういう場所できっとまた会える。

 僕はそう信じることにして、クロを額からそっと離した。


 ──どのみち東京全部が異常領域になってしまって、都内からは誰も出られないみたいだし……


 そう、僕らは逃げられないらしい。

 らしい、というのは確かめた事がないからだ。

 少なくとも“掲示板”ではそう教えられた。


 それにだ。

 移動するだけでもリスクがあるし、なにより茂さんと悦子さん、それに裕やアリスの安否も確かめないうちに僕だけ逃げるわけにはいかないじゃないか。

 

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