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お姉さんと僕  作者: 埴輪庭
第2章

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第3話「水底の誘い①」

 ◆


 登校中、僕は普段より神経質に周囲を確認していた。


 少しでも異常があれば──例えば空が暗くなり始めたり、あきらかに奇妙な現象が起きたりしたらすぐに逃げるつもりだ。


 ここ最近は物騒だし……


 でもいつもと変わらない朝だった。


 どこかのお店がシャッターを開ける音、遠くで吠える犬の声、自転車のベルの音。


 この分なら朝から何かに巻き込まれるってことはなさそうだな。


 そんな事を思っていると、スマホが震えた。


 裕からのメッセージだった。


『今日の数学、宿題やった?』


『やったよ』


『マジか。俺まだ』


『また写させてって言うんでしょ』


『バレた』


 くだらないやり取りに、つい口元が緩む。


 昨日のクロの芸を動画に撮ったやつも送ろうかな──そんなことを考えながら、人通りの少ない裏道に入った。


 ここを通れば五分は短縮できる。


 今朝はクロに構ってたら少し家を遅く出るハメに……まあ僕が全面的に悪い。


 古いアパートと倉庫に挟まれた細い道。朝のこの時間はほとんど人が通らない。


 ふと、足元に違和感を覚えた。


 マンホールの蓋が──


「危ないな」


 十センチほどずれている。


 重そうな鉄の蓋が斜めに浮いて、黒い隙間が口を開けていた。


 通報したほうがいいかな。


 でも遅刻しそうだし……まあ、とりあえず避けて通ろう。


 マンホールから距離を取るように、道の端に寄る。


 その瞬間だった。


 ずるり。


 何かが──


 隙間から、緑色の何かが稲妻のような速さで飛び出した。


 ぬめりを帯びた、鱗のある腕。


 人間の腕とは明らかに違う。指は水かきでつながれ、爪は鉤のように曲がっている。


 その腕が僕の右足首を鷲掴みにした。


「え──」


 何が起きたか理解できない。


 イタズラ? 夢? 


 冷たい。濡れた何かが肌に張り付く感触。生臭い匂いが鼻をつく。


 次の瞬間、信じられない力で引っ張られた。


「うわっ!」


 体が前のめりに倒れる。アスファルトに手をついた。ざらついた地面で掌を擦りむく。


 でも痛みなんて感じている場合じゃなかった。


 ずるずると、体が引きずられていく。


 まるで巨大な釣り針に引っかかった魚みたいに。人間業とは思えない──いや、これは人間じゃない。


「やめ──」


 アスファルトに爪を立てる。でも全然歯が立たない。爪が剥がれそうなくらい必死にしがみついても、体はずるずると後ろに引きずられていく。


 イヤホンが耳から外れて、カラカラと地面を転がった。


 さっきまで聴いていた音楽が、遠くでかすかに鳴っている。


「助け──」


 叫ぼうとした。でも声が出ない。恐怖で喉が締まっている。


 振り返る。


 マンホールの黒い穴が、大きな口みたいに開いている。


 そこに向かって、僕は引きずられていた。


 嘘だろ。


 こんなの──


 上半身がマンホールの縁にぶつかる。ゴツンという鈍い音。肋骨が軋む。


 そのまま、頭から穴の中に引きずり込まれた。


 そして──


 暗い。


 真っ暗。


 落ちていく感覚。でも落下というより、何かに引っ張られて降りていく感じ。


 壁に何度も体をぶつける。


 最後に見えたのは、マンホールの向こうの青い空だった。


 ◆


 ゴボゴボという水の音で目が覚めた。


 ──覚めた? 気を失ってたのか。


 全身が痛い。特に右の肩と腰がズキズキする。


 冷たい。


 制服がびしょびしょだ。下水の汚い水が染み込んで、体温を奪っていく。


「うっ……」


 鼻をつく悪臭。腐った卵と生ゴミと、それに何か別の──獣臭い匂いが混ざっている。


 吐きそうだ。


 暗闇の中で体を起こそうとする。


 でも上手く力が入らない。手探りで周囲を確認すると、ぬるぬるした壁と、足首まで浸かる汚水。


 ここは──下水道? 


 東京の地下深くに張り巡らされた下水道。その奥深く。


 なんで僕がこんなところに。


 さっきの腕は何だったんだろう。


 考えられるのは異常領域だ。


 でもこれまで経験したものとは違う。


 世界そのものが塗り替えられるような、あの感覚がない。


 ──つまり異常領域じゃないって事……?


 だったらなんだというのだろう。


「誰か……」


 声を出してみる。でも湿った空気に吸い込まれて、すぐに消えてしまう。


「助けて!」


 今度は大声で叫ぶ。


 でも返ってくるのは、自分の声の反響だけ。


 助けて、けて、て……


 暗闇の中で響く自分の声が、余計に恐怖を煽る。


 立ち上がろうとして、足が滑った。汚水の中に尻もちをつく。


 冷たい水が腰まで浸かる。気持ち悪い。早くここから出ないと。


 でもどっちに行けばいい? 


 真っ暗で何も見えない。


 スマホ──スマホがあれば光が。


 震える手でポケットを探る。


 あった。


 水没してないといいけど……恐る恐る電源ボタンを押す。


 画面が光った。


 よかった、無事だ。


 薄明かりの中で周囲を照らす。


 コンクリートの壁、天井から垂れ下がる配管、そして延々と続く水路。


 やっぱり下水道だ。


 でも──


 ぞわり。


 背筋に悪寒が走る。


 何かがいる。


 暗闇の向こうに、何かが。


 ちゃぷ。


 水音がした。


 僕が立てた音じゃない。


 ちゃぷ、ちゃぷ。


 規則的な水音が近づいてくる。


 スマホの光を向ける。


 何もいない。


 でも音は確実に近づいている。


 逃げないと──


 立ち上がって、音と反対方向へ走ろうとする。


 でも足場が悪くて思うように進めない。水の抵抗と、ぬめる床に足を取られる。


 後ろを振り返る。


 まだ何も見えない。でも──


 ギ、ギギギ……


 歯ぎしりみたいな音が聞こえてきた。


 いや、歯ぎしりじゃない。


 もっと不快な、生理的に受け付けない音。鳴き声? それとも──


 水面に波紋が広がる。


 何かが、水の中を移動している。


 複数。


 たくさん。


 心臓が早鐘のように打つ。逃げろ、早く逃げろと本能が叫んでいる。


 でも足が動かない。


 恐怖で体が硬直している。


 そして──


 ぬらり。


 スマホの光の端に、それが現れた。


 河童だ。


 でも、昔話に出てくるような愛嬌のある姿じゃない。


 目は濁った黄色。光がないのに、ぎらぎらと不気味に光を反射している。腐った魚の目みたいだ。


 口からは絶えず泡と涎が垂れている。歯は鋭く尖って、ところどころ欠けている。


 体は緑というより、どす黒い。鱗がところどころ剥がれて、その下から膿んだような肉が見えている。


 頭の皿は乾いてひび割れ、端が欠けている。


 ギギギギ……


 また、あの音。


 よく見ると、顎が左右にずれながら動いている。


 歯と歯が擦れる音だった。


 しかも一匹じゃない。


 暗闇から次々と現れる。


 壁を這うもの、天井に張り付くもの、水中を泳ぐもの。


 十匹、二十匹──数えられない。


 全部が全部、狂気に満ちた目で僕を見ている。


 理性なんてない。


 ただ、飢えた獣の目。


「ひっ……」


 思わず後ずさる。


 でも後ろにも──


 振り返ると、そこにも河童がいた。


 完全に包囲されている。


 ギギギギギギ……


 歯ぎしりの音が重なって、不協和音になる。


 そして──



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