第四章 左へ
閉店三十分前、ゆうきさんはいつもお店に居る。
私がテーブルを拭いていると、ゆうきさんが声をかけてきた。
「僕さ、いつもダークモカチップフラペチーノのロースト抜きで、もりもりカスタムで頼むじゃん?」
覚えてる。バーゲンセールカスタムと心の中で唱えて、私の頬は自然と綻ぶ。マスクをしているから、ゆうきさんには分からない。
「さえちゃんは、普段どんなカスタムを頼むの?」
「私は、抹茶ティーラテ氷少なめ、ミルク多めのソイ変更かな」
「え……待って待って」
ゆうきさんは慌ててiPhoneを取り出す。
「何て言ったっけ?」
「抹茶ティーラテ氷少なめ、ミルク多めのソイ変更」
「ふんふん…」
ゆうきさんはメモアプリに入力している。
「う~ん……他は?僕、抹茶苦手なんだ」
「じゃあ、ほうじ茶クラシックティーアーモンド変更のキャラメルソース追加」
「はい!?」
驚いた顔と笑った顔――少し、悪戯してやろうかと私は思う。
「ほうじ茶クラシックティーアーモンド変更のキャラメルソース追加」
「ほうじ茶……」
一所懸命メモを取るゆうきさんを見ていると、私の心も優しい気持ちになる。
「ほうじ茶、クラシックティー……アーモンド変更……キャラメルソース追加」
「うん。これなら……多分、飲める?かも」
お気に召さないみたいだと思って、私は取って置きのカスタムを教えてあげることにした。
「じゃあ、私が元気無いときに飲んでいる特別なやつを教えてあげる」
「それ聞きたい!!」
ゆうきさんの目がきらきら光る。
「これを頼むと、皆『元気無いの?』って心配してくれるんだ」
私は、その光景を思い出しながらカスタムを唱える。
「バニラクリームフラペチーノにチョコソースとチョコチップを追加」
「……ふむふむ。これ、凄く美味しそう!!」
私、気付いたかも。
ゆうきさんは子供みたいに、好奇心に正直なのかも知れない。
「美味しいよ。頼んでみて」
「うん。ありがとう」
ゆうきさんの頷きに合わせて、チリンと鳴った。
十月二十六日――日曜日の昼過ぎ。今日は十時から十五時までのシフトだった。
裏から店内に出て、お客さんの列の最後にそっと並ぶ。
土日のどちらかは、家族揃って晩御飯を食べることが暗黙の決まりになっている。
今日は、新商品のサツマイモのケーキが出ていた。お客さんにオススメ出来るように、真っ先に食べることが私なりのプロ意識だ。
日和ちゃんにオーダーし、ケーキを受け取る。奥のテーブルでサッとケーキを口に入れた。小腹が空いたおやつの時間。
疲れた身体にほんのり甘さが染み渡る。きっとコーヒーに合うだろう。
お皿を片付け、出口に向かいバーの前を通ったところで、見慣れたシルエットが視界の隅に入った。
「お疲れ」
ゆうきさんに声をかけられた。いつの間に来ていたんだろう。
咄嗟に私は
「お疲れさまです」
と応えて、手を振り通り過ぎる。
出口を出たところで立ち止まり、私は後悔した。
折角、仕事じゃないタイミングで会えたのに、スタバのパートナーとしてじゃなく普通に話せるチャンスだったのに……。
少し、話したかったな。
「僕、臨海行くんだけど一緒に行っても良い?」
ドキンッと心臓が動き、全身を血が巡る。
そのくせ妙に頭だけは冷静で、自然に言葉を返す。
「私も臨海だから良いよ」
ゆうきさんは人混みから守る様に私の右側を並んで歩く。
肩が触れそうなその距離に、怖くて身体を引きそうになる。
離れてはいけない。この距離から離れたくない。
意識しないように……ゆうきさんは、友達。そう頭に言い聞かせる。
何を話せば良いんだろう。話したいことは沢山あったはずなのに、この場になると『これを言ったらつまらないかな?』、『あの話は、オチが無いし……』、『この話をしたら嫌われちゃうかも』とぐるぐる頭がブレンダにかけられて、喉のバイタミックスに貼り付いたフラペチーノみたいに上手く出て来ない。
きっと歩き出してから五秒も経っていない。
仕事じゃないタイミングで普通に話をしたかったと思っていた自分に『身の程を弁えるべきだったんじゃない?』と問いたい。小一時間くらい問い詰めたい。
ふわっと、優しい音色が耳を撫でる。
「これから家に帰って勉強?」
ゆうきさんが何でもないみたいな声で聞いてきた。
これなら答えられる。
毎日、看護実習でやっている日常業務だ。
だけど、看護師の仕事を分からない人にどんな言葉で伝えれば理解出来るだろう。
分かり易く伝えなきゃと
「勉強もあるけど、受け持ちの患者さんの申し送りノートみたいなのを書かなきゃいけないの」
するとゆうきさんは、知っている風に
「あー、なんか教育係の人に見せるやつ?」
と、応える。私は少し嬉しくなる。
「そうそう!」
「声かけて見てもらうやつでしょ?タイミング見計らわないと、声かけられないやつ」
「そう!『今、忙しいから後にして』って言われるやつ」
「それ、パワハラだよね」
ゆうきさんは困った顔で笑う。
「うん」
私も素直な気持ちで笑えた。
ゆうきさんは、少し考えて「何科が希望なの?」と聞いてきた。
「うん、未だ決められなくて。小児科とか内科、外科……オペ看とか」
「キカイダシ?」
――器械出し。
ゆうきさんは何故、その言葉を知っているんだろう?
臨海ターミナル駅の改札を抜け、何線に乗るか迷う。
「僕、こっち朱羽」
ゆうきさんは右を指差す。
「朱羽?」
朱羽線は駅が違う。私は慌てて「朱羽は──」
「蒼環線。さえちゃんはいつも何線で帰るの?」
ゆうきさんは軽く笑って、私に問う。
「私も蒼環線。こっち」
と、右を指差す。
二人で並んで歩きながら
「僕、七月に臨海に来たばっかって言ったっけ?」
「え?そうなの!?」
「うん。だから、まだ四カ月くらいだから臨海よく分かんねーんだ」
「そうなんだ。街口の人だと思ってた」
そう言えば、私達が初めて会ったのは七月だった。
「さえちゃん、お腹空いてないの?」
「お腹空いてるけど、家で家族と食べる約束してるんだ」
「じゃあ、誘えねーじゃん」
心臓がギュッとする。
ダメだ。驚いた素振りを見せてはいけない。ゆうきさんは友達なんだ。
「誘う気だったんかーい」
学校の男友達に言うみたいに軽く応えた。
「そりゃ、一緒に臨海ターミナル行くんだから…臨海で食べてこーぜってなるじゃん」
「ならんやろ」
ゆうきさんは、慣れた様に
「僕、ルミナスのCA4LAで帽子買う約束しているんだ」
と、話題を変える。ルミナスは分かるけど、お店の名前は知らない名前だった。
「??」
私が分かっていないことに気付き
「ルミナスのCA4LA。分からない?」
ゆうきさんは問う。
これは、正直に言って良いところだろうか?
お洒落な女の子は皆、知っているお店なんだろうか?
私は、洋服には詳しくない。ダサい女と思われないだろうか?
それでも、私は「分からない」と答える。
今までゆうきさんと話してきて、人に対しての敬意を感じていた。
きっと、馬鹿にしたりしない──私の知っているゆうきさんは、そういう人。
「じゃあ、一緒に行く?」
ゆうきさんは優しい声で言う。
「行かない。早く家に帰ってこいって言われているから」
「はーい」
ホームに電車が流れ込み、私達は電車に乗った。座る席は無い。
私は、ドアに背中を預け、ゆうきさんは手摺りを掴んで私の前に立つ。
そのまま、ゆうきさんは話を続けた。
「ところで、何でそんな大変な看護師になろうと思ったの?」
──私の夢。
「私、幼稚園の頃から看護師さんになりたかったんだ。チアだって、そう。小さい頃からの夢だったの」
それを聞いたゆうきさんの目が、温かい眼差しを帯びたのを私は見逃さなかった。
「さえちゃんって、全部の夢を現実にしてきたんだね」
「そう?たまたまだけどね」
すると、ゆうきさんの顔が真面目な顔になって
「ううん。それってさえちゃんが頑張ったからだよ」
と言った。
私はこれまでの大変だったことや辛かったこと、悲しかったことや悔しかったこと。
それらを全部、ラッピングの様に優しく包んで『よく頑張ったね』と言ってもらえた気がした。
気付いたら口が素直な言葉を選んでいた。
「そんなこと言われたの初めて」
「嘘吐け。誰だってそう思うよ」
「だって、わざわざこんな話しないし……」
嘘じゃなかった。
看護師は小さい頃からの夢だとか、チアが小さい頃からの夢だとか……初対面の頃に聞かれて応えはするものの、皆の反応は『凄いね』とか『ふーん』程度だった。
ゆうきさんの様に『全部の夢を現実にしてきた』、『それは頑張ったからだよ』なんて……自分でも気付かなかった言葉を与えてくれたのはゆうきさんが初めてだった。
「さえちゃんにとっては、普通かも知れないけれど…それは素晴らしいことだよ。カッコいい」
「ありがとう」
少し、変な空気が流れる。私からも、何か話題を出さないと──
「さえちゃんって、しっかりしてるよね。両親が厳しいの?」
その空気を察してか、ゆうきさんは別の話題に変えてくれる。
何で、ゆうきさんはこんなに自然に話を繋いでくれるんだろう。意識しているのが私だけのように感じて、気恥ずかしさを覚える。
「全然。お姉ちゃんが小学校の教師で、両親は放任主義」
「じゃあ、さえちゃんが凄いんだな。僕なんてだらしないから」
「だらしないんだ」
いつものゆうきさんを見ていると、その言葉は大袈裟な表現だと私は思う。
「部屋片付いていない人とか──」
「ちょっと嫌だな」
「引っ越しの段ボールが未だ部屋にある人とか──」
「七、八、九、十……」
「指折り数えない」
「四カ月だよ」
私達は、出会って四カ月になるんだと気付く。
「だらしない人は──」
この、私のツッコミを待つような話し方がやけに楽しく感じた。
私が緊張して上手く話が出来ないことに気付いて、ちゃんと私が会話に入れるようにリードしてくれているように感じる。
ゆうきさんを弄る言葉を選んで、彼の言葉に寄りかかる。それだけで、普通に会話が成り立つ──そんなリズム。
「ちょっと無理です」
「なんだよそれ!脈無しじゃん!!部屋、片付けます」
ゆうきさんは露骨に元気の無さそうな顔をする。
「そうしてください」
「さえちゃんは、一人暮らししたことある?」
「無いけど、来年から寮に入らなきゃいけないの。看護師寮。三交代制だから」
「三交代制?」
「うん。朝と昼と深夜」
「大変だね。じゃあ、料理とかも自分でやるの?」
「うん。ある程度は出来るから」
「部屋、段ボールのまま置いてると思うよ」
「ゆうきさんとは違って、ちゃんと片付けます」
「僕、料理しないから……調理器具とかキッチンに段ボールで入って──」
「仕舞ってください」
私は笑う。
「だって料理しねーもん。それとも、ちゃんと仕舞ったらさえちゃん料理作りに来てくれる?」
どさくさに紛れて部屋に誘う人。それでも嫌な気がしないのは、断っても平気だと私がゆうきさんを信頼しているからかも知れないなと頭の隅に浮かんだ。
「行かないから」
「ハンバーグとか──」
「作らないから」
「ダメだダメだ!!さえちゃん使ってくれねーなら、鍋とか全部捨てるわ!!」
「勿体無い」
臨海ターミナル駅に着く。私達の漫才の幕引きだ。
二人で臨海ターミナル駅に降り、人混みを縫いながらエスカレータに向かう。
途中、何度もゆうきさんは振り返り、私が連いて来ているか確認する。
私達はエスカレータを並んで下った。
「さえちゃん、何線?」
「臨海連絡線」
「ホームまで送って良い?」
「いいよ」
「初デートだから、送らないとね」
「これ、デートなの?」
デートという言葉に、少し罪悪感を覚える。
「うん。だって、街口から臨海まで一緒に来たし……家族断って、ご飯行く?」
「行けないから」
そんな話をしながら、臨海連絡線のエスカレータに乗り、二人でホームに着く。
電車を待つ間、私は決めたことがある。
これは言わないといけない。
きっとゆうきさんは私のことが好きだ。
きちんと今、伝えなきゃ――そう思うのに、喉の奥がきゅっと縮こまる。
本当は真顔で『ごめんなさい』と言うべきだと分かっている。
でもそれは、正面から胸を一発殴るみたいな真っ直ぐな痛みになってしまう気がした。
せめて少しだけ笑って言えば、冗談みたいに聞こえて、ほんの少しだけ、刃を丸く出来るかもしれない。
自分でも卑怯だと思いながら、頬の筋肉に無理やり笑顔を貼り付ける。
震える声をごまかすみたいに、わざと明るい調子で口を開いた。
「報告があります!私、彼氏居ます!」
口に出した瞬間、自分の声が思ったよりずっと軽く響いた気がして、心臓がずきんと痛んだ。
そんな報告、もっと静かに言えばよかった。
もっと真面目な顔で、『ごめんなさい』って言えばよかった。
頭のどこかでそう分かっているのに、
そうしてしまったら、本当に取り返しがつかなくなる気がして怖かった。
冗談めかした調子に逃げたのは、彼のためなのか、自分のためなのか。
考えたくなくて、私は笑ったまま視線を合わせないように床を見つめた。
ゆうきさんに嫌われる。それか怒られる。
私は必死に心をガードする。どんな言葉を言われても、早めに伝えなかった私が悪い。
すると、ゆうきさんは優しく私の心のガードに触れる声で
「そうなんだ。で、ご飯誘っちゃダメなの?」
「ダメでしょ」
そう言いながら、自分の声がさっきと同じくらい軽く響いているのが分かって、胸の奥がまた小さく痛んだ。
「でも、友達とご飯行くでしょ?」
その言葉に、一瞬だけ返事が遅れる。
友達とご飯に行くように、あなたとご飯に行けたらどれだけ楽だろう――
そんなことを考えてしまった自分を、慌てて心の中で叱りつける。
「行くけど、男の人とはなるべく行かない」
さっきまでの軽い口調で会話をしない様に、真面目な顔でゆうきさんを見る。
「彼氏嫌がる?」
「嫌がらないと思うけど──」
「僕ならぜってー嫌だけどな」
自分で誘っておいて、自分が彼氏なら嫌だとはっきり言うゆうきさんが少し可笑しくて、私はまた笑った。
「嫌なんだ」
「ヤキモチ妬きだから」
「ヤキモチ妬きなんだ」
こんなに優しいのに、恋人になると束縛とかするのかなと興味が沸いた。
ダメだ。ゆうきさんの前だと、真面目な顔で話すことが出来ない。
どれだけガードを固めても、どれだけ真剣な顔をしても『そんなに緊張しなくて良いんだよ。僕は何を言われても怒ったりしないよ』と、ずっと上のステージから温かく包まれているような余裕を感じる。
「それより、さえちゃんの彼氏って、どんな人?」
「一個下だよ」
「そっか……年下。ちゃんとしてる人?」
「うん。ちゃんとしてる」
「僕と違って、ちゃんとしてるのか」
ゆうきさんは、可笑しそうに笑う。
どうしてそんな顔が出来るのだろう?やっぱり、本気で誘った訳じゃなくて、軽い気持ちでご飯に誘ったつもりだったのかな?と、私は思う。
「さえちゃん、お酒飲める?」
「飲めるよ!」
「ビール?焼酎?カクテルとか??」
「ビールとかは飲めなくて…レモンサワーとか。私、明日誕生日で二十一歳。ゆうきさんはいくつなの?」
「それは…秘密かな」
「秘密なんだ」
「笑笑行く?」
「笑笑って、なに?」
「笑笑知らねーのか。普段、どんなお店行くの?」
分からないことに「分からない」と言える人に久し振りに出会った。
普段、「知らない」とか「分からない」と言うと殆どの人は『そんなことも知らないの?』という目で私を馬鹿にする。
だから、いつの間にか『知っている顔』をすることに慣れていた。知ったか振り。
だけど、ゆうきさんには素直に言える。
「知らない」と言っても、馬鹿にしない。『じゃあ、教えてあげるよ』という空気がゆうきさんからはっきりと感じる。これが──大人なのかな?
「学生が行くような飲み屋さん」
「じゃあ、社会人が行くような飲み屋さんに誘うね」
「まだ誘うつもりなんだ」
「部屋片付けて、さえちゃんが彼氏と別れたら誘う」
「それなら考えてあげる」
電車がホームに入って来る。
「じゃあ、気をつけて帰って」
「うん。ありがとう」
手を振って、私は電車に乗る。
私は少しの罪悪感を抱きながら、振り返ろうと思った。
どうか、ゆうきさんが本気でありませんように。
たまたま知り合いの店員さんを捕まえて、予定のついでに移動しただけでありますように。
慣れた社会人が、ノリで年下の女の子を誘っただけでありますように。
振り返ると──当たり前の様にゆうきさんは未だホームに居て私を見つめている。
咄嗟に私は手を振る。
ゆうきさんはそれに応える様に手を振り返す。
私は居ても立っても居られなくなり、空いている席に腰をかけた。
数秒してドアが閉まり、電車は左へ動き出す。
──窓から、ホームに独り立つゆうきさんが最後に見えた。




