58.ある恋の結末 -1-
目を開けると、どこだかわからない雪原にいた。見渡すかぎり人里どころか目立つような地形もなく、現在地にまったく見当がつかない。少なくともニースダンの塔近辺でないのは確かだ。
ただ、太陽の位置や天候を見るかぎり地方領ではなさそうだった。中央のどこかにはいるようだ。
「お前の足であれば、王都まで三日でつくだろうさ」
カルカーン王子が言った。
てっきりあの夜と同じように俺だけ転移させたのかと思っていたのだが、違った。王子本人も一緒にやってきている。
「どういうおつもりですか」
「すぐにわかる」
言葉少なに答えると、王子は雪面に視線をさまよわせた。
少し離れたところに足跡が転々と残っている。
「お前がカナハ・ローレン公爵代理と話し込んでいる間に移動してしまったらしいな。探すぞ」
聞いた瞬間、王子が何を探しているのかわかった。いや、何というのは正しくない。正しくは誰、だ。
「誰をですか」
わかりきっているような気もしたが、念のために聞いてみる。
「わかっているんだろう? サクラのことだ。ああ、荷物はその辺に置いておけ。ただし揺らぎの近くはやめてくれ。邪魔になるからな」
その返答で王子の狙いがわかってしまった。
「……異形が?」
「相変わらず察しがいいな。来い、探しながら話そう」
椎葉を探すという王子の提案に乗ってしまっていいものか、わずかに逡巡した。椎葉を探したあと、異形を使って王子がどのようにするつもりなのかわからない。
だが、あてどなくこの雪原をさまよっているだろう椎葉を放っておくのも寝覚めがよくない。椎葉は王都より他を知らないのだから、放置すれば確実に遭難する。
「ああ、ついでにこの枷を外してくれないか。こんなものなくとも、お前なら問題ないだろう?」
王子の話とやらも聞きたい気がして、結局王子と共に行くことにした。歩きにくそうだったので、王子の言うとおり手枷も外してやった。
「幼くして神学校に入れられたからだろうな。こと揺らぎを察知する能力と神奈備を操作する能力に関して、私は誰よりも長けている自信がある。歴代のどの王よりもだ」
足跡を追いながら王子がぽつぽつと話す。それに耳を傾けていると、やがて丸くうずくまった人影が見えてきた。
椎葉だ。歩き疲れてしゃがんでいるらしい。
「サクラ」
王子が声をかけると椎葉がこちらを振り返った。
「カーン! 礼人くんも!」
雪に足を取られて転びそうになりながらも、一目散に駆け寄ってくる。
「どうなってるの? 神奈備? を使ったら担当者の指示に従えとか言ってたのに誰もいないし、そもそもここってどこなの?」
「神奈備の行き先を書き換えた。ここはローレン公爵領ではない、まだ中央の領域だ」
「それって修道院なんかに行かなくていいってこと? やっぱりカーンが助けてくれたんだっ。これから外国とかに行くんでしょ。礼人くんは? 礼人くんも一緒だよね?」
「……いや、俺は」
答えつつ王子を見やる。
「そいつは別だ。こっちだ、サクラ。一緒にいこう」
「なんだ、別なの。だけど、そっちは何もないよ。こっちにも何もないけど」
「あるさ。とにかく行くぞ」
王子はそう言うと、椎葉の手をとって元来た方向へ踵を返した。
つまり、揺らぎの発生地点へ。
「……殿下」
一緒にいこうってまさか……異形を使って椎葉と心中しようって、そういうことか?
王子は顔だけでこちらを振り返ると、口元に笑みを浮かべた。嫌味でも傲慢でもなく、本当になんの他意もないらしい穏やかな笑みだった。
カルカーン王子がそんな顔をしているところを、俺ははじめて見た。
止めよう、止めなくてはいけない、と思っていた気持ちが急速に萎えていくのを感じた。
もうずっとこの男の考えていることがわからなかった。あれも欲しいこれも欲しいで、どうしてどちらかを諦められないのか、まったく理解できなかった。
だけどこの男が何を考えているのか、今の今、完全にわかってしまった。
二百年、三百年、いつそのときが来るのかもわからないままひとりで無為に過ごすくらいならば、いっそ今死にたいという心情に共感してしまったのだ。
なんと言えばいいのかわからず言葉を探しているうちに、揺らぎが現れるとき独特の嫌な気配があった。
少し先のほうを見れば、すっかり見慣れてしまった黒い靄が生じつつある。すでに異形の体がこちらの界に出てきていた。
「な、なにあれ……」
椎葉が呆然と呟く。
あの日のラナンと同じように青ざめた顔をしていた。
「ね、ねえ。待って。なんでそっちに行くの? あれ絶対にやばいやつだよ。ねえ、やめよう。やめようって、カーン!」
椎葉が叫声を上げた。
カルカーン王子はまるで意に介したふうでなく、ずんずんとそちらへ歩いていく。もちろん椎葉の手は掴んだままだ。
「……やめて、離してっ! 行くならひとりで行ってよ! 私、絶対にあそこには行かないんだから!!」
カルカーン王子が足を止めた。
考えなおしたのかと一瞬思った。
王子は怯えて震える椎葉を見下ろし、数秒ほどその顔をじっと眺めていた。
かと思うと唐突にその手を離し、自分ひとりで異形のほうへ近づいていく。
「……え。な、なんで、カーン。なんでそっちに行くの。行っちゃ駄目だよ。ねえ、礼人くん、カーンを連れ戻して。ねえってば」
椎葉が体を揺さぶってくる。
「……無理だ」
「なんで!? 強いんでしょ? この国で一番強くなったって言ってたじゃない。助けられるんでしょ? だったら助けてよ。カーンを助けて!」
連れ戻したところで、どうなるっていうんだ? だってその後の王子を待ち受ける境遇は……。
それならいっそ、今この場で、せめて好いた女に最期を見届けてほしいと王子が思うのは、ごくごく自然な心情だ。
頭を振る。
それで俺に止めるつもりがないと察したのだろう、椎葉は絶望したような表情を浮かべた。
そうこうしている間にも、王子は無防備に異形の元へ歩み寄っている。
やがて──




