11.昼の底、夜の底 -後-
正直、こいつの顔は見るだけで疲れる。できれば相手をせずに早く部屋へ帰りたい。そう思って無視したまま何歩か進みかけると、レオの手が伸びてきて引き止められた。
「……腕、痛いんだけど。離せよ」
こいつは信じられないくらい馬鹿力だ。だが、本人はこれでも力を入れていないと言う。騎士というのは皆そうらしいが……。
「おっと、普通に掴んだつもりだったんだけどな。でもサクラを無視するお前が悪いよ」
小馬鹿にするようなおどけた物言いに腹が立つ。言い返してやろうかと思ったが、
「礼人くん、久しぶりだけど元気そうでよかった」
椎葉のその発言に呆気に取られてしまい、口にしかけた文句が全部吹っ飛んだ。
元気そうに見えるんだ、今の状態。殴られた痣こそ顔面にはないが、クマはひどいわ顔色は悪いわおまけに痩せたわで三重苦なんだけど、椎葉には俺が元気そうに見えるんだ。
「異世界のごはんってどんなものかと思ってドキドキしたけど、案外おいしいよね。お菓子もおいしいし、太っちゃいそう」
俺には味がわかんないんだけどな。太っちゃいそうなくらいおいしいんだったら、なによりじゃん。
「……礼人くん、どうしたの? ちょっと機嫌悪い? なんで返事してくれないの?」
椎葉が顔を覗き込んでくる。
ちょっと機嫌が悪いどころの話じゃなかった。
こいつ、前に俺と会ったときになにを喋ったか覚えてないんだろうか。なんで普通に機嫌よく対応されると思えるのか、甚だ疑問だ。なかったことにしたいのか、本当にころっと忘れているのか、どっちだろう。
聞いてみたい気もしたが、それでまたあの一人称モードに入られても嫌だった。なによりこいつが泣くと王子とレオがいきり立つ。今日はもう部屋に帰りたかった。
「疲れてるんで、ほっといてくれないか」
いろいろ言いたいことはあったが、口にできたのはそれだけだった。
「あっ、ごめん。そうだよね、話し合いで疲れてるよね」
「話し合いといっても、たいしてなにも進んでいない。この分ではサクラのスマホが使えるようになるのもいつになるやらわからん」
今の路線じゃ一生無理だと思うけどな。
「そうなの……。やっぱり大変なんだ。でも、スマホが使えたら礼人くんも、その……ご家族の写真とかメールとか見れるようになるでしょ? 早くスマホが復活できるように、頑張ってほしいな……」
椎葉がちらちらと上目遣いでこちらを窺いながら言う。さも俺がスマホを使いたがってるような言い方だった。俺はスマホを取り上げられているんだけど、すっかり忘れているらしい。
それにもイラっとしたけど、
「超越者サマは家族が大好きなんだよな。そうそう。こいつ、毎晩うなされてるんだって。ママ、ママーってさ」
レオのこっちの発言のほうに、全身がぞわっと震えた。
「えっ、そうなの? 礼人くんって、マザコン? やだぁ」
「俺なんて母親にはもう一年近く会ってないけどね。殿下のお母上だって、亡くなって久しいのにさ」
「同い年だろう? それが、ママとはな」
廊下に三人の笑い声がわんわん響く。おかしいな、響くにしてもそこまで大きな声じゃないのにな。
「あ、もしかしてスマホ見られるの嫌だったのって、お母さんの写真がいっぱいあるからだったりして?」
うるさい。耳の奥ががんがんする。
「確かに、それなら見られたくないよねぇ。恥ずかしいもん。なーんだ、えっちな画像かと思ったけど、違ったんだぁ」
「……れよ」
怒りを押し殺しすぎて、声が掠れてしまった。
「えっ。なに?」
聞こえなかったらしい椎葉が、首を傾げて笑顔で俺を見返す。
……駄目だ。もう、無理。
「黙れって言ったんだよ!」
自分の声とも思えない、獣のような怒声だった。
目の前の椎葉がぴゃっと飛び上がり、口を噤む。
「……怒鳴って悪い。けど、もう無理だ。椎葉のそういう無神経なところ、付き合いきれないよ」
一度深く息をして、極力感情を押し殺してそう言った。じゃないと、またやってしまいそうだった。
「ご、ごめんなさい! 私、空気の読めないところがあるみたいで、前にも言われたことあって……。またやっちゃったのかな? ごめんなさい。直すから、嫌いにならないで。お願い、ちゃんと直すから」
……言われたことあったんだ。まあ、そりゃそうだよな。男の俺でこれだけ腹が立つんだ。これ、女同士なら余計に腹の立つパターンだろ。
「悪いけど、もう話しかけないでほしい。俺も話しかけないようにするから」
「なんでっ? さくら、ちゃんと直せるよ。ちょっと時間はかかるかもしれないけど、気をつけるから!」
ほら、泣く。で、また謎のモードに入る。こいつ、興奮すると絶対に一人称が変わって子供がえりしたみたいになるんだ。
……本当に、付き合いきれない。
「あーあ、また泣かせた。大きい声を出して女に言うことを聞かせるなんて、男として最低」レオが言う。
「サクラ、お前がこの屑男に合わせる必要などない。部屋に戻ろう、な?」こっちは、王子。
対する椎葉はその声が聞こえていないようで、
「やだよおっ! 礼人くんと話せなくなるの、やだ! 二人だけなのに! さくらと同じなの、礼人くんしかいないのに! 礼人くんがいなきゃ、さくらこの世界で一人ぼっちになっちゃうよぉ!」
まんま本物の子供のように泣き叫んだ。
その瞬間、王子が肩越しにこちらを振り返りあの竜眼で睨みつけてきた。その目に俺を殺したいという気持ちがありありと浮かんでいた。
「っ……!」
殺意たっぷりに睨まれて体が竦む。それだけで震えが止まらず、正直腰が抜けそうだった。
というか、今まさに抜けた。
情けないことにへなへなと廊下に座り込んでしまう。
「……レオ。例の話、進めておけ」
「おや、いいんですか。陛下にばれたら不味いのでは?」
「北の宮は妃殿下の件で慌ただしい。お気づきにはならないさ」
「そういうことなら、今からでもいいんですね?」
「いい。そいつの顔を見たくない。とっとと連れていけ」
「はいはい、っと」
よくわからない会話だ。北の宮がどうとか、陛下がどうとか。
そうして一通りやりとりを交わすと、カルカーン王子はこちらを一切振り返らず、椎葉を連れて去っていった。
二人が廊下の角を曲がって完全に見えなくなったところで、ようやく震えが止まる。ぷるぷる笑う膝に手をついて、なんとか立ち上がった。
「……馬鹿だな、お前。俺だってあの殿下には恐ろしくて歯向かえないのに」
レオが独り言を言うように呟いた。
友人のように気安く付き合っているのだと思っていたが、王子とレオの間にもけっこうな上下関係があったらしい。
「ま、俺には関係ない話か。それより、お前の行き先が決まったからそこへ連れていく。暴れられても面倒だし……そうだな、ちょっと落としておくか」
「は……?」
なんだ、その最後の不吉なセリフ。
意味がわかるより先にレオの手が伸びてきて、首に巻きついた。
「起きたら地獄だ。楽しみにしておけ」
なにを今更。ここ以上の地獄があるわけないだろ。
鼻先で笑い飛ばしてやりたかったが、ぷっつりと意識が途切れるほうが早かった。
礼人は普段「母さん」と呼んでいたので、うなされているときも「ママ」とは言わないはずです。
レオがかなり悪意のある言い方をしています。
彼の名誉のために念のため。




