第26話:優しい鎖
日が落ちて、夏の空は藍色に染まっていた。
赤い屋根の家に帰り着いたシェリーは、シスター・リネットに借りたスカーフを椅子の背もたれにかけると、キッチンで買った食材などをキッチンで片づけていく。ライルは一旦、家の中に荷物を運び入れてくれたが、今は外に出て鎧馬の世話をしていた。
普段ならとっくに終わっているはずの片づけが終わらない。荷物が多いのではなく、動かさなければいけない手が重くて進まないのだ。『茶色のフロイデ』で購入したパンに合う料理を作ろうと思っていたのに、そこまで行きつくとは思えなかった。
原因に心当たりはある。
記憶の片隅に追いやっていたはずの――とっくに捨てたはずの元夫の声が、今でも耳の奥に残っていた。人間が、最初に失う誰かの記憶というのは、声らしい。最初のそれさえも忘れられていないことに愕然とし、足元が揺らぐのを感じた。抜け出したはずの沼に、まだ足を取られている。小さなきっかけひとつで、また沼の底に引きずり戻されそうな不安に駆られた。
頭の中の声を追い出そうと、深く、深く、息を吐く。
(エレズがいた……?)
あれは本当に聞こえた声だったのだろうか。それとも、エラヴァンスの街に元夫が来ていると、その存在を知らされていたから聞こえた気がしただけの――ただの幻聴だったのだろうか。わからない。わからないからこそ、背後に影が迫っているような、足元が覚束なくなるような、不安と焦燥に駆られた。
鈍く痛み始めた頭を抱えれば、自然と背が丸まって、ついには立っていられず彼女はその場にしゃがみ込んだ。息が苦しい。胸の奥が、心臓かあるいは肺かが、ゆっくりと締めつけられているかのようだった。
「シェリーさん……?」
名前を呼ばれて緩慢な動きで顔を上げれば、家の入口にライルが立っている。目を丸くしていた少年はすぐに真っ青な顔になり、勢いよく駆け込んで来た。
「ど、どうしたの……!? だいじょ……うぶ、じゃない、よね……!? い、医者呼んでくる……!!」
「待って……ライルくん、大丈夫だよ」
シェリーはぎこちない笑みを浮かべながら言うと、頼りない足に力を込めて立ち上がる。傍らに寄って来ていたライルは心配そうな目で彼女を見つめていた。
「暑さのせいかな。疲れちゃった。少し休めば良くなると思う」
「ほ、ほんと……?」
「うん……すぐに夕食作るね。ただ、あまり食欲がないから、ひとりで食べてもらうことになるけど……ごめんね」
「い、いい!! 作んなくて、いいから、休んで!!」
パン屋を出る時のように――けれど、その時よりも弱い力で――背中を押される。
「あっ、片付けが――」
「お、おれがする!」
心配がゆえに慌てた様子のライルに急かされ、彼女はキッチンを出た。そのまま自分の部屋へ向かおうとし――ふと、その足を止める。自室が近づくにつれて香ってきた薬草の清涼な匂いに、思い出した。
(そうだわ、ヴァンさんに魔法薬を届けないと……)
薬草の香りのおかげか、頭の中が少しだけすっきりする。息苦しさから解放されていく。倦怠感こそ残るものの、臓腑を押し潰すような苦痛が消えていくのがわかった。
思えば、昔からそうだったのかもしれない。
尊厳を踏み躙られる、自分自身ではどうしようもない現実。自分を殺しながら、けれど、命を断つことなく生きていたのは、魔法薬師としての矜持があったからだ。魔法薬を作るために生きていた。もしかするとそれはシドニア商店に利用されている側面もあったのかもしれない。けれど、シェリーを支えていた柱であったのは、まぎれもなく事実だった。
部屋へ向かうのをやめて、地下の工房へ行く。扉の近くにあるランプに明かりを灯して、薄暗い中でヴァン専用の魔法薬を調合した。倦怠感が残っていても手元はぶれない。薬草の扱いも、魔力の注入も滞りなく、慣れた手つき進める。そうやって生成した魔法薬をゴブレットに注いで、地下の工房を出た。
(こんなところをライルくんに見られたら、もっと心配かけちゃうわね)
ライルの真っ青な顔を思い出して少しだけ歩く速度を緩めたが、素人が足音を消そうとしてみたところで、できるはずもない。将来有望な少年冒険者の耳に届かないように祈りながら、彼女はヴァンの部屋へ向かった。
ドアをノックする。中から気の抜けた「おー」という声が返ってきて、シェリーはドアを開けた。
「遅かったじゃねえか」
「そう? 買い出しの時はいつもこのくらいの時間になるわ」
彼の部屋の中には月光水草の煙草の香りが満ちている。酒の香りはしない。空き瓶も転がってはおらず、酒を飲むのはちゃんと我慢していたようだ。ベッドで上半身を起こしていたヴァンの傍に寄り、ゴブレットを差し出す。しかし、彼はそれを受け取らなかった。
「ヴァンさん?」
手を出すことなく、じっとこちらを見上げてくるヴァンに、彼女は首を傾げる。
「どうしたの? 苦いのはわかるけど、ちゃんと飲んでくれないと困るわ」
「どうしたってのはこっちのセリフだ」
「え?」
「なんだその顔」
「ちょ――」
ゴブレットを抜き取られ、枕元のサイドテーブルに置かれた。それと同時に彼の空いた手がシェリーの手首を握って、そのまま強く引かれる。咄嗟のできごとに踏ん張ることができず、身体はそのままベッドの上に――ヴァンの足の上に乗り上げる体勢になった。体調不良の人間に体重をかけてしまい、彼女は慌てて降りようとする。だが、腰に回ってきた彼の腕がそれを阻止した。
「ちょっと、ヴァンさん……」
「顔、青通り越して白いぞ」
「暑さのせいよ」
「うそつけ」
顎を掴まれ、上を向かされる。彼の腕の中、彼の顔は近い場所にあった。眉を寄せた彼の鋭い目を前に思わず息を呑む。ヴァンの目に自分が映っているのが見えた。色まではわからないけれど、自分の顔が酷く引きつっているのはわかる。彼がシェリーの言葉を一刀両断したのも無理はない。
「何があった?」
彼の普段よりも高めの体温と、耳に落ちてくる低い声が、シェリーの心をそっと撫でる。わずかに開いた口から言葉にならない微かな声が漏れて、そんなものでも、ヴァンは拾ってくれた。顎を掴む手が離れ、そのまま後頭部に回る。引き寄せられて、彼の胸に顔を埋めた。汗と、月光水草の甘い匂いとが混じった、彼の香りを感じる。
ヴァンの心臓の音が聞こえる気がした。聞いていると、不思議と、自分の心音と重なっていく。なんて、それは気のせいかもしれないけれど、そんな気のせいを起こしてしまうくらい、繋がりを感じた。大切な人の、好きな男の人の腕の中で、揺れていた心が落ちついていく。恋をすれば胸が高鳴ってどうしようもなくなると思っていたけれど、それよりも安堵が勝るのだ。
しばらく沈黙が流れたあと、シェリーはぽつぽつとエラヴァンスの街でのことを話し始める。教会でシスター・リネットに元夫について警告された。そのせいか不安がつきまとっていた。
「だからかしら……帰り際、あの声に名前を呼ばれた気がしたの。聞き間違えや幻聴かもしれない。だけど……」
そんな楽観視はできなかった。かもしれない、たらればの話だと安心することはできず、不安に苛まれていく。ライルを急かすように帰ってきたが、それでも未だに心は軽くなってくれない。
「怖くなったの」
「その元夫がか?」
「そうかもしれないけど、そういうことでもなくて……」
感情を言葉にするのは難しい。それを人に伝えるとなると余計に。眉を寄せたシェリーは、ひたいを彼の鎖骨辺りにもたれかけながら、頭の中で言葉を整理していく。
「あの人が、わたしの今の時間に干渉してくることが……踏み込んでくることが、恐ろしいのよ。壊される……ううん、そうじゃなくて……そう……穢されて、しまいそうで……」
「穢されるも何も、ンな高尚なもんじゃねえよ」
「そんなことないわ」
それだけは、はっきりと言い切ることができる。
「わたしにとって今の時間は……とても穏やかで、幸せなものなの。毎日をこんな風に過ごせるようになるなんて、想像もしていなかった」
「そうか……俺も、悪くねえぜ。今の暮らしってのは」
吐息混じりに聞こえた、呟くような声。それが本心なのか、どうなのかは、わからない。それでも、彼も今の暮らしに安寧を見い出し、同じではなくとも、重なる気持ちを抱いていてくれるなら、とても幸運なことだと思う。
言葉を探して、口を開いたけれど、何を言うわけでもなく閉じる。その言葉を紡ぐのには躊躇いがあった。再び、薄く開いた唇の隙間からは、震える吐息が漏れる。ヴァンは黙って、言葉を待ってくれていた。何度かの躊躇いののち――
「前に、ヴァンさんは言ったでしょう?」
彼にかつて言われた言葉を、思い返しながら口にする。
「未来のライルくんに、誰かに踏み躙られるような、みじめな人生を送ってほしくないって」
「それは……」
メイブの森からの帰路を思い出す。
『俺の息子が使い潰されて、みじめに生かされ、死ぬまで利用される……ハンッ、考えるだけで胸糞悪い』
ヴァンは息子のライルの性格をよく理解している。他人に対しての意見を言えないが、才能だけは突出してある少年だ。ヴァンはライルの未来が、誰かに押さえつけられて、才能を使い潰されて、利用されて、価値を貶められて、心身共にボロボロにされて、虐げられる――そんな人生を送らなくていいようにと、今、厳しく接している。
『あなたの言う、みじめな人生が――わたしの人生だったのよ』
シェリーがそう返した時、ヴァンがどんな顔をしたのか見ることはできなかった。今だって、彼の腕の中にいて、表情を見ることはできない。
「みじめな――不遇でしかない場所にいた人間にしてみれば、今の暮らしは、夢みたいな毎日の。そんなだから、ほんの少しの灯りや物音なんかの、些細なきっかけで目覚めてしまいそうで……目覚めた先では、幸せなんてないんじゃないかって……」
腰を抱き寄せるたくましい腕に込められた力が強くなる。彼女はそっと自身の手を重ねた。
「抜け出したと思っていたけれど、わたしは、まだ抜け出せていなかったのかもしれない。名前を呼ばれた……ううん、呼ばれたかもしれないって、そう考えるだけで、こんなに心が乱されるんだから……」
あの日から、もう一年だ。離婚して、故郷を出た。爽やかな夏の風と、眩しいくらいの日差しの中、解放感でいっぱいになった瞬間を、今でも覚えている。息もできないほど鬱屈とした沼から抜け出し、自由になったと思った。
でも、そうではなかったのかもしれない。今でも足首には鎖が撒きついていて、思い出した瞬間に、またあの頃の沼の底へ引きずり込まれてしまう――そんな想像を振り払えなかった。
「繋がれてんだな」
彼の言う通りだ。
「過去の居場所から抜け出すっつーのは、そう簡単なことじゃねえ」
「……ええ、そうみたい」
「そこに縛られんのが嫌なら……俺に繋がれてみるか?」
「え……?」
思ってもみなかった言葉だった。腕の中で顔を上げれば、こちらを見つめるヴァンと視線が絡んだ。彼は眉を寄せている。けれど不機嫌そうではなくて、怒っている様子でもなくて――ふ、とヴァンが口の端を持ち上げた。
「シェリー……お前が、今の俺たちの関係に名前をつけるのを躊躇ってんのは、知ってる」
「っ……それは……」
「いい。わからんでもないからな。言葉にすりゃ形になる。曖昧なままでいるのが気楽だ」
同じことを、シェリーも思っていた。
関係を明確にすることには躊躇がある。今の気楽なままの関係でいたい。始まらなければ終わることもなく、ただ波に揺蕩うような安寧の時間を過ごしていたい。身体を重ねることもあるし、お互いへの尊重もする。ひとつ屋根の下で暮らす、他人ではない距離感の相手だけれど、関係が不明瞭であるから束縛し合うこともない。
ヴァンが――冒険者が、自由を好む者たちだというのは知っている。彼のその気質が強いこともわかっていた。息子のライルの存在がなければ、家を構えて暮らしたりしない人種だろう。
だから、彼の表情や言わんとしていることに、困惑する。
「曖昧なままの関係が気楽で、新しい関係を築くのを避けてきた。でも明確な関係がないから、昔の関係に引きずられるってんなら、俺がお前を縛ってやる。鎖で繋いで、過去に引きずり込まれないようにしてやる」
「ヴァンさん……本気で言ってるの……?」
「ああ……お前は俺ので、俺はお前の……そういう関係に、なってみるか?」
彼のことが好きだと、自覚した彼女にとって、ヴァンの言葉は嬉しくないはずがない。心が大きく揺れる。けれど揺れた先――嬉しいという気持ちの反対側には、不安が残っている。
「そうなったら、どうなるの?」
「ん?」
「今よりも……幸せを、実感できるのかしら……?」
「……さあな。いい方向に進むかもしれねえし、悪い方向に転ぶかもしれねえ。どうなるのかなんて、先のことは誰にもわからねえからな。だが――」
そこで彼は言葉を区切った。絡んだままの視線を逸らせないでいると、ヴァンが動く。彼の顔がシェリーの首筋に埋もれた。そのまま抱き締められて、首に熱い吐息を感じた。
「たとえ悪いほうに転んでも、俺とお前なら、すぐ立ち上がれんだろ」
元夫――優しい幼馴染みとも、問題が起きれば協力して解決し、苦難は支え合えると思っていた――そうはならなかったけれど。
「もし俺がお前を裏切ったり、粗末に扱ったりしたら、ちゃんと止めるヤツもいる」
ライルのことを言ってるのだろう。信頼できる第三者――元夫の母親は、あたたかくて頼りになる人で、何かあれば助けてくれると思っていた――そうはならなかったけれど。
「シェリー。お前の不安を消してやれるほど、俺はできた人間じゃねえよ。コブつきで、俺の全部をやるなんてかっこつけたことも言えねえ。これから先、身体がどうなるかもわからねえ」
「そんな風に言わないで」
「だが、事実だ。明確にした関係を持つ相手としちゃ、ンないい条件の男じゃねえ」
シェリーを抱く、彼の腕の力が強くなる。
(わたしだけじゃなかったのかも、しれない)
関係をはっきりさせるのが不安で、怖かったのは。自分よりも二十歳近く年上の男の人がそんな風に思っているなんて、考えてもみなかった。そんな風に思わせているのが自分だということは、もっと、考えてもみなかった。
「そんな風に、言わないで」
もう一度、繰り返す。
そして、シェリーはヴァンの背に手を回し、抱きしめ返した。
人を信じて馬鹿を見た。それなのに、また懲りずに、人を信じて縋って、心を預けようとしている。進んだ先に何が待っているのか、関係の先がなんなのか、まったくわからない。それでもいいのだと思う時点で、彼を信じたいと思う時点で、彼の腕の中で安堵を覚えている時点で――答えは出ているのだろう。
好き、の言葉は、まだ言えないけれど。
「条件だとか、そんなのはどうでもいいの。あなたは、わたしにとって大切な人だから……曖昧なままの関係でいるのは、もうやめましょう」
「……おう」
安堵と、喜びと、不安と、困惑と――いろんな感情が入り混じる。だからだろう。目蓋の裏が熱くなって、鼻の奥がツンとして、シェリーの目から涙がこぼれた。




