第25話:似た人と『茶色のフロイデ』
聖教会のエラヴァンス支部を出たシェリーは、足早にライルとの待ち合わせ場所に向かう。
エラヴァンスの街に元夫がいるかもしれない。そう思うと言い様のない不安感で胸がいっぱいになる。シスター・リネットから借りたストールで顔を覆い隠した姿は、周囲からは夏の日差しを避けているように見えるだろう。人が行き交う街中を進むため、重い足を必死に動かせば、縺れそうになる。
(もうとっくに、過去は捨てたと思ってた)
あの家を出て、自分を取り戻し、自由を得た。もう縛られることも、虐げられることもなく、無下にされることもない。未だに味覚は戻らないけれど、それは勉強料だと思うことにしていた。振り切ったはずだったのに、こうも容易く気持ちを引き戻されるなんて――当時の、尊厳も何もなかった時間が、鮮明に脳裏に蘇る。ひたいから流れる汗が夏の暑さのせいなのか、冷や汗なのかわからない。
ライルとの待ち合わせ場所は市場の入口にある噴水広場だ。噴水の中央に座す石像は女神の忠実なしもべとされる聖獣――翼の生えた雄獅子だ。ずっと早足で歩いていたせいか心臓が激しく脈打っている。呼吸も苦しい。石像が見えてくると、噴水のヘリに腰かけるライルの姿も目に入り――その瞬間、シェリーの足が止まった。
陽光を反射させて水飛沫がきらきらとまたたいて、ライルの黒髪をこまかい水の粒が濡らしている。気温と日差しがあって暑いからか、少年は濡れるのを厭うていないようだ。彼が噴水に浸した指の周りで小さな水柱がぷしゅぷしゅと上がっている。魔力を流して遊んでいるのかもしれない。
そんな無邪気な姿が、輝いて見えて。
何故だか――無性に泣きたくなった。
ジッと見つめる視線に気づいたのかライルがこちらを向いて――目を剥いた。ばしゃんと音を立てて水柱が噴水に崩れ落ちて近くにいた人たちに水飛沫がかかる。ライルはそんなことも目に入っていないのか、勢いよくシェリーのほうへ駆け寄ってきた。
「っ、シェリーッ、さん……どうした、の!?」
「……ううん、どうもしてないわよ?」
「でっ、でも、泣いて……あ、あれ……? 泣いて、な、い……?」
「おかしなライルくん。さあ、買い出しに行きましょう」
「う、うん……」
ライルは納得したような、納得していないような、困惑混じりの顔で頷くと、市場のほうへ歩き出す。シェリーは少年の隣に並んで、まだ少し重い足を動かした。
(ライルくんが驚いて駆け寄ってくるくらい――)
泣きそうな顔をしていたのだろうか。
心配をかけてしまったのなら不本意だ。ひとつ屋根の下で暮らすこの少年には、いつも笑顔でいてほしい。無邪気な笑みでも、照れて視線を逸らすぎこちない笑みでもいいから、と。そんな風に思うのはエゴなのかもしれない。年下の彼の前では泣きたくない、折れてしまった情けない姿を見せたくない、しっかりした強い大人でありたいと思っている。
「あ、そうだ」
不意にライルがシェリーを見た。
「その、布……」
「え? ……ああ、ストール?」
「う、うん……に、似合ってるね……!」
「ありがとう。シスター・リネットに借りたの」
「そう、なんだ」
褒め言葉をちゃんと口にしたのが照れくさかったのか、ライルはすぐに前を向いてしまう。十代の男の子のかわいらしさに、つい笑みのような吐息がこぼれた。
人混みを行くシェリーは自然を装ってストールを目深にかぶる。市場で新鮮な野菜などの食料品や日用品を購入して、いつも通り、最後はパン屋に向かった。暑い季節だ。まとめ買いは避けなければならない。今晩の夕食分から明日の分まで買えれば上々である。
ライルが選んだのは『茶色のフロイデ』というパン屋だ。シェリーは初めて足を運んだが、名前は聞いたことがあった。固焼きのパンとプレッツェルが美味しいと評判だ。ライル曰く、水分量が少なく長持ちする商品が多いため、遠征先への非常食として持って行くのに重宝しているとか。
夕方には閉店するからか『茶色のフロイデ』に並ぶパンはあまり多くなかった。客も入れ違いに帰っていき、今は他に誰もいない。ライ麦パンとバゲット、最後のひとつだった評判のプレッツェルをトレイに乗せる。今日の分はもう作り終えてしまったのか、奥のパン焼き工房は明かりが落ちて人がおらず、カウンターで接客をする男性がひとりいるだけだ。
「店長、おかいけい、お願い」
ライルがパンが乗ったトレイをカウンターにおけば、カウンターの向こうで男が笑った。
「よう、ライル。ついにお前も女連れで来るようになったか」
「おんな……ち、違う!」
どうやらライルと店長は顔見知り以上の間柄らしい。彼の年齢は三十代前半といったところだろう。実年齢は親子ほど離れているようだが、彼の軽薄そうな雰囲気のせいか兄弟のようにも見える。
「そ、そういうのじゃ、ない!」
「って言う割には顔真っ赤じゃねえの」
「それは、店長が、ヘンなこと言うから!」
からかってくる店長に、ライルが噛みつく。その光景はクラム親子のやり取りを見ているようだった。口を挟まずに様子を見ていると、男は「悪い、悪い」と、やはり軽い調子でライルに謝る。そしてその目をシェリーへと向けてきた。
「初めて見る顔だから気になっちまってな」
「シェリー=グリーンです」
名乗れば店長が笑った。
「シェリーさんか。俺はリンク。元々は冒険者やってて、ヴァンさんには何かと世話になってたんだ。引退した今でもたまに顔見に来てくれてな。あんたのことは聞いたことがある。同棲してるんだって?」
「同棲じゃなくて同居ですね」
「似たようなもんさ。他人同士も長く過ごせば家族みたいなもんだからな」
「まあ……夫婦も元は他人ですからね」
今、そんなことを言いたくはなかったが、話の流れでしかたなくそう口にする。表情に出てしまわないように気をつけていると、ライルが「リンクさんも、してたんだ」と口を開いた。
「このパン屋の、ばあちゃんと……同居? 同棲?」
「どっちでもいいさ。気難しいとこはあるが、懐のデカい、いい女だったからな」
リンクがおかしそうに笑って、それから、店内をぐるりと見渡しながら目を細める。
「怪我で冒険者をやってられなくなってな。やさぐれて、自暴自棄になってたところを、拾ってもらったんだ。パン作りも仕込んでもらって、おかげで今じゃ一端の職人さ」
「美味しいパンだって聞きました」
「ああ、自慢の味だ。あんたも気に入ってくれればいいが」
その言葉に咄嗟に返事が出てこず、シェリーは微笑むだけに留まった。そして視線を逸らし、カウンターの向こうに写真立てが置かれていることに気づく。白いエプロン姿の七十代ほどのふくよかな女性と、少しだけ若いリンクがふたり、茶色のフロイデの入口を背にして映っていた。
シェリーの視線に気づいたのだろう。彼はちらりと後ろを見て、肩を竦めた。
「元気が取り柄の人だったんだけどな。風邪ひいて、肺炎こじらせて、そのまま呆気なく逝っちまった」
「いい人、だった。おれが来ると……いつも、キャンディくれたんだ」
「そりゃガキへのサービスさ」
「ガキじゃない!」
「その頃はガキだったろ。子供に手作りのキャンディをやるのが、あの人の趣味みたいなもんだったからな……俺も何度か真似して作ってみたが、なーんか違うんだよ。味も色味も、透け具合も」
目を細めながら彼はぼやく。その表情はさっきも見た。浮かんでいるのは懐古心だろうか。思い出がつまった店を見渡しながら遠い目をするリンクが、一緒に暮らしていた恩人の女性のことを考えているのは一目瞭然だった。
「なんの危険もない、平穏な毎日……一緒に暮らしてると、勘違いしちまうんだよな。なんとなく、この日常がずっと続くんだって。冒険者の世界に身を置いてたんだ。人間なんか、いつどうなるかわかんねえって、知ってたはずなのに――」
「なあ、店長、おかいけいは?」
ライルが唐突に話を変える。本当に会計をしたかったのか、はたまた、リンクの表情が浮かないことに気づいたのか。おそらく後者だろう。人の感情の機微を無視できない、心優しい少年だ。
「ん? ……ああ、そうだ。今日はもう残りも少ない。安くしとくから、全部持ってってくれないか?」
「シェリー、さん……いい?」
食事の支度を一手に担っているわけではないが、キッチンにいる時間が一番長いのはシェリーだ。予定外の食料を増やすことにお伺いを立ててくるライルに、彼女は笑みを向けて「もちろん」と頷いた。そしてカウンターの向こうのリンクを見る。
「すみません。ありがとうございます」
「いんや、こっちこそありがとな。気に入ったらまた来てくれ。あんたなら大歓迎だ」
「店長! はい、お金!」
ライルがお金をカウンターに置いた。やや強めに叩きつけられたパンの代金に、リンクはふっと笑って「お前の女じゃねえんだろ?」と首を傾げる。
「俺がこなかけて問題あるか?」
「ち、違うけど……問題、ある……!」
何故かライルは慌てたように、そしてどことなく憤慨した様子で声を上げた。
シェリーは少し驚いたが、すぐに少年の反応に合点がいく。気心が知れた同居人が、恋人を作って出て行くと、困るのだろう。あるいは寂しいと思ってくれているのかもしれない。ぎこちない部分もあるが、ライルが懐いてくれている感覚はある。恋人だなんて、彼女にとってはありえないことだが、少年はそれを知らないのだ。
「へえ? どんな?」
「っ、い、いろいろ! だって……!」
「だって?」
「うう……っ! と、とにかく、ダメだから!」
挑発するような物言いは、ヴァンに似ている。それが余計にライルを興奮させるのだろう。大人げないリンクに、シェリーはつい溜め息をこぼした――
ライルに押されて茶色のフロイデを出る。普段は緊張して触れてくることもないのに、一刻も早く外に出たいらしく、少年は躊躇なく背中をぐいぐい押してきた。後ろでドアが閉まる。あまりに必死な彼の様子にシェリーは小さく笑い声を漏らした。
「ライルくん、どうしたの?」
店から少し離れ、笑いながら尋ねれば、ようやくライルの足が止まる。背中を押していた手の感触が消え、彼女は振り返った。目が合ったのは一瞬で、少年はすぐに逸らしてしまう。
「リンクさんのあれは、わたしがどうって言うより、ライルくんをからかうための――」
「だって!」
ライルがシェリーの言葉を遮った。
「だって、シェリーさん、好きなんでしょ? ……ああいうの」
「え?」
「お……オヤジに、似てる……」
雑踏に掻き消されそうな小さな声だったが、シェリーの耳にははっきり届いた。思わず、息を呑む。
どういう意味でそんなことを言ったのか、聞くべきだろうか。シェリーとヴァンの関係を知っているのか、と。知られてしまわないように気をつけていた。だが、同じ屋根の下に暮らしていれば察知される可能性もある。そんなことはわからないと、高を括っていた。あるいは、ライルのことを子供だと、性には疎いだろうと、侮っていたのかもしれない。
考えが、頭の中をぐるぐると駆け巡る。なんと言えばいいのかわからず、言葉を失っていると――
「 」
うしろから、名前を呼ばれた。
夕暮れが近づき、街は多くの人で溢れている。帰路に着く人もいれば、夜の予定がある人も、すでにひと遊び終えた人もいるだろう。大人も子供も老人も、さまざまな人間が行き交う雑踏だ。それなのに、その声は彼女の耳に届いて、鼓膜を震わせた。嫌になるほど聞いた。記憶にこびりついている、声――
次の瞬間、シェリーはライルの手を引いて駆け出していた。
「シェ、シェリーさん!?」
ライルの困惑した声が聞こえたが、返事をする余裕はない。すでに彼女の中からは、少年にぶつけられた『問い』も消えてしまっている。一秒でも早くその場を離れたかった。もう意味がないとわかっているのに、空いた手でストールを引き下げてできるだけ顔を隠す。
名前を、呼ばれた。
声変わりをする前からずっと、聞いていたのだ。顔を見なくてもわかる。あの声は――
(……エレズ――)
苦しいくらいに、心臓が脈を打っていた。上手く呼吸ができない。足が重くて、震えて、躓きそうになるが、立ち止まることはできなかった。
離婚届を書かせて、シドニア家を出た。その時は解放感から清々しい気持ちになったが、今は、ただただ、恐ろしい。エレズ=シドニアと顔を合わせてしまえば、今の平穏な日常が、何気ない幸せに満ちた充実した日々が、壊れてしまう気がした。大事なものに触れさせたくない。大事なものを見せたくない。そんな感情につき動かされたシェリーは逃げるように、エラヴァンスの街を出るのだった――。




