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魔法薬師シェリー=グリーンのパン屋めぐり  作者: 光延ミトジ
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22/26

第22話:初めての感情



 翌朝――


 藍色が広がっていた夜明けの空は次第に明るんでいき、一時間もしない内に朝が訪れる。ダイニングの窓から外を見ていたシェリーは、小さく欠伸を噛み殺すと、両腕を上げて背伸びをした。固まっていた背中の筋肉がほぐれると気持ちも落ち着き、ようやくひと息つけた。


 昨夜、彼女は一睡もしていない。


 ヴァンが食べやすいように工夫した食事を用意して食べさせ、彼の身体に合わせて調合した魔法薬を飲ませた。魔法薬に配合した素材の効能もあってか、予想通りヴァンはすぐ眠りについた。否、意識を飛ばしたと言ってもいいかもしれない。証拠に彼はその後、流れ出た汗を拭いても、部屋を出入りしても起きることはなかった。


 気が休まらないまま、夜はあっと言う間に過ぎた。


 朝になり、ライルが起きてくる。眠気まなこをこする少年に挨拶をすれば「お、はよ……」と眠たげな声で返事が返ってきた。朝食の支度をする時間だ。昨日、こんなことになるとは思わず、ヴァンの分の夜食を残しておいた。ライルにはリメイクしたものを食べてもらおう。


 温めたベーコン入りの野菜スープを深皿に注ぎ、ガーリックトーストを上に置いて、大量のチーズを乗せる。石窯に入れてチーズに焦げ目がつく程度に焼いた。シェリーには重めの朝食だが、食べ盛りのライルにとっては、眠気を吹き飛ばすごちそうだったようだ。


「い、いただきます!」

「どうぞ。召し上がれ」


 スプーンですくったひと口に、ふうふう息を吹きかけるライルを見つめる。少年は勢いよく伸びたチーズとやわらかくなったパンを口に入れたが、冷ますのが甘かったらしい。涙目ではふはふ息を吐きながら食べていた。


 手っ取り早く糖分を摂取するために、砂糖を溶かしたミルクティを飲む。味がわからない分、味を無視して必要な熱量を多量の砂糖で摂れるのは、果たしていいことなのか悪いことなのか。身体にはあまり良くなさそうだと思いながらも、彼女は味のしないそれを胃に流し込んだ。


(あら?)


 半分ほど食べたところでライルの手が止まった。ちらちらとこちらの様子を窺っている。シェリーがカップを置いて「どうしたの?」と声をかければ、ライルが眉尻を下げた。


「親父、まだ、怒ってるの……かな?」


 唐突な言葉にシェリーは目をまたたかせる。


「どうして?」

「だ、だって……これ、親父のばんめし……メシ、食べないくらい怒ってる、のかも……」


 くるりと、ライルがスプーンでスープを混ぜた。どうやらライルは、ヴァンが夕食を抜き、朝になっても部屋から出てこない理由が、怒っているからだと思っているらしい。


(ヴァンさんは、魔力核損傷のことを、ライルくんに伝えていないのかも)


 本人に確かめる必要はあるが、おそらく間違いない。だとすればシェリーが余計なことを言うわけにもいかず、かといって不安がる少年をそのままにもしておけなかった。彼女は嘘をつく。


「怒ってるんじゃなくて、二日酔いよ」

「……え?」

「昨日、飲みすぎたみたい。夜中に酒瓶を抱えて部屋に入って行くのを見たわ」


 困った人よね、と続ければ、ライルはホッとしたように息を吐いた。シェリーのついた嘘をライルは信じてくれたようだ。嘘をついて騙す小さな罪悪感はあったが、目の前の少年がつたない嘘に騙されてくれたことへの安堵のほうが大きかった。


「そ、そうなんだ……あ、でも……」

「なあに?」

「飲みすぎたのって、怒ってる、からじゃ……?」

「あれだけ飲めば、復活する頃には忘れてるわよ」

「そ……そっか!」


 今度こそ本当に心底安堵したようで、ライルは止めていたスプーンを動かし始める。シェリーも甘ったるいであろうミルクティに口をつけた。


「シェリーさんは、今日、何するの……?」

「魔法薬を調合するわ」

「忙しい……?」

「そうね。シルバーベルを新鮮な内に使いたいし、あと、教会への納品用の魔法薬も、そろそろ用意しないといけないから、バタバタするかもしれないわ。ライルくんは?」


 彼は少し考えたあと「ネカンたちの、とこ、行く」と答えた。


 ネカンというのは、ライルとパーティを組んでいる少年の名前だ。もうひとりの少年の名はロベリア。同い歳の彼ら三人は、一緒にミィンの元で学んでおり、シェリーも半年ほど前に一度だけ会ったことがある。紹介されたのではなく、偶然、街で遭遇したのだ。人見知りのライルと同居しているということで随分と驚かれた。そしてすっかり照れてしまったライルが『もういいだろ!』とふたりの少年を引っ張って行き、それ以来会っていない。


「あの、シェリーさん」

「うん?」

「シルバーベルの、採取方法……あいつらに、教えてやっていい?」

「え? ええ、いいわよ。どうしてそんなこと聞くの?」


 首を傾げて尋ねれば、ライルが「だ、だって……」と視線を泳がせる。


「あ、あれは……シェリーさんの、技術だから……」

「勝手に教えちゃダメだと思った?」


 ライルが頷く。


 専門職の人間の技術を勝手に広めないのは、暗黙の了解だ。たとえば一子相伝の術であったり、魔法の技であったり、秘匿とされるものは案外多い。シェリーの魔法薬の調合技術にしても、そうだ。基礎の部分こそ父に仕込まれたが、それ以降は教えを乞うたシドニア商店のお抱え魔法薬師の『色』が濃い。その魔法薬師は他に弟子もおらず、歳を取って引退した今は、気ままに隠居生活を送っていると聞く。彼女も弟子などはおらず、調合の場面を他人に見せることもないため、そんなつもりこそないが、技術を秘匿していると言えるだろう。


「ライルくんに教えた方法は、本にも載っていることだから、広まっても大丈夫よ」

「そ、そっか……」

「もっとも、魔法薬師や植物学者しか読まなさそうな専門書ではあるけどね。今度読んでみる?」

「……難しそう……でも……役に立つ知識が、いっぱい書いてありそうだから……読んでみようかな」

「わからないところや難しいところがあったら、なんでも聞いてね」


 彼女がそう言うと、ライルは嬉しそうに、あるいはホッとしたように目を細めた。


 冷えてしまう前にと、残ったスープを彼に勧め、シェリーもぬるくなったミルクティを流し込む。カップの底のほうの液体は少しだけざらりとした舌触りで、砂糖が溶けきっていなかった。甘さなんて感じない。虐げられて搾取されるばかりの、真っ暗な人生にいた、痕跡。こんなものが残るような人生を歩んでほしくないと思う相手は、どんなことも学ぶ意欲があり、冒険者としての道をしかと進んでいる。


 自分は何をしてやれるのだろうと、彼女は思う。どんな立場で、どんなことをしてやれるのか、いくら考えてもわからない。それでも考え続けなければならない。彼らとの縁を、いっとき限りのものにしたくないのであれば――


 ――食事を終えたライルは分担している家事をこなすと、そのまま意気揚々と家を出て行った。


 ライルがいなくなると、シェリーはヴァンの食事を用意する。人見知りでこそあるが、少年は愚鈍ではない。彼用のベーコンとポーチドエッグ、ベーコンとチーズのスープなどとは別に、胃に優しいスープなど作れば訝しく思うはずだ。チキンベースの『風邪ひきさんのスープ』は普段の食卓で出てこないのだから、誰か――シェリーは料理しているのだから、ヴァンしかいない――が、体調を崩していると考えるだろう。


 セロリ、ニンジン、タマネギなどの野菜と、ショウガやローリエなどのハーブ類、滋養強壮効果のある薬草、裏越ししたトマトを、骨付きのチキンをベースにしたスープで煮込む。味つけは塩とコショウ。太めのパスタを加えてもいいが、今のヴァンは食べられないだろう。魔力核の異常は周辺の臓器の働きを鈍くするのだ。


(味はわからないけど――)


 独特な風味があるとされる薬草は使っていない。優しい味のチキンスープに仕上がっているはずだ。調合した魔法薬が入ったゴブレットと、チキンスープが乗ったトレーを持ってヴァンの部屋へ向かう。トレーを片手で持ってドアのノブを回してから、トレーを両手で持ち直すと、身体と足を使ってドアを開けた。足でドアを閉めて、ベッドを見ると――


 薄らと目を開けたヴァンが、口の片端を持ち上げている。


「器用なモンだな」


 どうやら足癖の悪さを全て見られていたらしい。


「そうでしょう。平民だもの」


 バツの悪さをひた隠し、貴族のお嬢様ではないのだからおかしくはないと開き直った。身体を横たえたままヴァンがおかしそうに笑い、それで身体が引きつったのか「痛てて」と声を漏らす。シェリーはハッとして、彼の傍らまで進んだ。サイドテーブルに食事と魔法薬を置き、ヴァンの顔を覗き込む。


「痛みは酷い?」

「……いンや。夜より、ずっとマシだ」

「薬が効いてるのね。今の内に食事にしましょう」

「チキンスープか」

「口に合えばいいんだけど」


 身体を起こすのを手伝い、スープとスプーンを渡す。


「無理に全部食べなくてもいいわ。具が無理そうなら、スープだけでも胃に入れて」

「……おう」


 ヴァンが食べ始めたのを見てから、部屋のカーテンと窓を開けた。午前中はまださほど暑くない。夏の爽やかな風と、明るい日差しが部屋の中に入るのを確認して動き出す。


 一度ヴァンの部屋を出て、湯を張った洗面器とタオル、スープを作る時に沸かしておいたヤカンを持ってきた。再び足を使ってドアを開け閉めすれば、ヴァンがニヤニヤと笑っており、シェリーは何か言われる前に「ちゃんと食べてる?」と声をかけた。


「ああ。美味かった」

「薬草の味は気にならなかった?」

「あ? まあ、他のハーブと変わんねえな」

「なら良かったわ」


 スープに混ぜても問題ない薬草の種類と量を記憶しながら、持って来たものをサイドテーブルに置く。食事などのトレーもあるため、テーブルの上はいっぱいだ。具が少し残った皿を受け取り、代わりに魔法薬が入ったゴブレットを手渡す。中を見て彼は眉を寄せた。


「昨日のより、どぎつい色してねえか?」

「同じよ。暗かったから、そんな気がするんじゃない?」


 それに熱で朦朧としていたし、とつけ加える。実際は彼の言う通りなのだが、あえてそれを伝える必要はないだろう。全部飲むように伝えれば、ヴァンはしぶしぶといった様子でゴブレットに口をつけた。スープとは違い、できれば魔法薬は全て飲み切ってほしい。ジッと見ていると、目が合った。ふ、と彼が黒の目を細める。


「ンな見張んな。わざとこぼしたりしねえよ」

「……ご褒美のチョコレートがなくても?」

「ガキ扱いすんなって」


 そう言ってヴァンはゴブレットの中身を呷った。嫌そうな顔でつき出されたゴブレット受け取れば、魔法薬はきちんと飲み干されている。味の考慮ができればいいのだが、そればかりは難しい。シェリーはゴブレットと皿をまとめて置くと、タオルを洗面器の湯で濡らして硬く絞った。


「身体を拭くから、服を脱いで」


 昨夜のヴァンは高熱で多量の汗をかいていた。明け方まで傍で見守っていたシェリーは、彼が魘されて起きる度に水を飲ませたり、ひたいや脇を冷やしたりと、甲斐甲斐しく看病をした。


(また眠る前に水分補給をしておいたほうが――)


 いいわね、と思いながら彼を見ると、動く素振りも見せずにシェリーを見つめている。上半身を起こしたヴァンは背中をヘッドボード――壁に預けており、動いてくれなければ背中を拭けない。どうして動こうとしないのだろうと首を傾げれば、ヴァンが口の端を持ち上げて目を細める。


「拭いてくれるのは背中だけか?」


 こちらをからかおうとする思惑を感じた。


「首も拭くわ」

「じゃあ、前は?」

「ええ、前も拭くわよ」

「甲斐甲斐しいな。泣けてくるぜ。だったら、下まで全部やってくれんのか?」


 低く掠れた声が色を孕んでいる。ヴァンが伸ばした手が、濡れたタオルを持つシェリーの手を取った。かさついた指先が彼女の手首に触れ、太い血管を辿るように、ゆっくり、そっと動く。ポトリと、彼女の手からタオルがベッドに落ちる。シェリーを見上げてくる男は楽しげな笑みを浮かべ、まるで遊びにでも誘うかのように手を引いた。


 熱に浮かされているのか、欲に急かされているのか、男の黒い瞳が濡れている。引かれた手は、そのまま彼の頬に持っていかれた。彼女の手は、ちくちくとした手触りのヴァンの頬を包んだ。


「口寂しいんだ」


 と、ヴァンがシェリーの親指をかじった。熱い口内からの吐息と、軽くつき立てられた歯の感触に、背筋に甘い痺れが走る。


 シルバーベル採取のために立ち寄った村の、村長の家では結局、最後まで行為を続けることはなかった。ライルが戻って来たため、互いに満足するまでには至らず、不完全なまま消した情欲はその後のあれこれの間に忘れていた。親指の爪と皮膚の間をなぞる、濡れた舌の感触。誘ってくる熱い眼差しに、忘れていたはずの情欲が心得ているとばかりに顔を覗かせて――


「自分で、拭けないくらい元気がないのなら、おとなしくしていて」


 シェリーはハッと手を引っ込める。さほど強く握られていなかったため、すぐに解放された。相手は体調不良の人間だ。誘惑に乗って流されてしまうわけにはいかない。


「その元気っつーのは俺のことか? それともコッチの――」

「ヴァンさんのことに決まってるでしょう?」


 何を言おうとしているのかは予想がついた。雰囲気を引き戻されてしまわないように、言葉を遮って先を言わせない。ジッと見据えれば――彼もようやく、諦めたらしい。溜め息を漏らして「はいはい」と気の抜けた声音で言い、背中をヘッドボードから浮かせた。


 ベッドから拾い上げた濡れタオルはすっかり冷えてしまっている。ヤカンのお湯を洗面器に足してから、再びタオルを濡らした。


 絞ったタオルでヴァンの背中を拭く。広い背中には、大小さまざまな古傷がある。優しく拭くのはくすぐったいらしく、彼は身をよじった。あまり動かれても困るので少し力を込めて拭いた。どうやらそちらのほうがお気に召したようで、身体の力が抜けるのがわかった。


 魔力核を損傷し、冒険者としての一線を退いても、彼は身体を鍛えていたのだろう。全盛期を知っているわけではないが、筋力はさほど衰えていないようだ。痛みを抑える魔法薬の煙草を常用しながら、筋力や体力を維持していたことに、一年間も気づかなかった。


(わたしたちは、お互いのことをあまり知らないのかもしれない)


 何度も身体を繋げる関係でも、互いの話はあまりしない。彼の魔力核損傷のことを知らなかったように、彼はシェリーの味覚障害のことを知らない。興味がないのではなく、詮索をしないこと、互いに引いた一線を守ることで良好な関係を――楽な関係を保ってきた。


 それでいいのかしら、と、考えて――彼女の手が止まる。


「どうした?」


 彼が首だけ振り返った。


「触ってる間にガマンできなくなったか?」


 俺は歓迎だと、笑うヴァンの頭を押して前を向き直らせる。


「馬鹿なこと言わないで」


 馬鹿なことを、考えてしまったのは、彼ではない。シェリーのほうだ。


 ヴァンのことを知りたい。互いに引いた線を消すことはできなくても、もっと近い場所に引き直したいと、思ってしまった。ただの同居人という、淡白な名目の関係で――曖昧なままの関係でいることで、均衡を保っているのに、それに疑問を抱いてしまっている。


 関係性を明確にしないからこそ、互いを尊重し、素に近い状態で接することができた。それを、ちゃんとわかっているのに。また、はっきりと名前のついた関係を結んでしまえば、雁字搦めにされて動けなくなるかもしれない。否――そもそも、彼のほうが関係を明確にすることを拒絶するかもしれない。そうなった時、もう、ここにはいられないだろう。


(苦しいもの、なのね)


 シェリー=グリーンは鈍感ではない。


 だから、初めて感じた胸の苦しさの正体は、すぐに気づいた――


(苦しいもの、なのね。誰かを好きになるのって)


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