第20話:子供たちの食卓には『謳うカタツムリ』のバゲットを
夏の日は長い。
赤い屋根の我が家に辿りついた時、時間こそ夜に差し掛かっていたが、辺りにはまだ夕焼け色が広がっていた。村から続く重苦しい空気は、帰路でも霧散することはなく、現在まで引きずっている。
ライルは暗い表情のまま、仕事を終えた鎧馬の世話をするため厩舎へと向かった。ヴァンは荷物を抱えてさっさと家の中に引っ込み、シェリーはといえば、鬱々とした気持ちで調合室に入り、採取してきたシルバーベルの処理を進めていく。
気持ちはどうであれ、やるべきことはやらなければならない。シルバーベルは鮮度が重要な素材だ。丁寧に採取して迅速に運んできた以上、その労力を無に帰す、あるいは著しく品質を損なうような真似はできない。とはいえ、沈んだ気持ちを解消できず、薄く開いた彼女の唇からは度々溜め息がこぼれ落ちていた。
(ずっと――みじめな人生だって、思われていたのかしら)
ヴァンの言葉はシェリーの胸に刺さったまま、まったく抜けてくれない。彼にそのつもりはなくとも、まるで鋭い氷柱のような言葉だった。シェリーの胸の中のやわい部分に深く刺さって、その箇所からじわじわ冷えていって、そのまま心が氷漬けになってしまったかのような――夏だというのに、あまりにも寒くて、身体の芯から凍えてしまいそうだ。
指先が震えないように気をつけながら、専用のナイフを動かした。籠から取り出したバーナヌの葉の包みを開き、シルバーベルを根と花、茎、葉に仕分けていく作業を、黙々と続ける。集中しきれていない自覚はあったが、植物を分解する手の動きは、身体が覚えていた。素早く丁寧に仕上げていく。
ひとつ、また、ひとつ――
(あれ?)
作業が終わりに近づくにつれて、彼女はそのことに気づいた。これまでに分解して仕分けた分と、籠に残った分を数えて――念のためにもう一度数えて、自身の違和感に間違いがないことを確信する。
「減ってない……」
その場にあるシルバーベルは、採取したそのままの数が残っていた。
シェリーは作業台にナイフを置く。そして両手を台について体重を乗せると、長く息を吐いた。そこにどんな感情が込められているのかは、シェリー本人にもわからない。ただ、なんとなく、張りつめていた気持ちの線が緩んだ。
姉妹の冒険者に渡したのだと思っていた。火事が起きる前の村で――ヴァンは彼女たちとの言葉遊びを楽しみ、シルバーベルを対価に夜を過ごしているのだと、そんな想像をしながら眠りについた。けれど、シルバーベルはひとつも減っていない。彼は、何をしていたのだろう。対価として渡していないだけで、彼女たちと肌を合わせていたのだろうか。
わからない。
ヴァンに聞けばわかるのかもしれないが、尋ねるための名分がなかった。ヴァンとの関係は、ただの同居人だ。身体を重ねてもいるし、信頼も寄せてはいるが、それでも関係性を表す言葉は淡白なものでしかない。けれど、これまではその淡白さが――曖昧なままの関係が、とても気楽で息のしやすいものだった。その心地良さを崩してまで、詳細を知ることが正解なのだろうか。
関係性を明確にしないからこそ、互いを尊重して、素に近い状態で接することができた。名前のついた関係に縛られて、それに雁字搦めにされて動けなかったから、再び、明確な関係を築くのは気が引ける。
シェリーはもう一度深く息を吐くと、頭を振って沈みそうになる思考から脱した。そして手に馴染むナイフを持つと、シルバーベルの分解を再開する。どんなに感情が揺れても、思考が沈んでも、ナイフの切っ先が間違った動きをすることはなかった――
――調合室を出る。そのままダイニングに足を運ぶが、そこには誰もいなかった。窓の向こうはもう暗くなっている。ライルはエラヴァンスの街の中心部へ行っているのだろう。依頼達成の報告のためギルドへ顔を出してから、食料を買ってくると言っていた。
(ヴァンさんは、部屋かしら)
帰宅して部屋に閉じこもって、出てきていないようだ。シェリーはダイニングとキッチンに明かりを灯し、ライルが帰ってくる前に食事の支度をすることにした。
村で少年が食べたいと言っていた、ベーコンのスープを作る。
常備しているジャガイモやニンジン、タマネギなどの根菜を刻んで煮込み、ゴロゴロとぶつ切りにしたベーコンと合わせた、お手軽なスープだ。じっくり煮込んだ野菜の甘味とベーコンの塩味と薫り、脂の旨味を溶け込ませれば、少量の塩での味つけでもそれなりの『味』になる。味覚がないからこそ、あまり凝った味つけはできない。そんな料理でも、食べて、美味しいと言われれば嬉しいし、また作ってほしいと頼まれれば、かわいいお願いを叶えてあげたくなる。
(気まずい食卓にならないと、いいんだけど……)
そう思いながら小鍋のスープを掻き混ぜていると、外へ続く扉が開く音がした。
キッチンからダイニングへ振り向けば、ゆっくり開いた扉から、ライルがちょこんと顔を覗かせる。三白眼の少年は目を忙しく動かして中の様子を窺っていたが、シェリーと目が合うとホッとしたかのように表情を緩ませた。
「おかえりなさい」
「た、ただいま、シェリーさん……親父、は……?」
「帰ってきてから、ずっと部屋にいるみたいよ」
「そっか……」
ヴァンがこの場にいないと確証を得たライルは、心なしか軽い足取りで、そそくさと中に入ってくる。護衛任務用にまとめていた荷物をダイニングの端に置くと、買ってきた食材が入った木の籠をテーブルに乗せた。彼の表情を見れば、父親のヴァンがいないことに安堵しているのが手に取るようにわかる。
シェリーはライルの様子に何も気づいていないフリをして近づくと、テーブルの木の籠から食材を取り出した。卵やミルクなどのほかに、バゲットが二本入っている。今夜の分はガーリックトーストにして、明日はフレンチトーストを作ってもいいかもしれない。
「どこのお店のパン?」
「えっと……『謳うカタツムリ』の、やつ……」
「知らないお店だわ」
「あ……新しく、オープンしたって……」
そうなのね、と返しながら、シェリーは食材をキッチンに運んだ。
彼女がガーリックトーストを作る下準備をしている間に、ライルは荷ほどきを済ませていた。手を洗って自分の席に座った少年は落ちつかない様子だ。
「顔を合わせるのは気まずい?」
誰とは言わないが、バゲットを切りながら尋ねる。少しして、ライルの「うん」という小さな声が聞こえた。
「おれ……ちゃんと、わかってる」
「うん?」
「なんで、親父が……怒ってる、のか……」
正面に座って真剣に話を聞けば、おそらく彼は言い淀んでしまうだろう。だからこそ、話半分で聞いている風を装い、彼女はニンニクとバター、刻んだパセリを混ぜた。
「親父は、おれに……自分の意見を、言えるようになってほしいんだ……ああしたい、とか……これはしたくない、とか……それは間違ってる、とか……ちゃんと、言えないと……冒険者として、やっていけないから」
「だから、ヴァンさんに何も言い返さなかったの?」
「……だって、何も言えない……頭に浮かんだ言葉は、いくつかあったけど……それ全部、ただの言いわけでしか、なかった……だから、言うの、かっこ悪いし……」
「そう……」
思い浮かんだ言葉を口にするかしないかの判断基準は、かっこいいか否か。その感覚はシェリーにはピンとこないものだが、十代の男の子とはそういうものなのかもしれない。
混ぜたペーストを切っておいたバゲットに塗る。そしてキッチンとダイニングの間にある石窯で、表面がこんがりするくらい焼けるのを待つことにした。その間に小鍋のスープに卵を落とす。
「知らない人と、話すのは、緊張する。ドキドキして、頭の中にある言葉の、半分も言えない……怖いとか、そんなのじゃないけど……身体も、固まっちゃう……」
「うん」
「ミィンさんにも、良くないって言われたんだ」
ミィン――ライルの指導者で、ヴァンの古くからの友人だという冒険者とは、まだ会ったことがない。けれどクラム親子の会話の中で何度も出てきた名前で、彼らが信頼している人物だと認識していた。
「どんなに、強くなっても……精神がこのまんまだと、利用されるだけの冒険者になるぞって……考えナシのバカでも、冒険者にはなれるけど、考えナシの冒険者は、長生きできない……将来……無口で、クールな冒険者を装うことはできても……自分の意見を言わないことと、言えないことは、違うんだって……」
ライルがぽつぽつ時間をかけて話す。
香ばしいニンニクの匂いがしてきて、シェリーは石窯からガーリックトーストを下ろした。表面の焼き色は絶妙なきつね色だ。皿に積んで、スープの様子を見る。卵はいい具合に固まっていた。深めの皿によそって、先ほど刻んでおいたパセリを散らす。
ポーチドエッグ入りのベーコンのスープとガーリックトーストを、俯き気味のライルの前に並べた。ちょうど彼の視線の前だ。
「……おいしそう」
話の脈絡も関係なく、ライルはポツリとこぼした。
「温かい内にどうぞ」
「シェリーさんと……お、親父の、は?」
「呼んできてもいいの?」
三人で食卓を囲む心の準備はできているのだろうか。それを問えば、少年は逡巡するかのように黙ったのち、小さく頷いた。
「声、かけてくるわね」
さほど広い家ではないが、少しでも料理が冷めない内にと、急ぎ足でヴァンの部屋へ向かう。
何度も訪ねて、中で過ごしたことのある部屋だ。いつものように、ドアをノックした。中から――返事はない。無視されたということはないだろう。だとすればノックの音に気づかないほど、ヴァンが深い眠りについているということになる。わざわざ起こすのも忍びなく、シェリーはダイニングに戻った。
ひとりで戻ってきたシェリーに、ライルは目をまたたかせる。ヴァンが眠っていることを告げれば、少年はホッとしたように肩の力を抜いた。もしかすると本当は、まだ一緒に食卓を囲む勇気がなかったのかもしれない。
「先に食べましょう」
「うん」
待っていてくれたライルと、ふたりで夕食を食べる。
器の底に沈んだポーチドエッグを割れば、黄身がスープに溶けだした。緊張から解放されたからか、ライルは「うわああぁぁ」と目を輝かせている。よっぽどお腹が空いていたのだろう。とろける黄身を白身と一緒に、ベーコンと一緒に、細かく刻まれた野菜と一緒に、ライルは大きな口であっと言う間に食べてしまう。
「ガーリックトーストをつけても美味しいはずよ」
あまりの勢いにくすくす笑いながら言えば、彼はバッと顔を上げた。
「!? お、おかわり、は……!?」
「あるわ。卵はないけど、それでもいい?」
「っ、うん!」
「代わりにチーズを浮かべて、融かすのはどう?」
「さ、最高……!」
緊張しいではあるが、素直で、信頼する人間には無防備な顔を見せてくれる、少年。とてもかわいらしい。彼の周りにいる人間はそんな風に思っていることだろう。このまま成長して、たとえ緊張しいのままだったとしても、周りの親切な人間に助けられ、時には反対に助けながら、生きていけるはずだ。
彼が――ライル=クラムが、冒険者の道を進まなければ。
冒険者の世界では、自分の命を天秤に乗せることが多くなる。だからこそ、自分の命や利益を優先させる人間の割合が、平穏な世界よりも増えるのだ。そんな世界で渡り合っていくための能力を、現段階のライルはあまり持ち合わせていなかった。
「ライルくんは、どうして冒険者になったの?」
減らないスープを、意味もなく掻き混ぜながら問う。
今、シェリーがライルのためにしてやれることは、さほどない。
けれど――もしも、彼が流されるように冒険者の道を進んでいるのなら、別の道があるとそれとなく示してやることはできる。実父の厳しい激情で、ぽきりと心を折られてしまう前に、道を絶たれてしまう前に、優しく穏やかに、気づかれない形で逸らすことくらいは、してやれるのかもしれない。どうせなら、少しでも早い内に――ライル少年が『魔獣の氾濫』の対処に、冒険者として駆り出されてしまう前に――
そんなことを考えながら尋ねれば、ライルはきょとんと目を丸くしたあと――頬を真っ赤にして、照れくさそうな顔ではにかんだ。
「……親父、が――」
ああ……と、ライルの答えを聞いて、シェリーは少年が進む道を、優しく方向転換させられないことを悟った。痛いほどに、気持ちがわかってしまう。
ライルは言った。
冒険者として生きる父親がかっこ良かった、と。
「シェリーさんは……? なんで、魔法薬師になったの……?」
「わたしは……」
ただ意味もなく器のスープを混ぜていたスプーンから、手が落ちる。シェリーはふうと軽い息を吐くと、自身をジッと見つめてくる少年を見つめ返し、笑みをこぼした。
「わたしも、同じよ。魔法薬師として生きた父が、かっこ良かったの」
困難でも、厳しくても、環境が良くなくても、捨てられないものはある。血反吐を吐いてでも、その道を進んだ。自分にはそれしかなくて、身を削り、時間を削り、ひたすら邁進した。親の庇護を失って、他に何もないから『魔法薬』に縋ったのではない。それもあったのかもしれないが、決して、それだけではなかったのだ。
「シェリーさんも、そうだったんだ……ど、どんな人……なの?」
「え?」
「シェリーさんの、おやじ……じゃなくて……お、お父さん……」
「父は――」
真っ直ぐな目だったから、だろうか。それとも、シェリーと同じように父親の憧憬を追って進んでいるからか、あるいは、ヴァンの言うみじめな人生を――シェリーの過去のような未来を、進んでほしくない存在だからか。なんにしても、シェリーの口が動く。
思えば、誰かに亡き父のことを話すのは、初めてのことだった。




