第15話:メイブの森・後
二人組の女冒険者――金色の長い髪を揺らした蠱惑的な女性と、よく似ているがまだ幼さの残る顔立ちをした短髪の少女――が、シェリーとヴァンの前に立った。髪の長い女性が弧を描いた唇をそっと開き、ヴァンを見つめて吐息混じりの言葉を紡いだ。
「危ないところを助けてくださって、ありがとうございました。まさかメイブの森で暴猪に遭遇するなんて思ってもいなくて……おかげで、私も妹も生き残ることができました」
「妹? ああ、姉妹の冒険者か」
「そうだよ。あたしはエミル、アネキはコニー。Cランクの冒険者なんだ」
エミルと名乗った少女は、姉を紹介してにこりと笑った。若い姉妹だ。姉のほうは二十代前半、妹のほうは十代後半といったところだろう。
姉のコニーと妹のエミルは名乗りながら二コリと笑った。二十代前半か十代後半といったところだろう。今の今まで暴猪に襲われて死にかけていたのに、怯えるでもなんでもなく、笑いかける余裕があるなんて驚きだ。若くても、さすがは冒険者と言うべきだろう。
(命の危険は日常茶飯事ってことかしら。すごいわね。冒険者って)
日々命の危険がある冒険者が、果たして、すごいのか、すごくないのか。その判断はできないが、少なくとも、恐怖で固まってしまったり、顔色を悪くしてしまったりしない彼女たちの胆力には感心した――だが、その一方で引っかかったこともある。
(助けたのはライルくんなのに……)
コニーとエミルはシェリーたちの正面に立っているが、目はヴァンへと向けられていた。彼女らが名乗る相手も、お礼を言う相手も、ヴァン=クラムだ。シェリーの存在は間違いなく視界に入っているはずだが、明らかに無視されている。そんなシェリーと同じように、暴猪の牙を慎重に切り落としているライルも完全に蚊帳の外だ。
シェリーにしてみれば、傍観に徹していた自分はともかく、実際に戦闘を繰り広げたライルに対して無礼すぎはしないかと思わずにいられない。ふたりが最初に駆け寄るべき相手なのも、ありがとうと丁寧にお礼を伝えるべき相手なのも、ヴァンではなく、暴猪を倒したライルのはずだ。シェリーがもう少し気性が激しい女なら、姉妹の行動に対して物申していたことだろう。
彼女のそんな憤りなど気づきもせず、コニーが一歩、ヴァンとの距離を詰めた。
「貴方たちも冒険者ですよね?」
「ん? ああ、そうだ」
ヴァンが無精ひげを撫でながら是と答えれば、姉妹の表情が一層明るくなる。
「この辺りにいらっしゃるということは、もしかして、シルバーベルの採取にいらしたのですか?」
「だったら?」
「私たちもそのために来たんです。よろしければ、一緒に行動しませんか?」
「そうだよ! 人数多いほうがいっぱい採れるし!」
姉の言葉に続き、エミルが名案だとばかりにパンッと手を鳴らした。八重歯を覗かせて笑った顔は無邪気で、幼くて、可愛らしい。けれど、ヴァンを見上げる目に、既視感があった。それはエラヴァンスの街の飲み屋が建ち並ぶエリアで見た、ヴァンを――男を誘惑しようとする女性らの、熱のこもった目だ。
「ね? そうしようよ!」
「悪いが、俺たちはもう帰るところだ」
ヴァンが肩を竦めて提案を退けた。それでも姉妹に退く気はないようで、もう一歩、ヴァンに近づく。少し腕を伸ばせば届きそうな距離だ。シェリーの感覚では初対面の相手に取る距離ではない。隣の彼をちらりと見るが、気にしているのか、いないのか、表情からは読み取れなかった。
「お前さんらが村へ帰るってんなら、同行してやってもいい。だが、これから採取しに行くっつーなら一緒に行く気はねえよ。二度足はゴメンだ」
「そんな……どうしてもダメなの?」
「行きたきゃ勝手に行きな。まあ、次また暴猪に遭遇したら、死ぬかもしれねえが」
「ぁ……そうですよね……でも、シルバーベルを持って帰らないと、依頼不達成になってしまいます……ランクも下がってしまうかもしれません……」
あれ、と――会話を聞いていたシェリーは、ようやく姉妹の冒険者の思惑を察する。
妙に近い距離と、彼だけに向けられる甘えたような声と視線。シェリーと近い年齢であろう彼女たちが漂わせる、『女』のにおい。ヴァンに向けられた秋波は下心があってのものだ。姉妹は相談し合うでもなく、極めて自然に、目的――シルバーベルの入手――を達成するための手段として色仕掛けを選んでいた。
(たぶん、勘違いしているのね)
冒険者の姉妹はシェリーたちが三人組の冒険者パーティだと思ったのだろう。その上で決定権を持っているであろう人物――リーダーはヴァンだと考えた。だから彼女たちはヴァンを誘惑しようとしているのだ。
シェリーは知らず知らずの内に息を呑む。
姉妹はシルバーベルという目的があって誘惑しているのだろうが、本当に、意図はそれだけなのだろうか。ヴァン=クラムは女性の目を惹く男だ。篭絡しようとするのと同時に、彼女たちに楽しもうという考えがあってもおかしくはない。冒険者の界隈で、それは普通のことなのだろうか。真相はわからないが、彼女らが自然に色仕掛けを選んだところを見ると、珍しくはないのかもしれない。
「シルバーベルを手に入れていらっしゃるのなら、少しわけていただくことはできませんか? もちろんお金はお支払いします」
「うん。あっ、でも……お金じゃない方法で払ってもいいよ?」
視線と声の抑揚で誘う姉と、ヴァンの腕に触れて直接的に惑わせようとする妹。
「……へえ? そりゃいったいどんな方法だろうな?」
心なしかヴァンも楽しんでいる様子だ。
自分と身体の関係がある男が、他の女に秋波を送られている。そのことに対して、普通は――普通の状態だったのなら、悲しみや怒りの感情を抱くのだろうか。けれどシェリーの胸の中にそんな激情はない。
壊れてしまったのは味覚だけではなかった。散々蹂躙されて踏み躙られていた心に、夫が他の女性との間に子供をつくったという事実がトドメを刺した。一度砕けてしまったものが、完全に元に戻ることなどあるのだろうか。少なくとも今、彼女の心は壊れたままだ。
たとえヴァンが姉妹の誘いに乗ったところで、あの頃の毎日よりも、悲惨な日々になることはない。仕事も収入もあって、不便のない生活ができて、何気ない会話ができる人がいて――それ以上を望むのは、なんだか、いけないことのような気がした。
沈みそうになった気持ちをすくい上げるために、深く、息を吐く。するとその時、ライルが左右の手それぞれに暴猪の牙を持って駆け寄ってきた――が、完全に近づきはせず、少し離れた場所で足を止める。理由は明白だ。初対面の人間がいて、そこに平然と割って入れる少年ではない。
シェリーは隣のヴァンを見上げる。彼は冒険者の姉妹と言葉遊びのような交渉に興じており、ライルに声をかける様子はない。シェリーは静かにヴァンの傍を離れて、目を泳がせる挙動不審な少年の元へ足を運んだ。
「立派な牙ね。重くない?」
「お、重くない……大丈夫……移動の時は、カナリアに、くくりつけるし……」
「なんだかごめんなさいね。シルバーベルも暴猪の牙も……ライルくんばかりに荷物を持たせちゃって」
「っ、いいよ! おれのほうが、力持ち、だし……ダイスよりも、カナリアのほうが、う、上にかかってる重さ、軽いから……!」
「それはそうかもしれないけど……」
ライルの言わんとすることはわかるし、彼が才気煥発の冒険者なのは知っている。それでも一緒に生活を送っている小柄な少年に、負担をかけすぎているのではないかと思った。食事などの道中の細々としたことをはじめ、採取の手伝い、戦闘、荷物持ち……多くのことをライルに任せている。シェリーはただ鎧馬に揺られて移動し、たいした苦労もせずシルバーベルを採取しただけだ。
「護衛って範疇を越えて、いろいろ任せすぎちゃってるわね。ライルくんへの負担が大きい気がする」
「そ、そんなこと、ない……よ」
「あるわ。だから、ありがとう」
お礼の言葉を継げれば、ライルは「ど……どう、いたし……まし、て……」と消えそうなほど小さな声で言った。シェリーはくすりと笑って言葉を続ける。
「報酬、いっぱい上乗せするからね」
「え……!? い、いいよ、そんなの! だって……おれにくれる、魔法薬……の、材料でしょ?」
「でも――」
「っ、じゃあ!」
彼女の言葉を遮るように、少年が声を上げた。気恥ずかしいのか、ライルの吊り上がった三白眼が、フッと逸らされる。
「帰ったら……シェリーさんの……ベーコンのスープ……また、食べたい……」
おどおどと、しかし、きちんと告げられたかわいらしいお願いに、シェリーの口元が綻んだ。父親のヴァンと接する時のような気軽さなどなく、シェリーを前にしたライルは、未だに緊張した様子を見せてくる。だが、小さくても要望を口にしてくれる程度には関係が築けているのだと思うと、つい笑みがこぼれた。
「いくらでも作るわ。次は卵も入れましょう」
「卵?」
「ええ。ポーチドエッグみたいに、割ったらスープの中に黄身がとけ出すのよ」
「うっ、うまそう……!!」
ライルの目が輝く。武骨なナイフを振り回して戦っていたのと同一人物だとは思えないくらいに、無邪気で子供らしい表情だ。
そんな彼を見つめていると、後ろから名前を呼ばれた。
「シェリー、ライル、帰るぞ!」
どうやら話はついたらしい。どんなところに決着したのかは不明だ。けれど――嬉しそうに笑うコニーとエミルの表情を見る限り、あちらにとっていいものだというのは予想がついた。譲る条件が金なのか、はたまた、別の何かなのかを、聞くつもりはなかった。
(勝手に決めたのね)
嫌な人、と……なんでもないような顔で名前を呼んでくるヴァンを、心の中で罵る。それでも鎧馬の背に跨るには彼の手を借りなければならないし、たくましい腕の中に抱かれなければ、移動することも叶わないのだ。シェリーはヴァンの手を取った――
二頭の鎧馬がゆっくりとした速度で進む。後ろからふたりの冒険者がついて来ているため、彼女たちに合わせた速さなのだろう。女性と少女の明るい話し声が聞こえてくる。何故だろう。なんとなく、後ろに意識を持っていかれるのが嫌だった。シェリーは前を行く大きな籠を背負う少年を見つめながら、鎧馬に揺られてメイブの森を出た――
――空が夕焼け色に染まった頃、シェリーたち一行は村に戻ってきた。姉妹の冒険者、コニーとエミルは拠点にしている宿へ戻って行く。シェリーたち三人はそのままの足で村長の家へ向かった。気を利かせてくれたのか、すでに湯浴みの支度がしてあり、彼女たちは順番に身を清めていく。
その日の夕食は、薄く伸ばした鶏肉を香ばしく焼き、名産のオレンジを使ったソースがかかった料理だった。ヴァンは普段よりも飲酒の量を控えているようだ。その理由に心当たりがないわけではない。
(彼の、今日の夜は長いのかしら)
酔って、寝て、朝がくる――そんな夜を過ごすのではないのだろう。蠱惑的な女冒険者たちと約束を取りつけていることは、薄々わかっていた。
味のしない鶏肉を、味のしないオレンジ風味だという炭酸水で流し込む。視線を感じてそっちを見れば、ヴァンと目が合った。シェリーはそっと、視線を逸らす。ああ、逸らしてしまったな、と思ったら気分が重くなった。鶏肉を食べても、パンを食べても、サラダを食べても、オレンジジュースを飲んでも、いちいち「うまい!」「すごい!」と感動しているライルの声が、少しだが気持ちを軽くしてくれる。
そして、その日の夜――エラヴァンスの街への帰還を明日に控える中、ヴァンはひとり、村長の家を出て行った。どこへ行くかは告げられていないが、わからないほど鈍くはない。家族でもなければ、恋人でもないのだ。彼がどこへ行って、何をしようが、口を出すことはない。
(家族だから、妻だからって、口を出せるわけではないけれど)
皮肉めいたことを考えている自分に気づき、自嘲する。考えを振り払うように、彼女は茶色の髪を何度か梳いてベッドに腰を下ろした。
「……ベッド、今夜はひとり一台使えるわね」
その言葉への返事はない。もうひとつのベッドでは、すでにライルが眠りについたところだ。部屋の灯りを落として、シェリーも身体を丸めて眠ろうとする。だが、いくら目を閉じていても、眠気はまったく、やってきてはくれなかった――




